24 無敵への道
妻の知人で、寄ると触ると喧嘩をする2人がいるのだという。ウマが合わないのだ。どんな人にもウマが合わない人というのはいるもので、何だかこの人とはうまく行かない、どうにもこの人の言動が気に障って仕方がない、そんな人は私にもいる。その昔、馬と乗り手の呼吸がぴったり合うことを「馬が合う」と言った。転じて気が合うことや意気投合することをウマが合うと言うようになり、逆の場合はウマが合わないのである。
ウマが合わない人とは、近づかずにいられるものなら近づかずにいたい。しかしそれが職場であったり家族であったりしたら、そういうわけにも行かない。なぜその人と「私」はウマが合わないのか。そこから語り起こす必要がある。「私」とカギカッコで括ったのは、この「私」こそがこの話の鍵だからだ。
ウマが合わない人がそばにいると「私」の気が削がれる。やる気満々で職場へ来たのに、その人の仏頂面を見た瞬間にげんなりとしてしまう。その人の言動が邪魔に感じる。つまりウマが合わない人は「私」の生命力を削ぎ私の仕事の邪魔をする「敵」なのである。さて、相手をカギカッコ付きで「敵」と言ってしまったからにはカギカッコ付きの「私」にも言及しなければならない。ウマが合わない相手を責め立ててばかりの「私」に責任は無いのか。ある。いや、実のところ「私」こそがすべての原因なのである。
ウマが合わない人に気を削がれている「私」は「敵」に負けている状態である。ここは「無敵」にならなければ「私」はいつまでたっても不幸である。相手がどうであれ気を削がれない「私」にならなくてはいけない。「無敵」とは敵がいない状態である。しかし2022年のいま、世界には約79億5,400万人が暮らしていて、それは自分以外の79億5,399万9,999人が「敵」になり得るということである。しかも「私」の気持ちを削いでしまうものは人だけではなく、自然災害や他ならぬ「私」自身の病気や加齢もまた「敵」になり得るのだ。ではなぜ「敵」はいるのか。それは「私」がいるからである。「私」さえいなければ「私」にとっての「敵」も存在しないのだ。
ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルは昭和の初めに大学の教師として来日して過ごした数年の間、師に就いて弓道の修行をした。長い修行を経てヘリゲルの弓から「私」が消えた瞬間、師は彼に免許を授けた。「『私』が消えた瞬間」と思われる状態のことを、哲学者で武道家の内田樹は『日本霊性論』の中で「共身体」または「自他の融合」と言っている。また、内田樹は著書『修行論』の中で「『無敵』とは『すでに敵を含んだかたちでこの世界に誕生したもの』として『私』を構想できるマインドセットのことである」と言う。
話が突然武道に振られて戸惑ってしまった方も多かろうと思われるが、つまりは「ウマが合わない相手も含めて自身の行動を設計する」という事である。敵がいて私がいて肝心の私はいつ病気や事故に見舞われるかも知れない。年だって取る。それらを全部ひっくるめて私である、というマインドセットを涵養することである。やりにくいのが当たり前の状態であり、そこを起点として物事をおこす。武道の目的は「無敵」になるために「私」と「敵」が融合して「共身体」になることである、と言うのが内田氏の結論である。これは仏教の教義とも合致する。
さて、ここまで来てウマが合わない人と渡り合って行くのがただただ大変な事だと感じただろうか。そう、大変なのだ。だからこそ人生は修行なのだ。ひとつ言える事は、自他共にあるというマインドセットを作り上げる事により、人は無敵で楽しい人生を手に入れることが可能であると言うことである。
*今週の参考図書
・『新訳 弓と禅』
オイゲン・ヘリゲル 2015年/角川学芸出版
・『修業論』
内田樹 (著) 2013年/光文社
・『日本霊性論』
内田 樹, 釈 徹宗 2014年/NHK出版
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?