#38 解き放たれて
14年前に義父の介護が必要になって愛知県から奄美大島の妻の実家へ越して来た際、私たち夫婦が入る部屋には古い荷物がぎゅうぎゅう詰めになっていて、その片付けが奄美に来て最初の仕事だった。義母が物を捨てられない性格な上にさらに物を買い込む人で、ミニマルを心掛ける私にとって奄美の家は不要物の山であった。
さっそく近所から軽トラを借りてきて市営のクリーンセンターまで何度も往復して不要品を整理した。最後の荷物を運び終えた帰途のことである。目の前を廃品回収のトラックが走っていた。その後ろを軽トラで走りながら私は「大丈夫、何をやっても生きて行けるさ」と突然何かから解放された気持ちになった。一応IT関連の就職先を見つけた上で奄美へ越して来たものの、その先に何があるのかはわからない。たとえどうなろうと農業でも廃品回収でも何でもやって生きて行くさと、そんな気持ちになった。都会暮らしを続ける中で知らないうちに自分を縛り付けていた何かから、ポーンと解放された。
それから14年が過ぎて、私は都会暮らしだった頃の自分を忘れつつある。たまに東京などへ出かけると、人の肩を避けながら歩くのが下手になっている自分に気付く。何度か人とぶつかって、ああ自分は島の人間になったのだと思う。その反面、見えて来たものもある。14年前まで私を縛り付けていた、あの「何か」だ。
都会では生きる事はとりも直さずどこかへ就職するという事と同義語である。求人サイトを見て良さそうな所を探す。生きるために畑を作ろうなどと思う人は少ないだろう。島へ来た当初、島の古老から「風の当たらない所に畑を作れ」と言われた。島ではそれが生きるための一歩なのだった。
引っ越してくる2ヶ月ほど前に、就職の面接や準備のためにひと月ほど奄美に滞在した際に、義母の畑作業を手伝った。1反ほどの畑に鍬で畝を作り種芋を植えた。その後はサツマイモを掘り、大根の若芽に土寄せをした。「ほかの所はこの時期に農薬を撒くのだけれど、ウチは完全無農薬栽培だから、その分手間をかけるの」と義母は言っていた。「子供に安全な食を」と言うのが義父の信念で、義父が動けた頃にはもっと多くの野菜を作っており、それを学校給食センターへ届けていた。ほどなくして義父は亡くなってしまったが、私は7年ほど前から食に関わるNPOで活動し、知らず知らずのうちに義父の志を継いだ形になっている。
生きることの実感は、大地への距離と相関している。奄美へ来て土に触れ生活を考える中で、突然、私は生の実感を取り戻したのだった。どんな事をしてでも生きて行ってみせるという気力が溢れた。都会暮らしの中で私を縛り付けていたもの、それは空中で誰かの腕に必死でしがみついているための緊張感であった。私にしがみつかれている誰かもまた、誰かにしがみついている。その先で誰がちゃんと大地に足を着けて立っているのかもわからない。都会で私が必死に磨いて来たものは、誰かにしがみつくための技術であったのではないか。
14年前、就職先を見つけてから島へ越して来たのだが、1年ほどでそこもやめてしまった。それからはずっとフリーランスのエンジニアとして生活している。畑作業もする。NPOの活動もする。請われればお年寄り相手のスマホ教室の先生もする。何をやったって生きて行くことは出来る。
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