10 環境は自分自身の鏡であるということ
昨年の11月から月に2〜3度、個人的に集落内のゴミ拾いをしている。これまでに8回おこなった。きっかけは、町内会長による集落内放送だ。「最近、公園等にイヌのフンが落ちています。散歩の際、飼い主の方はフンを拾うようお願いいたします」と。
集落の人たちにとって、私は「いつも犬の散歩をしている松尾さん」である。たまに一人で歩いていると「今日は相方はどうしたね?」と、必ず訊かれる。町内会長の放送を聞いた人たちの脳裏には、一斉に私の顔が浮かんだに違いないのだ。なんとも居心地が悪い。もちろん私は無実である。散歩時の愛犬の落し物は、ウンチ袋で拾って持ち帰る。しかしそれにしても、である。多くの人から疑われている事には変わりはない。ならば、集落内に落ちているウンチは、落とし主の誰彼に関わらず、すべてオレが拾ってやろうじゃないかと思い立ったのだった。
ネガティブな動機から始まったウンチ拾いは、すぐにポジティブなゴミ拾いへと昇華した。あまりにもウンチ以外のゴミが多かったからだ。1回のゴミ拾いで45リットルの袋一杯分を拾う。それでも相当な重さである。回を重ねるごとに、落ちているゴミの傾向性がわかって来た。この場所には釣り針や釣り糸、ここは弁当の容器や空き缶、ここはタバコの吸い殻、など。特定の目的の、特定の人が、特定の場所に、特定のモノを捨てている、という印象だ。
毎回、あちこちに水色のビニール袋が捨てられていた。イヌのウンチ袋だ。その都度、私は拾った。最初は草むらの中にいくつも捨てられていた。いつも港に犬の散歩に来る人が、毎回そこに捨てていたのだ。そのうち捨てられているのはそこだけではない事に気が付いた。港を囲むコンクリート塀の上、排水溝のフタの隙間に押し込んであったり、岸壁のコンクリートの割れ目に詰め込んであったり。まったくタチが悪い。どうせ捨てるのなら、ピニールになど入れずにいてくれた方がよほど良い。私には、毎日そのあたりへ、犬の散歩のために集落の外から車でやって来る人物に心当たりがあった。
ある夕方、バッタリとその女性が2匹のトイプードルを散歩させているところに行き会った。こちらも愛犬の散歩中である。その人は、まさにあの水色のウンチ袋でウンチを拾っている最中であった。愛犬家同士の挨拶のように、「こんにちは」と笑顔で声を掛けた。先方は「はっ」と、挨拶とも取れない声を出して通り過ぎて行った。その背中に向かって私は、「すみませーん、ウンチ袋、持ち帰ってくださいね。いつも拾ってるんですよ」と笑顔混じりに声を掛けた。女性はチラリとこちらを見て、また「あっ」と小声で言って駆け去って言った。以後、水色のビニール袋が捨てられる事は無くなった。
人を責めることは簡単である。しかし、そこに、ついゴミを捨ててしまいたくなる環境があった事は否めない。意味不明の盛り土、放置された草むら、割れたままの排水溝のコンクリート蓋。
ディズニーランドでゴミを捨てる人は、おそらくいないだろう。あのスタッフたちが細やかに掃き清めている姿を見れば、そんなことはとても出来るものではない。作り上げようとしている世界観の根本が違うのだ。もし、自分の集落にそれなりの世界観を持てれば、ゴミを捨てて帰る人もいなくなる。ここに、自分が仕事をする余地があると思えた。
ゴミ拾い中に集落のオジィから声を掛けられた。「もっと人を巻き込んでだな、大々的にやらんといかん」と。「ゴミ拾い」という作業を単体で見ればそれは正しいのだろう。しかし、私にはそんなゴミ拾いイベントをするつもりはない。撮影した画像、地域ごとに捨てられているゴミの傾向、ゴミの溜まるペース、それらのデータを持って、明日、公民館で町内会長を交えて小湊集落活性化事業実行委員会のメンバーでミーティングを持つ予定だ。市の助成事業を使い、持続可能な形での環境づくりをおこなうつもりだ。私の中にはすでに、多くの人が水遊びや釣り、ホエールウォッチングを楽しみに来る「小湊ビーチサイドパーク」の風景がある。そこにはゴミを捨てて帰る人などはいない。自分自身が身の回りをどのような世界観をもって作り上げて行くか、それがすべてである。
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