今の松尾の課題

大学を退学したのが今年の3月。
周りと同じように思考停止して流されるように就活したくない。しょうもない研究してバイトして卒業するのが屈辱的に感じていた。

まるで赤紙が届いたら疑うことなく出兵してしまいそうな。「はねろ!」と言われたらはねるコイキングのような。

その環境から逃げ出したかった。

一方でお金を稼いだら正解っていうような信念に従って、結果を出し続ける「SNSマーケやってます😤」みたいな生き方は、僕がやったら人間として大事な感性を失う感じがして、拒絶感があった。
「どの人生も正解ですから、いいと思いますよ!」も使い方次第で僕は気持ち悪くなった。
正解っぽいものに流される人生を嫌ってるんだと思う。

社会的な善悪に流されたくない。自分の中で善悪を判断していたい。それは僕の心からの叫び感がある。
多分僕は、「誰も否定しないようなものを積極的に掴みに行く」のを拒んでいて、それ自体を否定している訳じゃない。

難しい表現になってしまうけれど、アイドルを否定している訳ではなく、「アイドルのあの子、ホントかわいい。私もあの子みたいになればみんなに好かれるっしょ!」をしてしまうと自分のことが嫌いになっちゃうだけ。

可愛ければ正義、お金があれば正義、影響力があれば正義、優しければ正義。
その哲学に裏打ちされたロジック的な言葉や行動。
全てが虚しく思う。

かといって、何も言わず、何も考えず、目の前にある現実をただ消費し続ける生き方も受け入れることはできなかった。今もそんな生活をすると心を失ってしまう。

きっと僕は「誰も傷つけない」だとか「頭が良い」だとか「恋愛対象としてモテる」だとか、そういう大半の人から見て「正解っぽいもの」を受け付けないのだと思う。

そこに“その人らしさ“の総意が含まれている感触がしないから。周りが言っているから、数字が物語っているから、納得できる理由を言い返せないから、そんな「誰がなんと言おうが」を僕の人生の大事な核の部分から締め出す。

僕は小学生の頃、よく惨めな思いをしていた。今もちょくちょくある。自分が周りに受け入れてもらえる感触がなくて、選ばれる気がしなくて、実際僕が喋ると明るく楽しんでいた周りの人たちが白けて、それを見て自信がなくなってしまった思い出。水を差すっていうのかな。多分空気を読むのが得意ではなかった。今も集団の空気にはなかなか馴染めない。

こうやって書くとどうしようもない空気読めない奴に見える。けれどこれは一方で強みだとも思う。周りの空気に溶け込むという選択肢が自分の中から無くなるってことは、自分の世界観で勝負する選択肢が輝いて僕の目の前に横たわっている。

僕の課題は自分の価値観を貫き通せるか。
そのために必要なのは自分を信じられること。
やっぱり誰かが言ったことよりも本人が感じたことに価値があると信じてる。
「正解っぽいもの」は僕の人生において、本当につまらない。

矛盾があってもいい、ロジックが通っていなくても良い、社会的に見れば間違っていても良い、それでも僕が絶対に正しいと思えることを見せつけたい。
その上で、目の前の人の人生に影響を与えていきたい。

僕は僕の足で確かにこの世界を生きている。その実感を少しずつ大きくしていく。その経験を通して、確信めいた事柄があれば、それを社会にアウトプットして、真価を問いたい。

僕は僕を信じてみたい。今は抽象的で良い。自信があることしか今後もやっていく気はない。

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