無意識の法則の次元と意識的制度の次元と実務的運用の次元——なぜMMT派との議論は噛み合わなくなるのか
2月は「ウェブ発信強化月間」などとほざいたはいいが、今これを書き出したのが、はや月末28日。結局、最初の6回連続投稿(1回目リンク)のあと、なんだかんだで先が続かず、前回、今さらタイミングが遅れまくった首相施政方針演説分析の記事を投稿しただけになっています。
かっこがつかないから、ともかく今日28日のうちに一本あげないとと思って書き出したわけですが、たぶん今日中にはできないでしょうね。(結局、できたのは3月2日になった。)
このかん秋学期のあいだ、いろいろノート記事にして私見を投げかけたいと思う出来事は多かったのですが、忙しくて無理だった。そんなことが実はいっぱいたまっています。
今回は、いまさら取り上げたら、施政方針演説どころではないタイミングの遅れになりますが、とりあえずずっと気になっていたことを一つ。
「税は財源ではない」と国葬批判の足をひっぱる議論
「税金を無駄なことに使うな」に噛み付く人たち
何のことかと言うと、安倍さんの国葬問題のときに、「われわれの税金をそんな無駄なことに使うな」という主旨の批判がなされたのに対して、国葬に反対したれいわ新選組の支持者かもしれない一部の積極財政派らしき界隈から「税は財源ではない」と言って足をひっぱる批判が見られた件についてです。
まあ、MMTを勉強されたかたがたなのだと思いますが、国葬であれ何であれ政府支出は税を財源としてなされているわけではないのだから、他の支出への制約になるわけではないと言いたいのはわかりますけど…。
それに対して、「たしなめ」とか言ったら「上から目線」になってとってもよくないですが、ともかく一言何か言いたくて悶々としていて、そこから派生して考えたことを、身近な人に言ったり、メールにしたりしていたのですが、まとまった文章にする暇がないまま時期を逸してしまいました。
公金をよからぬことに使うなといっているのだ
一応まず「マジレス」的に、この件自体について今さらですがコメントしておくと…
・「税金を使うな」という言い方は、「税金」自体に力点がある議論ではなくて、税金であろうが国債であろうが日銀当座預金であろうが、公金をそんなものに使うなというのが議論の本質である。公金をわかりやすく代表する表現としての「税金」だということはほとんどの人が了解している。
・他に大事なことに支出できなくなるというニュアンスについては、実際、一定額の予備費からの支出なので、国会の議決なく機敏に支出すべき事態が、特に天災が勃発しやすい昨今は起こりやすいので、それを予備費から出す制約になる余計な支出はすべきではない。「予備費」という言い方は難しいので、わかりやすく「税金」と言うのは不合理ではない。
・そもそも、例えば暇を持て余す人が無駄なことに時間を費やしているときに、たとえそれが暇の一部でしかなくても、「そんなことをする時間があるなら〜をしろ」とかいう言い方をするはずである。たとえ無尽蔵に財源があったとしても、本当にダメな支出を批判するのに、有意義な代替があるというニュアンスの言い方をするのはへんではない。
ということです。いたって当たり前の話だと思います。
本質はそんなことを問題にしているのではない
逆に考えてみれば、例えば、きょうびの問題で言うと、敵のヘイト野郎が「LGBTに税金を使うな」と言ったとき、「税は財源ではない」と反論することは、たしかに反論の一つとしてとても重要だしぜひ言うべきだけど、でもそれは全く本質的批判ではないでしょう。もしこれしか言わなかったら、それは全然反論になっていない。
財政危機論におびえる一般大衆を不用意に敵側にまわさないための宣伝としては有効ですが、敵自身は何も打撃と感じない。そんなことを問題にしているわけではないからです。
私たちの側も、「われわれの税金をそんな無駄なことに使うな」と国葬批判しているとき、税が財源になっているかどうかを本質的な問題にしているわけではありません。よろしいですよね。
科学大好き少年が日常表現にムキになるみたい
マルクスニキより「地球が回る」ニキの比喩のほうがいいかな?
しかし、MMT派の人たちの言い方に、どうしてこんなのが多いのか考えてしまったのです。いや、ほんとのMMT派の人は、「いやあれはエピゴーネン」と言うかもしれませんが、でもなんか本質的な何かを感じるのです。
私は以前、ランダル・レイさんのMMTの教科書の訳書に解説文を頼まれた時、こんなふうに書きました。
これ、我ながらうまいこと言うと思っていたのですが、全然反応がない。考えてみたらこんな比喩にピンとくる世代はとっくに古くなってしまっていたわけですね。お恥ずかしい。
もっとわかりやすい極端な例で言うと、「日が落ちてから会おう」と言うと「日が落ちるんじゃない、地球が回っているんだ!」と逆ギレしてくる人みたいなものですね。
私の黒歴史
私が子供の頃、部屋をあまり汚くしていたので、祖母から「うじがわく」と怒られたとき、「自然発生説」の誤りについての知識を読みかじった私は、うじはわくものではなく、ハエが外から卵をうみつけなければならないということを一生懸命説明していたら、祖母が怒り出して大げんかになり、両親ともに全然自分の味方をしてくれなかったことに理不尽さを感じて悲しかった思い出があります。
もう、小学校高学年か、ひょっとすると中学生になってたんじゃないでしょうか。幼稚すぎて恥ずかしい。
祖母が激昂して「死んでやる」とか言って外に出ていこうとしたとき、下の弟がまだ就学前だったような気がするのですが、玄関でしゃがんで祖母の履き物をおさえてウルウル目で見上げて首を横に振っていたのに負けて、祖母も自室にひっこんでいきました。もう、弟のほうが私よりはるかに大人でした。
こういう科学好き少年みたいなところを感じますね。
三つの層の次元の違いを整理しよう
「税は財源か」をめぐる三層の議論のうち実務的運用の次元の層に着目するのがMMTの特徴
なんでこんなことになるのだろう。
どうやら、MMT派の人とそれ以外の人とが話が噛み合わなくなるのは、双方とも次の議論の三層の次元の違いを混同しているせいではないかと気がついてきました。
① 人の意識を離れた客観法則的次元の層。
政府支出の客観的制約は国全体の生産能力であり、政府は貨幣を出して支出していて、その結果民間の購買力が生産能力を超過しすぎないように、税は総需要を生産能力の範囲内に抑える機能を果たしているという話。
これはMMTにかぎらず、反緊縮派の経済学すべてが共有する見解です。主流派経済学者も本当にまともな人たちなら否定しないのではないでしょうか。(いや、そもそもこれを否定できる経済学者なんているのか?)
これは普通の経済学の思考次元の話で、この次元で働いているメカニズムは、経済学者が外から分析して、物理法則同様の法則として発見する性格のものです。さしあたりは、法制度や慣習などのように人間が意識して取り決めたものではありません。
② 制度として人々が認識している層。
「税は財源」というのはこの次元。財政赤字は「借金」であって返さなければならないというのもこの次元。
③ 実務的運用の次元の層。
①と矛盾する②にしたがっていたのでは現実に不都合が生じて日常的運営ができないので、①とあまり矛盾しないように換骨奪胎される。「財政支出に先立って、日銀が日銀当座預金にそのために必要な資金を用意する」というのはこの次元の話。国債が借り換え続けられるものだというのもこの次元の話。
この③の層に着目するのが他の反緊縮派と比べたMMTの著しい特徴で、MMTの場合、「税は財源ではない」という言葉で意識しているのは、これを指している場合が多いと感じます。
もちろん①は否定しているのではなく認識しているのだと思いますが、③と①の次元の違いに自覚的ではなくて、直結させて理解しているのが特徴だと感じます。
これだけではイメージがつきにくいかもしれませんので、以下でたとえ話をいくつかあげてみます。
たとえ話その1:消費税は誰の負担か
① 人の意識を離れた客観法則的次元の層。
経済法則的に言えば、消費税が業者の負担になるのか消費者の負担になるのかは、供給側の各業者がそれぞれどのような需要曲線に直面しているのか、どのような供給曲線を持っているのかによる。
価格の変化に対して売れる量(需要)がどれだけ変化するのかを表す「需要の価格弾力性」が、大きいほど業者側の負担割合が高くなり、小さいほど消費者側の負担割合が高くなる。つまり、価格支配力の弱い業者ほど消費税を売値に転嫁できず、業者側の負担の割合が高くなる。
だから、零細な個人業者では現実にはほとんど業者側の負担になっている。
また、価格の変化に対して供給をどれだけ変化させられるのかを表す「供給の価格弾力性」が大きいほど、消費者側の負担割合が高くなり、小さいほど供給者側の負担割合が高くなる。
だからやはり、供給量を変化させられない小さな業者や、第一次産品の生産者は自分が負担する割合が高くなる。
② 制度として人々が認識している層。
消費税は消費者が支払い、業者はそれを預かって税金を納めるという建て付けで制度ができている。
③ 実務的運用の次元の層。
まともに②にしたがって運用していたら零細業者がみんな倒産して収拾がつかなくなるので、司法判断で、消費税は価格の一部であり「預かり金」ではないと確定している。
このケースでも、③の層にこだわって消費税批判している人の中に、同じ反消費税の側で「消費者の負担」的な言い方で消費税批判がされたときに、噛み付いて足を引っ張るケースが見られますが、MMTの場合と似通った図式になっていると思います。
たとえ話その2:仮想の小国の寓話
ルクセンブルクとかリヒテンシュタインみたいな小国を仮想します。
そうですね。「ルクセンシュタイン公国」としましょう。ドイツの隣のミニ国家という設定にしてください。EUもユーロもない世界だとします。
① 人の意識を離れた客観法則的次元の層。
ルクセンシュタイン経済は、ヒトもモノもカネも、ドイツ市場の一環に組み込まれている。買い物も通勤も仕入れも国境を超えて大量に激しく行き来している。住民はみなドイツ語を話し、ドイツのテレビ放送を見ている。
② 制度として人々が認識している層。
ルクセンシュタイン公国は、独自の政府と中央銀行を持つ独立国で、独自の通貨を持ち、周囲の国と大使を交換している。
③ 実務的運用の次元の層。
ドイツとの人や物資の往来が滞ると経済が混乱し、日常生活に大きな支障が出るので、事実上国境管理は行っていない。
取引や賃金の支払いにドイツ・マルクが使われ、預金もドイツ・マルクでなされることに何の規制もないので、みんなそうしている。独自通貨は、紙幣がきれいな凹版印刷で世界のコレクターに人気で、お土産として売られているだけである。
商契約には、自国民どうしでも、係争時にはドイツの裁判所を使うという条項が入っていることが通例である。それに対して何の規制もないので、そのような条項が入っていなくてもそうするのが普通である。
国家予算もドイツ・マルク建てで審議、議決、公表され、大公のサインをもらうときだけ、独自通貨に換算されて、羊皮紙に独自のひげ文字で印刷される。(ドイツ式亀の子文字ではないとされている。)
MMT派の言い方は、③を根拠に②を虚偽認識として否定し、「ルクセンシュタインは国家ではない」と主張するようなものだと思います。それでワールドカップに熱狂している人を捕まえて説教する人みたいな(笑)。
たとえ話その3:道路の制限速度の例
① 人の意識を離れた客観法則的次元の層。
かつてのいわゆる新興住宅地の外縁の見晴らしのいい直線道路で、以前は近くに小学校があって通学路になっていたし、両側に店舗もあり、事実上生活道路だった。しかし、現在は小学校も廃校になり、店舗もみな廃業してなくなっていて、人通りもほんとうに少なくなっている。
近年、隣町にできた施設の影響で、しばしばこの一帯の道路で渋滞が起こるようになった。
② 制度として人々が認識している層。
小学校があって賑わっていた頃のまま、20km/hの速度制限が残っている。
③ 実務的運用の次元の層。
誰も20km/hの制限速度は守っておらず、多少破っても取り締まられることもないことは周知である。実は、警察内部で、この区間は40km/h超えまでは取り締まらないという申し合わせが存在している。
この警察内部の申し合わせの存在を見つけ出してきて、それをさも重大な根拠とみなして、この区間の速度制限は40km/hだと言っているのがMMTにあたると言えるのだと思います。
お金を作って政府支出することの先行性は①の次元と③の次元のどちらで言われていることか
無意識の客観法則を分析する次元における、政府支出の論理的先行性
「税は財源ではない」という論点で、しばしばMMTの人たちは、「スペンディング・ファースト」ということを言います。政府の支出がまず先にあるのだということです。
私などが、こうした話を聞いて、そりゃそうだよなと思うのは、①の次元でとらえている理解の仕方です。つまり「論理的先行性」です。実際に徴税に先立って支出されているのか、集めた税金の中から支出されているかには関係がない話です。
政府は、まずもって公共の必要があって、購買力を出すことで、その分野に資源を動員するのです。政府ですので、本来やろうと思ったらなんぼでもできる。
他方で、世の中の供給能力を総需要が超過しすぎるとインフレとかの不都合があるので、なるべく生産資源を減らすべき、あるいは減らしてもよい分野に需要が向かわないようにしながら、民間の購買力を減らすよう、税金を取っている。両者は、互いに直接には独立の機能です。
ただ、政府というものが存在している合理的理由をふまえれば、まず支出を論理的に先行させて考えるのが適当です。これを逆にして、先に、インフレにならないように人々から徴税して、その結果デフレで失業者があふれると困るので政府支出すると考えるのは、現実の日本の描写かもしれませんが(笑)、なんでそんな余計なことをする政府というものが存在するのかわからなくなります。
王様が宮殿を作るために宮大工Aに毎日宮殿を建てる作業をしろと命じる。そしたらAは自分の畑を耕して食糧を得ることができなくなるので、王様は農民BにAのための食糧も作れと命じる。これをスムーズに回すために、Aに食糧の引換証を渡し、BはAからそれを受け取って、確かにAに食糧を渡したという証明のために王様にそれを渡す。
もっと人数が多くなっても、互いに対等なメンバーからなるコミュニティの必要事に話を変えても図式は全く同じです。家計や企業のようなミクロな存在ではなく、マクロな存在である政府にとっては、財政制約は本来なく、生産能力の制約こそがある中で、世の中がスムーズにまわる本質的なメカニズムを考えれば、支出が先行して徴税があとと把握するのが合理的ということです。
MMTの人がしばしば引いてくる、ラーナーの「機能的財政論」の説明では、先に政府が民間にお金を出さないと、納税するお金が手にはいらないだろといった言い方をしますが、これも、歴史的な言い方に見えますが、寓話的歴史であって、本質は論理的先行性を語っているものです。
運用次元で実際にまずお金を作って支出していることを指摘したのがMMT
ところが、MMTの人たちが言っている「スペンディング・ファースト」は、直接にはそうではなくて、③の次元で、本当にお金を作って支出することが先行しているのだという主張のようなのです。
他の経済学者たちが誰も指摘しなかった中央銀行の日々のオペレーションの現実に着目したところに、MMTのオリジナリティがあるというわけです。
MMTの人たちは、「税は財源じゃない」というだけでなくて「国債は財源じゃない」とも言っています。
(ときどき自称MMTの人が、「税は財源じゃない」のあと「財源は国債だ」と続けるケースも目にしますが、そういう人は、私と同じく、「MMT警察」から弾圧される対象ですので気をつけましょうw)
ここで彼らが言いたいのは、政府支出に先行して中央銀行から準備預金(または政府預金)が出されていて、それが政府支出の資金になっているということのようです。課税や借入で公衆からお金が回るのではなくて、政府の支出にともなって中央銀行からお金が出されるのが先行している、だから「スペンディング・ファースト」だというところに、論点があるようです。
これは、レイさんの本のアメリカの例では、売り戻し条件付き国債を中央銀行が民間銀行から買うことで、国債を買うための準備預金が市中銀行に用意されるとある話にあたります。西田議員や三橋さんの場合は、短期政府証券を日銀が買うことによって、日銀が政府預金をまず用意するという話がそれにあたるのだと思います。
つまり、①の無意識の法則的な本質の次元では論理的先行性の話だったのが、③の次元があることによって、文字どおり本当に意識的に運用当局者がお金を作って出しているのが先行しているという話になって、それこそが本質的に重要だということになってしまっているところに、はたから見るめんどくささのタネがあるのだと思います。
このあと、最初の売り戻し条件つき国債を中央銀行は市中銀行に売り戻すことになるのですが、これは、MMTに言わせれば、政府支出にともなって準備預金が増えて、政策金利が目標値より下がってしまうので、目標値に近づけるために売っているということになります。つまり国債は金利調節のためにあるのであって、財源調達手段ではないということになるわけです。
これが課税だとしても話は同じで、文字通り後から年度末の納税期に徴税していて、その結果物価とかの調節の機能を果たしているということになるのだと思います。
(ここで「とか」と言ったのは、また全然別の「地雷」があって、MMT派は商品の価格が単位コストにマージンを足し上げて決まるという理論(マークアップ説)にわりとこだわるので、私と違って、超過需要で直接価格が上昇するという発想を好まない傾向にあります。だから、総需要超過の不都合は、インフレで現れることもあることは否定はしないと思いますが、インフレではないほかの形をとることも多いと考えられており、そのことも含めての調節になります。なお、総需要超過がインフレをもたらすとしたら、賃金上昇の結果として、それにマークアップする形で物価が上がるというストーリーになります。ですから、現実の説明を超えて、とるべき政策の議論になると、インフレを抑えるために増税で総需要を抑えるという議論は、失業を増やして賃金上昇を抑える議論ととらえられて、彼らの怒りを買う対象になります。)
客観法則次元では、国債を民間銀行に持たせて、政府からの支払いの預金が創造されることが「スペンディング・ファースト」
私から言わせれば、例えばこんなオペは実際にはないでしょうけど、仮にの話としてですが、政府支出するときに、政府が国債を民間の銀行に買ってもらって、そのときに、政府支出先の業者の預金口座に信用創造して公共事業の代金を直接振り込んでもらうということも理屈の上では可能なはずです。この場合、政府預金は一銭も動きません。
これは普通に国債発行して民間の銀行が引き受けて政府の手で政府支出するときの最終的な帰結と同じで、間の動きを省略すれば全く変わりません。
このケースでも、①の本質次元としては、政府が「国債」という貨幣を発行して、それを民間の銀行によって銀行預金という世間で通用するお金に換えてもらって、世の中に出しているわけで、スペンディングファーストで政府がお金を出して政府支出しているということだと言えます。
しかし、MMT(のエピゴーネン?)から言わせると、これでは準備預金が先に出されていないので、スペンディングファーストになっていないということになるのだと思います。
(なお、正確に言えば、以上のステップまででは、民間の銀行は準備預金が元のまま全く変化していないので、もしもともと預金準備率で決められたぎりぎりまで預金が作られていたならば、政府支出で預金が増えた分、準備預金が預金準備率の基準に足りない銀行が出てきます。しかし銀行部門全体で準備預金が不変ですので、他の銀行から借りて基準を満たそうとしたら銀行間の貸し借りの金利が上がります。
この金利は政策金利として中央銀行がコントロールの手段にしていますので、もし中央銀行がそれを今の政策態度のもとで一定に維持しそうとすれば——MMTならゼロ金利で永遠に一定を維持すべきだと考えるようだが——、中央銀行は民間の銀行から国債を買って準備預金を出すことになります。
これは、MMT派が描写する実際のオペレーションのように、準備預金が先に出されて、あとで政策金利を保つために中央銀行が国債を売るケースと結論は全く同じになります。)
私は、700円払うのも、1000円払って300円お釣りを受け取るのも同じことだと思いますので、この両者の間に何の違いも感じません。なので、初心者向けの説明でゴチャゴチャやりとりの説明をするのは人を遠ざける原因だと思いますので、上記仮想のオペのように、現実の説明においても、政府が国債を民間の銀行に渡すと同時に政府支出先の業者の銀行口座に預金が作られるように結論をいきなり示せば十分だと思っています。①の本質としては、政府がお金を作って先に支出しているさまは表されていると思います。
しかし③にこだわるMMTからは重要なことが抜けた説明と思われるに違いないと思います。
客観法則の次元では、税は財源ではなくスペンディング・ファーストという事態は金属貨幣でも成り立っている
そもそも①の次元から言えば、事態は、貨幣制度がどうであるかにかかわらず成り立ちます。
例えば、典型的な商品貨幣である、「金」(キン、元素記号Auの金属)が貨幣である制度で考えてみましょう。
税金など取らなくても、政府が豊富な金鉱を持っていて、そこで採れた金を貨幣にして支出することで必要な財やサービスを調達しているものとします。
もし世の中に大量の失業者がいるならば、その失業者を雇って金鉱で働かせればよく、政府支出で調達される財やサービスの生産にも、失業者が雇われますので、税金をとらずに政府がお金を作って出してもインフレが悪化することはありません。
しかし、そのようなことを続けた結果、世の中で失業者がいなくなって、総需要が国全体の生産能力を超過したらどうなるか。
それでも同様に税金を取らずに政府支出を拡大し続けようとしたら、ほかの財やサービスを生産している労働を引き抜いてきて、金鉱に投入しなければなりません。ただでさえ需要に生産が追いついていないのに、その生産が減ってしまいます。おまけに政府支出によって総需要がさらに増えます。
なので、しっかり労働を投入して生産された生産物が貨幣だとしても、こんなことをすれば確実にインフレが悪化します。
だから、失業者がなくなったならば、たとえ労働生産物の金が貨幣だったとしても、いずれどこかで、税金をとって世の中の購買力を減らさないと政府支出を続けることはできなくなるのです。
この話は金(キン)でなくて、ただの紙幣でも全く同様に成り立ちます。金と違って、紙幣では、増刷するのに他の生産物を生産していた労働を引き抜く必要はありませんので、世間の直感とは逆に、無税で政府支出してもインフレが悪化しない期間が、金の場合よりも長くいけることになります。
だから、「政府支出にとっての制約は財政制約ではなくて国全体の生産能力である。政府はまずお金を作って出して政府支出し、徴税はその結果総需要が国全体の生産能力を超えないように購買力を吸収している。」という①の次元の話は、商品貨幣制度であれ、外生的貨幣供給の制度であれ、何だって成り立っていることです。
ところがMMT派は、こうしたことを理解するためには、貨幣というものは信用貨幣であって内生的に信用創造されるものだと認識しないことにははじまらないと、固く確信しているようです。
それは結局、事態を③の次元で理解しているからだと言えます。
本質の矛盾した反映ととらえるのか、虚偽意識として否定するのか
現象は本質から乖離するものだとみなすマルクス主義
私のようなマルクス主義者は、ヘーゲル弁証法由来の「本質vs現象」という二項図式でものを考えることに慣れています。それは、本質というものは直接すなおに目に見えるものではなくて、それと矛盾する形態で歪んで現象するという見方です。
わかりやすい日本語で言うと、「正体」と「見た目」と言った方がいいかもしれません。特撮もので、怪人や異星人が人間体に化けるようなもので、「正体」は直接には目に見えず、別の「見た目」に化けて現れるのです。
例えば、さきほどの例のように、労働者から搾取された剰余労働という「本質」が、資金貸付の報酬としての利子という形で「現象」するといった見方がその一例です。マルクス派は、あらゆることに、このような説明をするのが特徴です。
つまり、マルクス主義者は、①の次元を本質と、②の次元をその現象ととらえて、②が①のすなおな反映になっていなくて矛盾した形に歪んでいることを、あたりまえの現実ととらえることになります。
たしかに、将来に向けた社会変革の展望としては、現象が本質から歪んで現れる自然発生的な形態を廃棄して、本質を意識的に把握することで歪みから救い出し、それを直接意識的に日々実現する世の中を目指すのがマルクス主義者の志向です。
ですが、現存社会体制における現実の分析としては、現象が本質から乖離しているのは、そりゃそんなもの。現象レベルに内在して分析するときには、本質とは矛盾したその形態に即して話をすることになります。
まあ一言余計なことを言うと、もうすっかり革命的気概も失った現実のマルクス経済学者を見ると、「現象は現象、本質と矛盾して当然」と、ズブズブに現象に内在した描写ばかりして、事実上の現状肯定になってしまっているケースもなきにしもあらずで、なんだかなあと。
もしかしたらマルクス主義者も、本当はできた頃は今のMMT派並にめんどくさい人たちだったかもしれない。それがすっかり体制内化して丸くなっているのかもしれない。そう思うと、ヘーゲル弁証法のロジックも良し悪しだなと思わないでもないです。——以上余談。
それはともかく、私のようなマルクス主義者にとっては、現象の次元の話をしているときには、「税は財源」とか「国債は財源」とかいう言い方でものを言って、しかしそれは本質とは矛盾するのですと自覚し続けることは自然なことです。
本質の歪んだ反映でも反映しているなら存在合理性がある
そして、人間体でも怪人は怪人。本質と矛盾した現象と言えども、ある歴史的条件においては、大きな目で見て本質を反映していたからこそ、存在合理性を持っていたのだと考えます。
ここで論じているテーマでもそうです。
資本制経済では、民間企業の設備投資需要がどんどんと拡大して、そこから波及する消費需要も拡大する好況期と、民間企業の設備投資需要がどんどんと落ち込み、そこから波及する消費需要も停滞する不況期が交互にきます。好況が加熱するとインフレがひどくなり、不況が深化すると倒産や失業者が増えてしまいます。
なので政府としては、不況のときには徴税以上に政府支出して総需要を増やして失業を解消し、好況のときには政府支出以上に徴税して総需要を抑えてインフレの悪化を防がなければなりません。
好況が不況よりも普通だった時代は、一旦好況になると、設備投資需要がはずみがついて増えていき、すぐに景気は過熱しました。それを放置してインフレがひどくなるのをいかに防ぐかが大事でした。
こんな時代には、徴税以上に政府支出することに「借金」という現象形態をつけておいて、それは遠からず返さなければならないのですよと認識させる制度にすることには合理的意味がありました。
一旦不況時代に徴税以上に政府支出して景気を回復させたならば、遠からず景気にはずみがついてインフレを抑えるべき局面に至るので、「借金」を返すために支出を抑えて税収を増やすようにすれば、おのずと総需要を抑えてインフレを抑制する課題が果たされるからです。
だからこうした時代には、②は①と直接には矛盾するが、大きな目で見て①の反映であったと見ることができるわけです。
歪みすぎて反映しなくなったら取り替えられるべき時
ところが現代の先進諸国では民間設備投資需要は停滞するので、そこから波及する消費需要も停滞する傾向にあります。特に、人口減少期に入って販売市場という点でも労働力市場という点でも拡大が見込めない日本では、その傾向は著しいと思います。
このような段階では、民間設備投資需要が拡大してインフレの心配をすべき景気過熱期は例外的で、放置すれば失業者がたくさん出てしまう不況期が基調的になってしまいます。
このような時代に、徴税以上に政府支出することは「借金」であって、遠からず返さなければならないものだという制度を忠実に取り続けると、倒産や失業がたくさん出る不況の状態が持続してしまいます。
だから、いまや①に矛盾した②の制度をやめにして、もっと①を反映したものに取り替えるべき時がきた——こう発想するのがマルクス主義というものだと思っています。
つまり、総需要の超過が行き過ぎないようにさせるための政府支出や徴税のルールとして、政府支出が徴税を超えることに「借金」という形を与えて、遠からず返さなければならないという認識を持たせるルールをやめて、もっと現代の現実にあったルールに取り替えなければならないということです。
もし議論の次元がこのように①と②の関係でなされていたとしたら、MMTと私などとの間の議論は、MMTが提唱するルールは果たしてこの新しいルールとして有効なのかという論点に集約されます。
すなわち、MMTが唱える「就労保障プログラム」という、景気自動調整機能を持つとされる制度は、果たしてちゃんと機能するのか。MMTは景気の過熱を抑えるために利上げして設備投資を挫くという方法を拒否するが、その認識は適切なのか。その背後にある、大資本に私有された生産手段の蓄積というものに対する評価が、政治判断として私の立場と共通なのか。——というような論点です。
それが自覚されたら、議論は比較的生産的なものになるでしょう。
主流派経済学も同様に発想する
ちなみに、①と②の関係についての主流派経済学の見方も、マルクス主義と基本的に似たところがあると思っています。
というのは、数学モデル分析というものは元来、取り上げている問題にとって何が本質かというものをできるかぎり純粋に抽出して、関係が薄いものを極力削ぎ落として、その本質的なものが働く法則を把握しようとするものです。もちろんそれは、人の意識を離れて成り立っている法則です。
だから彼らは、現実の現象が、モデル分析では捨象されたたくさんの要因の影響を受けて、モデル分析で示されたとおりに正確には現れないことは十分承知しているのです。しかし、大きな目で見たら、モデルで分析された法則が基本的に働くのだという認識です。
もっとも、マルクス経済学が現在現象拘泥的になっているのと似たようなことが、主流派経済学にも言えるような気もします。
ニューケインジアンのモデルは、現実の摩擦要因を次から次と入れ込んで、何が本質的にモデルのワーキングをもたらしているのかさっぱりわからないものになっているように思います。シミュレーションを走らせて現実の現象をなぞっていればそれでいいという感じになっている気がします。
実証分析も、本質モデルが見えなくなって、現象内在的になっている傾向があるような気がします。
まあ、これは余計な話で…。
ともかく、①が本質で、②がそれと矛盾した現象で、矛盾はするのだけど長い目で見て①を成り立たせているかぎり、①の反映とみなせる。しかしそうでなくなったら②はもっと適切なものに取り替えられるというような見方は、マルクス主義にも主流派経済学にも共通しているし、たぶんポストケインジアンの多くにも共有されているのではないかと思います。
運用の事実こそ重要だとすると制度の建前は虚偽意識だとされる
ところがMMT派の場合、そのような発想を共有していないところに、議論の噛み合わなさの根本原因があるように思います。
すなわち、③こそが本質的に重要で、①の次元で言われる命題が正しい根拠だぐらいに思っているように感じられます。
そうすると、上述の消費税のたとえでは、司法判断で消費税は預かり金ではないと決まっているのだから、消費税は消費者が払っているという建て付けの制度だというのは間違った認識だということになります。ルクセンシュタインのたとえでは、現実の権力機構のワーキングに照らしてルクセンシュタインは国家ではないのだから、ルクセンシュタインが独立国家だというのは間違った認識だということになります。速度制限のたとえでは、このエリアの道路は警察の内部申し合わせに照らして40km/h制限なのだから、20km/h制限だというのは間違った認識だということになります。
つまり、「現象は現象、そんなもの」というわけにはいかない。
②は③が真実であることに照らして間違った認識だということになります。はたから見ると「日が落ちたら会おう」という人に「日が落ちるんじゃない、地球が回っているのだ」と逆ギレしているように見えても、本人としては真理を知った身として真剣に無知蒙昧を正そうとしているわけです。
だから「税は財源」的な言い方にいちいち噛みついてくることになる。すでに現実にそういうルールにはなっていないということです。
もちろん、誤解のないようなあからさまなルールに変えようと言っている点では、実践的には私などと違いはないのですが、位置付けとしてはあくまで誤解を避けるためという重みしかないことになります。
そして、「税は財源」的なルール認識は、通貨主権のある管理通貨制であるかぎり、今も昔も間違いだったということになります。かつての設備投資が十分に興る時代には妥当なルール認識だったということにはならないわけです。
かくしてガチの闘いになる
こうして、②と同じ論理次元に立って、②を否定するのですから、②を信じている側の人にとっては反発しかない。ガチの闘いにしかなりません。
今の「税は財源」をめぐる例についても、上記の三例のたとえ話についても、私自身は②を信じる立場にはありませんが、例えば「憲法九条」になれば私は②を信じる立場と言えるでしょう。そうすると③こそが本質的に重要とする立場から、安保条約や安保法制やろくでもない協定や司法判断等々を根拠にして②を否定してきたら、そりゃガチで闘うしかない。
そう思えば、MMT論者にからまれた財政均衡論者の気持ちも、ちょっとはわかる気がします。
なお、こんな例を出してしまったので、慌てて付け加えますが、主流派の新古典派の経済学者は、たいてい財政均衡論を唱えますが、構造改革等々、彼らの提唱する政策によって民間設備投資が十分に興り、完全雇用近くが常態になる経済を取り戻すことは可能だと考えています。なので、現状の②のルールが有効であるように、①の経済的現実を変えることができると考えるので、それ自体筋は通っています。
①と②の関係に重きを置いて議論する限り、彼らの言うように①の経済的現実を変えることが可能なのかという論点で、学問的に議論できますし、そうでなくても、立場の違いを階級的な、経済的現実に客観的に起因するものとして互いに自覚することができるでしょう。
私にとっての憲法九条の例についても同じことです。
無意識の法則の次元に基本的に立って、運用上の事実を援用するスタンスにするのがいいのではないか
私たちとしては、冒頭述べましたとおり、③の次元で言われていることは、①に矛盾した②では現実がまわらないので、②を現実にあわせて換骨奪胎した運用上の工夫だと整理するべきだと思います。
そして、「税は財源ではない」といった言説は、基本的には①の論理次元で言っている命題だと認識すべきだと思います。
だからこれは、マックス・ウェーバーの命題を「資本主義が発展するためにプロテスタント教ができた」と要約することとか、「キリンは高い木の葉を食べるために首が長くなった」と言うこととか、青木昌彦の命題を「日本型雇用慣行は企業特殊的技能の形成のためにある」と要約することとかが間違いではないのといっしょな言い方だと自覚するべきだと思います。
ウェーバーに言わせれば、プロテスタントは誰も資本主義を発展させようと思ってそれを信仰したのではありません。キリンは木の葉を食べるために首をのばそうと思ってのばしたのではありません。日本型雇用慣行は企業特殊的技能の形成のために意識して作られたのではありません。
意識を離れて客観的にそういう機能を持っているということです。
「税は財源ではない」というのもそうで、①の次元で人の意識を離れて客観的に果たしている機能について述べている命題だと意識すべきです。
そう意識すれば、現実の制度の中ではそれと矛盾する「税は財源」という意識で人間が動いているのもそんなものであって、いちいち噛み付くことはないでしょう。そんな制度では、現実の経済の中で果たす機能がうまく果たされず、現実経済を破壊してしまうようになったので、制度を変えましょうということになるだけです。
こういう立場からは、③の次元の事実は、現実にはこれだけ換骨奪胎された運用がなされているのだから、そろそろ制度の建前を変えましょうという根拠になるだけです。むしろ、換骨奪胎でいくらでも制度的建前を外れた運用ができるならば、かえって危険じゃないか。ちゃんとした歯止めのある新しいルールに変えた方がいいということになります。
そして、それには時間も手間もかかるならば、それまでの間は、③の次元の事実を直視して、その現実を受け入れていきましょうよと。そのようにMMTの成果を活かしていけば、議論はいくぶん生産的になるのではないかと思います。
結局2月中には書き上げることができず、3月2日になりましたね。
三日もかかって、途中デスクワークはこれ以外ストップしてしまいました。
こんな調子で書いてたら「ウェブ発信強化月間」なんで最初から無理だったですね。
2月中に書くつもりで考えていた書きたいネタがまだいろいろあるのですが、春休み中にやらなければならない仕事がいくつも待っています。
できれば、もう少しの間、できるだけ簡潔に、何本か投稿してみたいと思っています。