読者のかたからのご論評におこたえする⑥——それは愚民観か「人民舐めるな」かの政治判断だ!
2月12日の投稿から、拙著の、ある読者のかたからいただいたご論評におこたえしています。
詳しい経緯は2月12日の最初の投稿をご覧ください。近況や、最近公開した仕事の紹介もしていますので、未読のかたは、ぜひお目通しください。
おこたえするご疑問全体は、次のとおりです。おこたえをすでに投稿ずみのものにはリンクをつけていますので、ご関心にあわせて確認してください。
今回は、上記の⑤におこたえします。
経済学的認識は共通している。違うのは政治判断だ。
ご論評
おこたえ
政府が直接国の生産能力を制約として行動できることを否定できる経済学者はいないだろう
反緊縮の経済学の考え方は、私見では、経済学にとってそれほど大きな大転換ではありません。
むしろ経済学にとって常識とも言えると思います。
少なくとも、”マクロな存在である政府は、ミクロな存在である各企業や各家計と異なり、予算制約に服さなければならない存在ではなくて、直接に「国全体の生産能力」を制約として行動できる存在である” とする見解自体は、まともな経済学者ならば誰も否定できない当たり前のことだと思います。
新自由主義のバックになっている新古典派の経済学では、市場均衡においては、国全体の生産能力がフルに利用されているところで、政府の予算制約も民間の予算制約も成り立つということになっています。
この場合には、政府も民間人同様に予算制約に服して行動していていればいいということになります。
他方、ケインズ理論によれば、政府や民間の予算制約が、国全体の生産能力の制約の内部を通り、均衡において全般的な失業や遊休を出してしまうということはあり得ます。
この場合には政府は所与の予算制約に服す必要はなく、国全体の生産能力をこそ制約として行動して、失業を解消すればよい。これも、多少ともケインズ理論を受け入れている経済学者なら誰も否定しないことだと思います。
とはいえ、新古典派の人たちでも、政府が国全体の生産能力を制約として行動できること自体は否定しないと思います。
逆に言えば、国全体の生産能力を制約とせずに政府が支出を続けたら、たとえ貨幣が労働生産物の金(キン)でも、たとえ政府の予算制約を守っても、インフレになるだろうということも、どんな経済学者も言うことだと思います。
(生産が追いついていない財やサービスを生産している労働を、政府が引き抜いて金鉱に投入して金の生産を増やして支出にあてたらどうなるか?)
余談ですが、ご論評のなかでは、日本政府のバランスシートでは負債よりも資産が超過しているから財政は健全とする主張を、私がしているように読める箇所がありますが、私はこのように言う人の足をひっぱるつもりは全くないのですが、私自身はこういう言い方はしません。どんなイザと言う時だとしても、国の資産を民間に売ることにはもともと反対だからです。
しかも需要超過でインフレになっている時期に、国の資産を売ったお金で政府支出にあてたとしたら、民間で資産運用にあてられていたお金を、財やサービスの購入用にまわすのですから、やっぱりインフレを悪化させます。政府の予算制約を満たしているかどうかは関係ないのです。
(インフレを悪化させないとすると、国の資産を外国に売却し、その外貨で輸入によって政府が財を調達する場合です。)
「神話」が必要だと言う主流派経済学の帝王
戦後のアメリカ経済学界に君臨した主流派経済学最大の大物、ノーベル経済学賞が彼のために作られたと噂され、『経済学』という世界的ベストセラー教科書が生前19版に至ったポール・サミュエルソンは、マーク・ブローグという人が制作したケインズに関するドキュメンタリーテレビのインタビューの中で、財政均衡の考え方を「迷信」、「神話」と称して、次のように言っています。MMTのランダル・レイさんの教科書の邦訳から孫引きします。
つまり、マクロで公的な存在である政府にとっては財政均衡の制約は本来は必要ではないのに、あたかもそのような制約があるかのように観念させる制度にしているのは、愚民にはそんなふうに信じさせておかないと、無制限に財政支出してしまってムチャクチャになるからだというわけです。ブルジョワ経済学の帝王としては、実にふさわしい見解です。
たとえて言えば、戦前の日本のエリートたちも、自分で本気で皇国史観やイエ制度の合理的根拠を信じていたわけではないでしょう。愚民にはそんなことを信じさせておかないと、世の中がムチャクチャになると本気で思っていたのだと思います。(そしてその結果かえって世の中がムチャクチャになって国が滅びたわけです。)
あるいは、普通選挙権が認められる前の政治エリートも、選挙で民意を反映して政治をしたら、大衆の近視眼的な要求で世の中がムチャクチャになると本気で心配していたのだろうと思います。
サミュエルソンが言っていることもこれらのエリートと言っていることと同じです。
財政均衡の「神話」の必要論は政治判断であり、それに対しては政治判断が対置されるべきだ
サミュエルソンが言うような懸念に対しては、もちろん、私はおこたえの④で述べてきたような制度的な工夫による応答はしているところです。
しかし究極においては、それが問題なのではないと思います。
仮に、普通選挙制度の是非が政治論議になっている国において、普通選挙を実現したら政治が混乱して国が潰れかねないことが、例えば、アンケートなり実験なり頭に電極をつっこんだ研究なりで客観的に証拠づけられたとしましょう。
だからと言って、それが普通選挙を要求する側にとって、自分達の主張をあきらめる根拠になるでしょうか?
それでも民衆の側に立つ者は、普通選挙の要求をやめないはずです。その根拠は結局は「人民舐めるな」という政治判断に行き着きます。
サミュエルソンのような財政均衡論の神話の効用を説く者に対して私たちの側の者が対置すべきものも、やはり究極には政治判断なのだと思います。
サミュエルソンの愚民観も、どれだけ証拠めいたものを集めようが結局は政治判断です。
現代の主流派経済学者だって、政府が財政制約ではなくて国の生産能力を制約にして行動できる存在であることを認めない者がいるはずがないし、人口停滞下で技術進歩がなければ設備投資が停滞し、そのまま政府が財政制約を守ると失業が生じてデフレになることを否定する者も少数でしょう。
しかしそこから、生産性上昇策と財政均衡回復を結論するのは、いかに客観的装いを取っていても、その本質は、労働者からの搾取と資本蓄積の自己目的的な永続のためには、わがままで愚かな大衆に財政均衡の神話を信じさせなければならないとする階級的政治判断なのです。
それゆえ私たちがこれに対置しなければならなのも、「人民舐めるな」という政治判断なのです。
「読者のかたからのご論評におこたえする」シリーズの連投はこれで終わります。ご論評をいただいたかた、ここまで読んでくださったみなさんに感謝いたします。
今月を「ウェブ発信強化月間」と位置付けたので、これまで言いたくても忙しくて言えなかったことなどいっぱいたまっているので、この際がんばって投稿していこうと思います。時々チェックしてみていただければありがたいです。