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小林一三著「アーニイ・パイルの前に立ちて」- 戦後|その一つの記録と終焉 -

なんとなく、今日、 小林一三著「アーニイ・パイルの前に立ちて」を iPad で読み始めて、なんか...、良い随筆だなあ!と思って。
2018年2月3日に Facebook に post した投稿を note に持ってこようと思って。

Here: https://note.com/matsunoya_note/n/nfabf509d27e9

note 全文:55021 文字|110 分(500 文字/min)

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Post on Facebook YukihoTakizawa 2018年2月3日

国内最大級の映画館「TOHOシネマズ日劇」(東京都千代田区有楽町)が2月4日に閉館

朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASL157FY0L15UUHB00M.html

今朝のNHK TV📺のニュースも長い枠を取って、様々なエンタメ関係者の「日劇の思い出」を伝えていました。

感慨を持つ人も多いのでしょう。

エンターテナーの視線から語られる報道を見ながら、私がふと思い出したのは、小林一三翁著のこの本、「アーニイ・パイルの前に立ちて」です。

アーニイ・パイルの前に立ちて 小林 一三  on amazonJP
https://www.amazon.co.jp/dp/B009MAMJT4/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_u13SFbHMVFJ1R

第二次世界大戦が終わり、米国占領下にある日本で、「アーニイ・パイル」という名を冠した劇場の前にたたずみ、こみ上げる気持ちを静かに語る小林一三翁。

そして、焼け野原になりながら、そこここに残る「エンターテイメントの殿堂」が目に映る有楽町を、小林一三翁が、未来のその町の在りようを思い描きながら散策される様子が、都市開発のこれまでと、ここから始まる未来の夢の町のあるべき姿、そして、米国に学ぶビルメンテナンスシステムの導入の可能性に関しての洞察と並行して語られます。

小林一三翁は、もしも、今の日本の在りようを見ることができたら、どんなことを考え、語られただろうか、と思います。

小林一三翁が「アーニイ・パイル」という劇場の前に立った、その日からすべてが始まった。

この町の大衆の「夢の世界」を包み込んだ箱の一つが、2月4日、その実現されたあまりにも多くの夢の思い出をいっぱい詰め込んだまま、そっと、その箱のふたを閉じようとしています。

そして、この町は、これから、どのような「夢の世界」のあるべき姿を、未来に向けて実現していくのだろう。そんなことを今日思いました。

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青空文庫から、小林一三翁の著作「アーニイ・パイルの前に立ちて」の文章を引用してご紹介したいと思います。

東京の地理に疎く土地勘がわからないワタシでさえ、逸翁の目線で、アメリカ合衆国占領下の東京の一等地を歩きながら、さんざめく記憶に思いを寄せ、「それでも、日本人は生きてゆくのだ」と、当時の空気感を何とはなしにこころ震えながら辿ることができる美文です。

これを読む機会のない多くの若い人たちに読んでもらいたいなと思い、ここに引用します。

出典:青空文庫 アーニイ・パイルの前に立ちて
小林一三
https://www.aozora.gr.jp/cards/001256/files/46657_29245.html

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アーニイ・パイルの前に立ちて
小林一三

ネオンの中に明滅する追憶

 私は、「アーニイ・パイル」の横文字が、淡い、うす緑の五線紙型ネオンサインの色彩の中に明滅するのを、ジッと見詰めていた。眼がしらが熱くうるおいそめて、にじみ出して湧いてこぼれて来る涙を拭く気にもなれない。

誰れも見て居らない、泣けるだけ泣いてやれ、という心持ちであったかもしれない。私は、頬のあたりまで持っていったハンカチを再び下げて、唇を押えたまま、暫らくジッと佇んで居ったのである。

『何という綺麗な、立派になったことであろう』

掃除の行届いた劇場前の人道は水に洗われて、並木の黒い影は涼風にうごいて居る。私がこの劇場を支配しておった頃は、並木の一、二本は必ず枯れたり、ぬき取られたりしていた。

碁盤目のブロックには凹凸があり、欠けて掘り出されたままに放置されていたり、砂煙が低くつづいて舞うなど、その頃の光景を思い浮べて、空虚な、敗戦気分の意気地ないというのか、我ながら、心はずかしく憂鬱ならざるを得なかったのである。

 東西廻り階段の入口から、硝子戸を透して正面広間の紅い絨氈は、煌々と輝いている。

軽い口笛と靴音と、ステップをそろえてのぼりゆく三々五々の米兵を限りなく吸い込むこの大劇場は――誰れが建てたのか、誰れでもないこのオレが建てたのだと、負惜しみのような、うぬ惚れのような、悲哀な快楽がムクムクと胸の底を突くと、心臓がいささか高なる、呼吸が迫るようになると、セセラめく微苦笑が浮んでくる。

同時に、せめてもの慰みというのであろうか、昂然として、私には想像の自由が許されている、何人にも許されている、と、その意識的態度は俄かに濶歩となって、数十歩帝国ホテル側へ、数十歩有楽座側へ、靴音高く、ゆきつ戻りつ、アーニイ・パイルのネオンを見上げながら、私の空想は若い時代の夢を回顧せざるを得ないのである。

 五線紙型のネオンサインを、東京宝塚劇場の屋上高くかかげて、ドレミハソラシドの音律を、省線の電車の窓から、数百万の青年子女に唄わしめんとした私の計画は、新聞紙の広告をはじめとし、あらゆるポスターに楽譜の輪郭を描いて、宝塚を象徴せしめたのである。可愛いい音楽女学生は、その楽譜を読みながら唄う。

『希望は遠し武庫の川
 流はつきじ永遠に
 水玲瓏の粋をくむ
 われ等は乙女一途に
 歌劇の国の宝塚』

 私はこの、ソソミドソラソ。ラシドシラレミレの校歌を、電車に乗合せて聞いた時ぐらい嬉しかったことはない。

同時に、それはやがて、帝都の中心地点丸の内に、東宝芸能本陣を組織的に大成せしむる確信を得たるのみならず、それを実行せしめ得たのである。その最初の鋤跡は、実に「アーニイ・パイル」である。

アーニイ・パイルの教訓

 この劇場の荘麗華美なるに対して、有楽座から日比谷映画劇場、喫茶カテイ、名物食堂にいたる東宝系一帯の地域が、如何に陰惨な、汚穢な塵溜めのような、掃除の行届かざるを実見して、親の心、子知らずと言うべきか、何という無神経であるかと口惜しく思うのみである。

 この破壊された戦災地のあとには、仮小舎がそれからそれへと新築されて、まばゆき電灯のにぎやかな店かざり、あつものの香り、食欲をそそる見本品、奥より漏るるレコードは『林檎は何も言わないけれど、リンゴの気持はよくわかる、リンゴ可愛や可愛やリンゴ』……レコードに合せて流行唄を歌いながら歩く若い人達によって、賑う街の中に、我関せず焉として、焼残った東宝系の建物のみは暗闇である。

 もと日東紅茶の店は、進駐軍の図書室として花やかに輝く時、筋向うの喫茶カテイの洋館四階建は真暗である。四ツ角五階建名物食堂も真暗である。

自力で無い、他人様のおなさけで、インフレ景気に有頂天になっている東宝には、その内部から他力本願の虚を衝いて、赤化を夢みる幻影が、スクリーンに映されんとしている。しかしながら、彼等は必ずや「アーニイ・パイル」の行届いた経営方式に驚倒し、その後塵を嘗めて、よちよちながらも学ばんとするに至るであろう。

 労働争議というがごとき、生々しい事実を取上げて、東宝を訓戒せんとするがごときは、私の目的ではない。

聞くところによれば、この「アーニイ・パイル」なる名称は、労力に酬ゆる正当なる報酬であり、勲功に対する名誉の表彰であり、大衆の支持を象徴する公平なる結論であるという話である。

 果して然らば、我等の東宝において、アーニイ・パイルの記念すべき名称を、東宝劇場の軒頭に掲げるに至ったことは、偶然の教訓的指示であるかもしれない。私はここにおいてアーニイ・パイルについて語るであろう。

「アーニイ・パイル」は太平洋戦争に参加したる米国一新聞の青年記者の姓名である。

彼は不幸にして海戦のさ中に戦死した。然し、彼の綴れる通信記事は、全米を風靡して好評を博したのである。

米国各新聞社から派遣せられた数百名の記者によって、送られたる通信記事の内容は、その冒険を競い、その敏捷を争い、その独自性をほこり、或は又美辞麗句、奇抜であり、意表に出ずる等々千差万別の裡にあって、彼は終始一貫、兵士と苦楽を共にしつつその兵士の行動、その生活、その信念、あるがままの本質と、真の姿をあらゆる角度から書いて、故国の同胞父兄に報告したのである。

 その報告記事は、酒のごとく強くもなければ、香りも無い、酔うことの嬉しさも、眠ることの楽しみもない。

しかし、酒は興味のある人、無い人、嗜む人、嫌な人もある。水に至っては、淡々として無味、何人も手を放すことの出来ない必要品であるごとくに、彼の通信は待ちこがれる水であったのである。

恐らく太平洋戦争に参加したる陸、海、空、各方面綺羅星のごとき将官の数は数万人にのぼったであろう。そして、輝かしい戦功にともなう物語は、読者をして充分に満足せしめたであろう。然しながら、その数量において、上長官は兵士軍属の何十万分の一にすぎないのである。

米国国内に於ける出征軍人の消息を待ちこがるるその家族の数も亦然り。即ち、その大多数を満足せしめたる青年記者アーニイ・パイルの通信は、米国大多数の出征家族をして感謝せしめ、礼讃せしめたのである。

流石に民主主義の本家である米国としては、最大多数によって感謝せられたる代表的新聞記者としてのアーニイ・パイルを表彰すべく、この劇場に命名したることは、わが国のごとき一将功名成って万骨枯るるを怪しまざる官尊民卑の風習に対して、善い教訓であると思うのである。

老いの繰り言

 私はいろいろの方面から「アーニイ・パイル」の感激に刺戟されつつ、それからそれへと、連想を逞しうしつつ、日比谷の交叉点に出たのである。

交叉点の一角を占有している千四百余坪に上る空地に、私の計画した東宝文芸会館の構想は、今や青写真の残骸となって、書斎の一隅に永久に眠っている。

 上野の公園における各種の展覧会や、図書館や、凡そこの種の文化的施設を、市井の中心地にあって市民の生活と密接に終始すべき理想により、この地を選んで新築せんとしたのである。

日支事変のために、その計画を中止したのみならず、東京電灯に帰すべきその用地の大半は、航空会社に徴用され、辛うじて三角尖端の枢要地六百余坪を所有しえたるも、これまた戦局の進展とともに航空会社に包容せらるるにいたって、私の空想は一場の夢と化し終った。

 その用地の境内に立って、日比谷公園から宮城方面の暮れゆく夏の夜の黒い樹木の上には、折柄片破れ月が澄みきった星空に光っている。右隣にそびゆる第一生命の白亜館が、浮き城のように巍然として輝いているのを見上げながら、ここが連合軍の司令部であり、わが国に平和を与えた救いの神マッカーサー元帥の事務所であることに敬意を表する。

 第一生命のこの建物は、旧社長矢野翁心血の結晶であって、この戦争に巻込まれなかったならば、恐らく世界における有数優秀保険会社の一つとして、わが国の誇るべき大会社であったのである。

私は、かつてこの会社の重役の一人として多年出入した関係から、この内部の堅固さと壮麗さとに対しては満足して居ったのであるが、マッカーサー元帥がこれを使用して以来、更に一層綺麗になったという話をきいて驚いたのである。

『我々は綺麗だとか、清潔だとかについて、限度の無いことを知らなかった。綺麗、清潔と言うても凡そ事務所の建物としては、ある程度の標準で満足して居ったのであるが、マッカーサー元帥司令部の掃除というものは、徹底的で、我々の考えとは天地の差があるのに驚いた。毎日毎日、一日も欠かさない、各階の掃除にはそれぞれ専門の軍人がいる。それも尉官級、佐官級であるらしい。そして各階の責任者が一応掃除のすんだことを報告すると、その上長官の一人が、更に全部を一巡して検視するのであるから……』
と、いう話を、石坂社長から聞いて、その学ばねばならぬことの多々益々多きを感ぜざるを得ないのである。

 その綺麗さと、掃除の行届いたことと、ここにもまた眼の前、鼻の先に開展した好個の対照物について、私は老いの繰り言を、こぼさざるを得ないのである。それは東京会館と帝国劇場とである。

 この二つの建物は昭和十一年、世界を一周して帰国すると、ただちにその理想を実現せんとして買収したものである。東京会館は現に、進駐軍の使用によって見ちがえるように花やかに、立派に、綺麗になっている。私の孫の大学生は、英語の勉強のために勤労者の一人として働いている。彼は命ぜらるる時間通り働きづめに働いている。ぼんやりと手を空しうして、油を売る時間の無いように、順序よく働かせらるるのに満足しつつ、その得るところ大なるを喜んでいる。

 この東京会館の賑やかな、花やかな夜色に対して、帝劇のうす暗い周囲の光景を見るために、帝劇の屋上近い部屋の一隅に佇立したのである。そして帝劇附属館である四階建洋館の真暗な、沈黙せる建築を凝視すると、東宝の若い連中が、ここにも宝の持腐れを抱いて平然としているその呑気さに驚くのみである。

 然し、帝劇そのものは、幸いにもバレエ「白鳥の湖」の開演中とあって、今しもチャイコフスキーの前奏曲が静かに、ゆるやかに、響き渡るのである。このクラシックのロシヤンバレエが、満員日延の興行であり、若い男女の事務員達が、嬉々として二十五円の入場料を払い大衆支持の盛況を呈していることは、帝劇買収当時の理想から見て、何という皮肉な現象であろう。敗戦の日本に主権は人民にありという新憲法が議会を通過し、民主主義は確定されて、「帝国劇場」という名称すらもピンと来ない時、私は過去を語らんとするのである。それは『なぜ帝国劇場を買収したか』について、今やその将来を杞憂するからである。

帝劇に夢みた私の計画

 十年は一昔、丁度十年前に、私は、巴里の国立劇場グランドオペラに開催された海軍兵学校の慈善演劇会に、佐藤大使のお招きを受けて、大統領御臨席の夜会に出席したのである。日記によって、当夜の光景を回顧するであろう。

「正面の階段を入ると、両側に水兵がならんでいる。盛装の貴婦人と、紳士と海軍武官や外交官の御家族達で、婦人は裾をひいて半裸体、頭に冠のようなダイヤモンドの燦然たるリングを被っている。ルイ十四世時代の、芝居の舞台で見るような貴婦人も見受けた。昨夜この劇場にトラビヤタを見物した同一劇場とは思えないように変っている。オーケストラボックスは取払われ、舞台から客席まで、平面の大広間になっている。かれこれ二千人近くの来賓が芋を洗うように立っている。しかも静粛に何時間か立ちづめである。社交的訓練が行届いたものだと感心した。

 大統領のお席は、私達桟敷の二、三室ばかり隣の舞台に近い一室である。丁度十一時すこしすぎた頃、桟敷の裏の通路の両側に、兵学校の生徒が制服でお迎えしてならんでいる。ところどころ赤い飾りのある軍装の憲兵が警戒している。その中央を海軍大臣の御案内で、大統領閣下は燕尾服に赤い広幅の勲章のリボンを斜めに飾って、令夫人御同道にて入場あらせられるのを、私は外交官席の後に立ってお迎え申し上げたことは、何という偶然の幸福であろう。

 ラッパの音が高く響いたと思うと、あたりがいつとなく静かになり、水兵が二人、鎗を持って露払いのように先導して入場してくる。それから、二、三人の閣僚や、軍令部長などが大統領の前後に、三々五々群をなして、話しながら、平凡に、歩行をつづけ、外交官席に近づくと、一々握手したり、敬礼を受けたり、手軽に挨拶をせられて居られた。大統領夫人も亦同じく御如才なく、夫人方に握手せられておった。

 流石に自由を尊ぶ共和国の光景で、一寸想像が及ばない。不思議に思ったことは、この劇場つきのロジイの鍵を持っている老婆や、外套を預かる番人の老婦や、それ等の使用人が平然として、いつもの通り自分達の席に腰をかけて、大統領の御通行を見物して居るのは、習慣とは言え、日本に見られない図であった。

 大統領が御着席あらせられるその席の下の方に、臨時に出来たオーケストラから国歌の音楽が響き出すと、全員起立、音楽がすむと直ちに余興が始まる。海軍軍服を着た立派な司会者が現われて、音吐朗々、プログラム通り少しも休みなく進行する。舞台はいつもより数間奥深く飾られて、そこには仏蘭西の何とかいう昔の有名な船の内部が、舞台一面にかざられ、何段かの帆が、いくつもいくつも丸い柱にからまれている。そこに兵学校卒業生の新しい軍人が、これから遠洋航海に出発するというところから、余興が始まるのである。(余興は面白いけれど長くなるから省略する)余興の最後に、この国の第一流の俳優達を一々紹介して、一人ずつ舞台に出し、大統領に敬礼をなさしめお客様にも挨拶する。かれこれ二十人もならんだろう。誠に名誉のある嬉しい取扱いだと感心した。

 それがすむと、国歌の音楽に全員起立、大統領は御退席する。舞台の正面にオーケストラが浮上って、音楽になると、広間の客席にダンスが始まる。かくて、夜中の三時四時まで踊りつくして、朝方六時頃解散するという話であるが、払は佐藤大使のお帰り後、直ちに宿に帰ったのは二時頃であった。

 今夜は実によい見学をしたと喜んでいる。この度の旅行中に、かくのごとき思いもよらぬ収穫をえたことは、将来私の思想と文章の上に、どんなにか影響するだろう。いろいろ考えさせられたのである。」

 この劇場に大統領が臨席されたように、日本においても、一つ位営利を離れて、社交の中心となる劇場が必要である。そうだ、日本に帰ったならば帝劇を買収して、高貴の御方や、貴顕紳士の社交場として、東京会館と相俟って、文化の殿堂を建設しよう。

日本の社交は、今なお花柳界の力をかりるにあらざれば乾燥無味で、成立しない現状である。そこに、新橋柳橋赤坂は言わずもがな、清く、正しく、美しい社交的施設がゼロであるからである。私はまず第一に、社交の中心を帝国劇場に引寄せ、そこに重点的に、あらゆる施設を充実せしむることが出来るならば、花柳社会の陰影から、明朗高潔の天地を築き上げることができると確信した。

 そして、東京会館と帝劇とを買収すると同時に、も一つ、八層高楼の帝劇会館を右側の空地に建設し、地下道による東京会館と、高橋による帝劇会館との連絡を左右に結び、中央帝劇をして国際的公会堂の性質を持たせ、集会宴席は勿論、公共的であり、倶楽部的であり、個人および国際の便益に奉仕し、ここに芸能本陣の最高峰を築き上げて見たい――という理想は、日支事変と共に一片の反古として葬られ、帝劇会館の青写真は紙屑となって竹中工務店に寝ている。

 帝劇を美麗宏壮に改装すべき夢は破れて、一度は情報局に徴用され、大政翼賛会に利用され、見る影もなき廃墟的存在に蹴落されたのであるが、今や辛うじて復興の緒にこぎ着けたばかりの、哀むべき帝劇の、そのみすぼらしい姿に直面しながらも、私は心ゆくばかり、コオル・ド・バレエやバ・ド・ドウの男性美の豊さに驚喜し、リリストの花やかさを満喫し、恍惚として昔ながらの、若き血のほとばしる快感に満足しつつ、田村支配人の部屋で、その成功を賞め、この企画に活躍した蘆原英了君の努力に敬意を表したのである。蘆原君は、私の宝塚時代可愛いい坊ちゃんで、ファンの一人であった。

田村支配人は、麗人入江たか子の主人であり、夫婦雛の典型的美男美女として有名であることよりも、彼等は、劇界の旧習から離脱し、超越して人間味深く、その情艶は同人を羨ませている。

 私は支配人室でサンドウィッチのお弁当をすませ、第四幕オデット姫の助力によって魔法使いロットバルトを刺殺し、舞台が明るくなって、暁近い湖面の背景の前に、王子ジイグフリードと、王女オデット姫と抱き合う最後の感激を見て、帝劇を出ずる時、しばしば振返って別れを惜しまざるを得ないのであった。それは、帝劇再興の私の計画が、又しても徒労に帰せんとする運命を自覚したからである。

洋楽と邦楽について

 帝劇ぐらい、営利的興行の立場から経営至難の劇場は少いであろう。

大劇場による収容人員を標準にして、各劇団が組織せられているから、僅かに千人近い客席を持つ帝劇の立場が至難であることは自明の理である。

 そこで、私はわが国放送局の事業に対し、当然革命的胎動の起りうる機運を逸すべからざるを痛感した。帝劇こそ、正に、我々民間人の創設すべき放送局の候補地であるべきを空想せざるを得ないからである。

 民間放送局! の夢は破れた。

 この八月の上旬から、軽い胃腸カタルに冒されて横臥した。家人からは鬼のカクランだと嘲笑されたにもかかわらず、私自身は五、六日静養のやむを得ざる機会に、非常な拾いものをした。それは退屈まぎれに朝から晩までラジオを聞いたことである。

 放送の種類と、内容と、前々からその貧弱さは承知して居ったが、一日聞いていると、如何にもなさけない程その低級さと貧弱さがわかって、結局日本の音楽そのものの本質よりも、我々が日常使用している言葉と、その対話、その演説は、これでよいのだろうかという疑問を抱くことになる。

米人の偉大なる体格美を仰ぎ見て、我々の繊弱な素質を危ぶむごとくに、精神的低迷の瀬戸際に立たざるをえないのである。

 洋楽の優秀なることは、何人も異議のない点であるが、さりとて、日本音楽も亦捨て難き情緒ありなぞと、自己満足をする時代ではないことも心得ている。心得ておりながらモットよい音楽がほしい、出来るかもしれない、世界共通の音階と譜面と、その融和性とは、かならず新日本の音楽が生れ、独特の国民性は何かの機会において顕れるであろう、という気長い心持からも、私はそう失望ばかりしては居らなかったのである。

 然るに、今度こそは断然見限らざるを得なかった。それは進駐軍のラジオを連日聞いたからである。彼等の組織的プログラムの整然としてバラエティに富み、その内容の充実したる、何曜日何時には何か聴けると待ちこがれる音楽の楽しさ。私は唖の旅行において、外国の芝居や、寄席や、あらゆる興行ものを見聞した時は、深く感じなかったが、彼等のラジオ芸術の普及的勢力と、面白く引きつけてゆく企画など、これは断じて太刀打ちの出来ない非常な距離のあることに心づいた。

 私のような皆目、外国語が判らない老人においてすらも、進駐軍のラジオを聴いていると音楽は勿論のこと、そのすべてのものを受入れられて愉快である。若い人達は、殊に米国語に興味を持ち、これを理解する人、理解しなくとも理解し得る素質を持ってる人達は、日本のラジオなどバカバカしくて、聞いて居られない時代が来るのも、そう遠くはあるまいと思う。必ず来るであろう。

 果してしからば、私達が放送局を改革して、放送すべきその内容のあらゆる芸術を革新向上せしめ得る前に、否な、その革新向上を企てる必要がないことになって、国民の最大多数のクラスは、米国の放送を傾聴することになるかもしれないと思うのである。

 必要は改革を産む、必要ならざるものに改革は望み得られない。我々は、鎌や、鋤や、鍬や、その農具の局部的改良進歩も必要であるかもしれないが、機械的農作が行わるるならば、それが増産の鍵であり、農民はその結果に満足しうるならば、局部的農具の改良は、この国の運命を左右し得ないごとくに、我々は米国のラジオによって、手取早く喰いつく時代が来るのではないだろうか。

 これは、若い人達に問わんとする私の注文である。長唄の勧進帳や、清元や、新内や、浪花節は、必ずしも消えてなくなるとは、誰しも思わないだろう。

しかしこれを改革するとなると、B29に原子爆弾に、なしうると思わざるごとくに、凡そ縁遠い日本音楽の改革なぞに、馬鹿力を入れる愚人は無いであろう。ここにおいて、民間放送局の空想はふき飛ばざるを得ないのである。

米国映画と日本映画

 帝劇を出て、私は有楽町駅前に新装し得たマンションクラブに、一夜の宿を借りるべく暗い大路小路をぞろぞろと、人群れの裡を押されながら歩いて行った。

 マンションクラブは、我々同人の集まる、袖すり合えば多生の縁ありという、その緑の下の力持ちをする同人達の息抜きクラブである。このクラブに泊ることが出来たゆえに、久しぶりで上京したのである。

 東宝大沢社長の御厚意によって、鮮かな通訳を煩わして、東上の主たる目的たる進駐軍B三百番ミス・アビロックの用事をすませ、東宝の本社へ同行した。折柄社長室には、東宝重役や幹部諸君が集まっておられたので、日本ラジオ悲観論を披露するとともにこの問題は直ちに映画の製作に一致すべき共通点があることを強調した。

長谷川一夫、山田五十鈴のトリオが、如何に地方人を魅了し、優秀なる東宝色彩を維持しうるとしても、現在の映画企画は更に一歩を進めて、その観客層の請求に善処しなければ駄目であることを信じているからである。

私のごとき無学な老人においてすらも、洋映画のタイトルも読めず、スクリーンの訳文にたよる低能な観客においてすらも、東宝、松竹、大映の千篇一律な古臭いものよりも、洋映画のもつ芸術味と、興味の深い筋の運び方、こんこんとして湧いてくる音楽の盛り上る力、俳優の真剣なる態度等々、何もかも、比較にならない程優越している米国映画の方が嬉しいのである。

 殊に遠からず天然色が輸入せらるる場合には、圧倒的に洋画の勢力に押えつけられることは、火を見るよりも明らかである。東宝の立場としては、現在のスター陣によって安閑たりうる時代ではないと思う。芝居にしても、映画にしても、彼等の御機嫌をとるよりも、彼等とともにお互いに自らを顧みて、奮励一番、改革をなすべき時である。

たとえ一小部分なりとも、日本再建の使命をになう、映画界の指導者としての東宝は赤化組合に引ずられてまごつくよりも、全面的に御破算ですすむ大英断を必要とするときである。それには我々はハリウッドの企画製作監督等、敗戦国の今直ぐにどうするということは不可能であるとしても、その方面からの有力なる指導を得るために、工作する準備行為が必要である。

現に、戦災復興院は優秀なる顧問採用に、その人選の交渉を進めている。東宝も亦、ハリウッドの新しい空気を入れることが急務である。然らざれば、放送において日本の出しものが軽視され、米軍の放送にさらってゆかれるごとくに、映画もまた同一運命に陥るものと信じている、という私の説明に対して、彼等は、
『誠に結構ですが、来て貰うならばハリウッド第一流の監督でなければ駄目だ。第二流以下では……』と、如何に理想は高い方がよいとしても、見当はずれの意見にこだわっている。

第一流が来る筈もなければ、来られてはソロバンのけたがはずれて、倒産するに至るであろう。私は第二流第三流を問わない。彼等の新しい見方によって、新しい企画を樹てて貰うべしである。スターの誰彼と言わない。片隅にころがっている異彩ある新人が発見され、平凡でない却って変り種が利用されるかもしれない。

 それよりも、かれ等の眼に写った新しい見方から取りあげられた作品が、どんなに奇想天外であるかもしれない。私ならば議論より実行だ。彼等にはPCLの旗印を立てて、松竹に肉迫した往年の勇気はない。守勢に立つ怯弱な方針に終始して、因循姑息でその日暮しの間に新進の敵手が現われて、かならず彼等を圧迫するに至るであろう。彼等には創造の智慧がない。積極的建設の勇気がない。唐様で書く三代目として、彼等の小賢しい態度を笑わざるを得ないのである。

 この日私は、偶然にも日活の堀社長に会った。私は彼により、社内の労働団体を拒みえた彼独特の議論を聞いて、微笑を禁ずる能わざるものがあった。

蛮勇も亦徒労にあらざるを知る。すなわち彼に勧むるに、米人監督招聘の必要を強調し、撮影所を持たざる日活のゆく途は、大映との合同にあり、同時に東宝松竹三社鼎立の競技によって、老朽を打倒してゆく勇ましい映画界の前途を祝福した。

 彼は婦人のごとき温柔の面貌に、いささか紅潮をたたえて、底知れぬ図太き胆大心小の立居振舞い、唯々として『御高論御尤なり』と言う。喰えぬ男と知りながら、その愛嬌の無意味にあらざるを喜ぶのである。

 久方ぶりの東上に、不平もあり、癪に障ることもあれど、若い人達に会うことの楽しみは老いゆく心淋しさに、一服の清涼剤を与えられたるごとくに嬉しいのである。

 マンションクラブの一夜は、お隣から急雨のごとく響ききたる変電所の騒音に明けて、八時半の急行列車に乗る。有楽町駅から車窓に立って、「アーニイ・パイル」の屋上に挙手の黙礼をささげて大阪に帰るのである。

(二一・九・三)


底本:「宝塚漫筆」阪急電鉄
   1980(昭和55)年2月15日発行
底本の親本:「宝塚漫筆」実業之日本社
   1955(昭和30)年6月20日発行
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2007年12月21日作成
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫( http://www.aozora.gr.jp/ )で作られました。

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以上、引用。

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所感|

小林一三翁の著作を読んで、この文体は面白いなあと思うことがしばしばあります。

この「アーニイ・パイルの前に立ちて」で顕著ですが、目に映る景色やその場の空気や、様々な五感を通して伝わってくることを、詳細に、色彩豊かに語りながら、同時並行で、都市開発やビルメンテナンスの導入の可能性についての細かい分析的な洞察を、全く違和感なく、流れるような思考の中で分離せずに書いていくんですね。

もしかしたら、読み手にとっては、分離して書いてもらったほうが、わかりやすい書類になるのではと、自分を同列に語るのは恐れ多いのですが、「まるで、若いころの私の出張報告書みたい」と思って笑いがこみ上げてきたことがありました。

学会やワークショップから帰ってきた後の出張報告書の場合は、出張先の情景描写と、イノベーティブなテクノロジーの導入の可能性に関しては、分けて書いたほうが、顰蹙を買わないで済むかも。

反省(手遅れ)。。。

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夢を実現するということ、そのためには「強く願うこと」が大事であると、過去の偉人は言います。

私もそう思います。でも、ただ、願うことだけでよいのでしょうか。そこには、小林一三翁が、かつてしたように、強く、明確に、思い描くこと、イメージすることが必要です。

強く、明確に、思い描く、イメージする、そして、強く、その思い描いたあるべき姿の実現を願う、科学にしても、医薬系の開発研究にしても、患者さんを目の前にした医療の現場で働く医療関係者の人たちにしても、その、順番は一緒だと思うのです。

皆さんは、何を、強く思い描きますが?

日本のこれからの未来に。

今日は、恵方巻を食べながら、願いを思う日ですね。私も、これから恵方巻を作ろうと思ってます(*'▽')

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韮崎市のホームページ(トップページ https://www.city.nirasaki.lg.jp/
 )「小林一三生誕の地にらさき」から「小林一三翁生誕 140 周年記念特集 小林一三ものがたり(PDF) http://www.city.nirasaki.lg.jp/.../top/images/kobayashi.pdf
」を閲覧することができます(※)。

※PDF、削除されたらしい。😥

小林一三翁に関する結構詳しい資料です。

こちらには、韮崎・七里岩の布屋墓地の前にたたずむ小林一三翁の写真が掲載されています。七里が岩は、甲州街道沿いの韮崎宿に沿って長く伸びる台地状の丘で、高台には古くからある墓地があり、そのそばには美しい「平和観音」が今でも墓地や街全体を見下ろして静かに慈悲深く佇んでいます。

みんな、しってた(‘◇’)ゞ?小林一三さんは、韮崎市出身だよー。

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以上、2018年2月3日に Facebook YukihoTakizawa https://www.facebook.com/Yukiho.Takizawa/ に post した投稿をそのまま持ってきただけの雑文 & 青空文庫からの小林一三氏の随想の引用でした。

随筆のラスト、印象的なシーンが語られます。

八時半の急行列車に乗る。有楽町駅から車窓に立って、「アーニイ・パイル」の屋上に挙手の黙礼をささげて大阪に帰るのである。

矍鑠たる逸翁の、未だ輝きを放とうとするダンディズムへのこだわりが、その個性における生来の気丈さを彷彿とさせます。

小林一三翁の気持ちを、その随筆のみから推し量ることはワタシの力量では無理がある。
「どんな気持ちだったのだろうか」とこの随筆を読み終えて考えました。
ワタシには正直言って分からないことだらけです。

皆さんは、この文章を読んでどんなお気持ちになったでしょうか。

「もしも、戦争が無かったら...」

と、ワタシは戦争が無かったら訪れたはずの日本の未来を思います。

小林一三翁は、1957年1月25日、東京オリンピックが開催される1964年の7年前に永眠されました。

それは一つの長い時間軸が継続した「時代」が終わり、レガシーが静かにその存在を沈めてゆき、悲惨な戦争を挟んだ「戦後」が終焉して、日本の躯体となるしかない残された僅かな人々(今現在、90歳から100歳を超えた人たち)と日本が否応もなくもう一つのステージへと、もがきながら向かう時代でした。

そして、今、ウィズコロナの令和の時代があります。

小林一三氏は、今でもメディアに時々取り上げられる伝説の大実業家、有名人ですが、彼の著作の中に記された様々な些細な日常の出来事や思索に思いを致し共感する時間を持つことは、タイムマシーンに乗って時代を遡って、今を生きる若い人たちにとって何かに気づくきっかけになるかもしれないと思い、この雑文において青空文庫に掲載された小品を紹介させていただきました。

戦争、争い、エゴ、人のものを奪うようなこと、そんなことが何もない社会が、そんな時間が存在することは歴史上なかったわけですが、戦争はしてはいけないと思います。何もかも失って、大きな褥瘡のような深い傷を負って、その傷がいえるのはいったいいつのことなのでしょうか。

そして失ったレガシーはもう戻ってくることはないのですから。

今日、ラジオ📻で宗教の話、慈雲尊者の十善戒の話を聴きました。仏教の教えですが、これはモーゼの十戒と通ずるところがある教えです。

1. 不殺生 いかなる生き物も、故意に殺傷しない。
2 不偸盗 与えられていない物を、故意に我が物としない。
3 不邪淫 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。
4 不妄語 偽りの言葉を語らない。
5 不綺語 無意味な、無益な言葉を語らない。
6 不悪口 他者を誹謗・中傷しない。
7 不両舌 他者を仲違いさせることを言わない。粗暴な言葉を使わない。
8 不慳貪 物惜しみせず、飽くことなくモノを欲しがらない。
9 不瞋恚 どんな時であれ、事であれ、怒らない。
10 不邪見 業報・因果・縁起・輪廻を否定するモノの見方をしない。
出典:法楽寺 http://www.horakuji.com/lecture/sila/juzenkai.htm

遠い昔から今に至るまでヒトがヒトになるために様々な同じような思索が絶えず必要だったことがわかります。

人を殺してはいけない。
ヒトのものを盗んではいけない。

ヒトがヒトになるためには、一定のエネルギーとベクトルが必要なのです。

図らずも、アメリカ合衆国の大統領選挙での勝利演説で、カマラ・ハリス氏が言った通り、民主主義は、そこに泰然とあることは保証されていない。

平和を維持するために、争いを持たないために、身近なことが大切なのです。そのためになすべきことは全てをする(戦争にならないために、争いが起こらないように、闘って勝ち取らなければならないことさえ手段としてする)必要がある。
若い皆さんは、そうしてください。

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Elle|【全文訳】
次期副大統領カマラ・ハリス、アメリカ大統領選2020勝利スピーチ

ジョン・ルイス議員(※1)が他界する前、こう書いていました。「民主主義とは状態(※2 state=国家、州の意味も)のことではなく、行為である」と。彼が伝えたかったこととはアメリカにおける民主主義は保証されているものではないということです。我々が民主主義への戦いに対して向ける熱意と同等の強さでのみ存在するものなのです。アメリカの民主主義は当たり前のことと、けっして決めつけることなく、困難に遭っている時には戦い、守るべき存在なのです。それには犠牲が伴います。でもその戦い、その犠牲のうちには大きな喜びと前進があるのです。なぜならより良い未来を築く力を持つのは我々人民なのですから。そして女性たち、私達の民主主義、アメリカの魂の行方はこの選挙での投票にかかっていたのです。

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史実からの補足(追記)|

この #note #読書の秋2020 に参加した日記で紹介した「アーニイ・パイルの前に立ちて」に小林一三翁が記された日付は「二一・九・三」、昭和21(1946)年9月3日です。お気づきになりましたか?

日本が公式にポツダム宣言受諾による降伏文書に調印したのは1945年9月2日、その翌日、9月3日が連合国における対日戦勝記念日です。

逸翁の著書に記された日「二一・九・三」はその丁度1年後の戦勝国の対日戦勝記念日でした。

公益財団法人阪急文化財団の小林一三年譜によれば、1945年(昭和20年)、小林一三氏は72歳で幣原内閣の国務大臣兼戦災復興院総裁に就任しますが、翌年、1946年(昭和21年)に、(第2次近衛内閣商工大臣だったことで※Wikipedia 小林一三より引用)公職追放となります。
73歳のときのことです。

公職追放を解除されたのはその5年後、1951年(昭和26年)、78歳のときで、その後同年、東宝社長に就任します。

公益財団法人阪急文化財団の小林一三年譜
http://www.hankyu-bunka.or.jp/about/biography/

一方(※Wikipedia 東宝争議によれば)、連合国軍総司令部内で敗戦日本の文化戦略を担当した民間情報教育局の映画班初代班長デーヴィッド・コンデが撮影所での労働組合の結成を急がせ、会社と交渉する方法等について組合を指導したことを受け、映画製作会社東宝においては、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって結成された東宝従業員組合によって1946年(昭和21年)3月に第1次争議、同年10月に第2次争議が起こりました。

第1次争議は比較的穏やかなものだったが、第2次争議は労働時間の制約など様々な新協定を会社側に認めさせたとのことです。

だから、「アーニイ・パイルの前に立ちて」に小林一三翁が記された日付、戦勝国の対日戦勝記念日の1周年である日は、逸翁が公職を追放されて73歳から78歳までのその後5年を過ごすその1年目であって、東宝従業員組合が3月の第1次争議を経て、新たに第2次争議をおこして会社との交渉の末取り決めに至った10月のイベントのひと月前のことであったと思われます。

その翌年、昭和22(1947)年12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が東宝に追放令を発し経営陣が入れ替わります。

それまでの社長の田辺加多丸氏が会長に就任、新社長に元日本商工会議所専務理事・衆議院議員の渡辺銕蔵を招聘したことで、翌年4月に東京砧撮影所従業員270名は突然解雇され、人員整理のため1200名の解雇計画が発表されます。

これを受けて東宝従業員組合は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して正面入口にバリケードを作って立てこもりました。これが第3次争議の始まりとなりました。

東京地方裁判所への対立する両者(経営側と雇用者側)の仮処分申し立てをへて、8月、日本の占領業務にあたっていた連合国軍のアメリカ陸軍第1騎兵師団司令官ウィリアム・チェイス少将は武装したアメリカ軍部隊と装甲車、戦車、航空機を率いて砧撮影所を包囲、同日、警視庁予備隊が仮処分の執行援助の為に砧を包囲し砧撮影所に通じる道を封鎖します。

NHK総合テレビジョンが開局したのは、1953年2月。テレビ局が開局されテレビが普及するまでの数年は、戦後米国占領下の日本での大衆向け動画メディアは、100%映画によるものでした。ですから当時、日本の映画製作会社は、映像を用いた最新のテクノロジーとインフラを持つ日本で最大唯一のマスメディアです。

映画製作会社の従業員が占拠した撮影所を米軍の戦車と日本の警察が取り巻くという事の意味は、現代に翻訳すれば、アメリカのCNNのビルディングの中にメディアクリエーターや解説者がいて報道を続ける中、他所の国家の装甲車とアメリカの警察がビルディングを取り囲んで道路を封鎖しているようなものです。

そんな敗戦直後の時代背景を知って、この随筆を読むと、様々な視点でのモノの見方、考え方がある中で、高齢の身で「離島へ流刑にあった平安時代の官僚のような心持ち」でいたであろう晩年の逸翁のその矍鑠とした立ち姿になおいっそうの感慨を持ちます。

逸翁の「親の心子知らず」との言葉が一番当てはまる気がしますが、誤謬のある言い方をすれば、「ゴジラかよ」っていうことです。

東映のヒット映画「ゴジラ」の第1回が製作されたのは、5年間の公職追放をやっと解除された小林一三翁が1951年(昭和26年)78歳で東宝社長に就任し経営を軌道に乗せようと画策し始めたその3年後の昭和29(1954)年11月3日、逸翁81歳のときのことでした。

東京宝塚劇場が接収解除されたのはその翌年1955年1月27日で、4月15日に復帰、開場します。1945年12月24日にGHQにより接収され、1946年2月24日に「アーニー・パイル劇場」となって実に10年の月日が流れていました。逸翁は82歳となっていました。

そして、東京宝塚劇場がその手元に戻って2年後の1957年(昭和32年)、小林一三翁は1月25日、急性心臓性喘息のため急逝します。享年84歳でした。

東京オリンピック開催の年である1964年の7年前のことです。

敗戦直後の日本の民主主義、「表現の自由」から現在の民主主義に至る系譜については、ジャーナリストの田中良紹氏が浜野保樹著『偽りの民主主義』を読んでの所感を Yahoo News に掲載していて、この記事が示唆に富んでいるように思います。

「こうした戦後の日本映画史を見てくると、民主主義を巡る日本とアメリカの関係は今も変わらないと思えてくる。一方にリベラルな民主主義を押し付けるアメリカがあり、もう一方にタカ派的な民主主義を押し付けるアメリカがある。その主張はまるで違うのだが、しかし両方とも目的は一つでそれはアメリカの国益を狙っている。」

偽りの民主主義(田中良紹) - Y!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakayoshitsugu/20131218-00030770/

期せずして、アメリカ合衆国大統領選挙におけるジョー・バイデン氏の勝利演説が、思い起こされます。

「私たちは、米国の魂を取り戻さなければならない。米国は、天使と悪魔の絶え間ない戦いによって形作られてきた。今夜、私たちの天使が勝つ時がきた。全世界が米国に注目している。私たちが模範となって、導かなければならない。」

「分断でなく結束めざす大統領に」バイデン氏勝利宣言全文:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65975400Y0A101C2I00000/

アメリカ合衆国は、地球に住む人類の歴史の中で最も近年形成された国家です。言ってみれば、モバイルに例えると5G対応機種みたいなもので、一見、全ての国家の模範であって良い気がします。

彼らは国家の仕組みとして相当うまく機能しているシステムを持っている。

他方、アメリカ合衆国の成り立ちの経緯と彼らの2世紀に渡る歴史は非常にユニークであって、それまでに建国されたどの国とも似ていない唯一無二の形成のされ方と唯一無二の歴史的な過程を持つ。

その国の地理的な位置取りは、他のどこの国にもない特徴を持っている。

結論から言えば、アメリカ合衆国をグローバルスタンダードと見なして、例えば背広とチョッキとズボンだったとして、日本がそれを身にまとってしっくりいくと思いますか。

無理でしょ。

アメリカ合衆国は、今の時代に即した最新鋭のメカニズムで最適化された国家だけれど、他の国が今の時代にフィットしていないかというと、それは違う。

その国の成り立ちと国の天地人に合った「この時」の過ごし方があるはずです。

それは、アメリカ合衆国がお節介と親切心で押し付けてくる彼らを模範とした最新機種のブラックボックス的な(熊の手で取り扱うのには便利なひと固まりの)分解不可能なブロックの導入で大丈夫でしょうか。

なにしろ、彼らはそれまで数万年に渡ってアメリカ大陸で生活を営んできたアメリカ先住民族を全滅に至るまでのやり方で滅ぼして大陸を占拠していますから、彼らの国の成り立ちをそのまま日本という数万年前からの時間軸で独立国家として成立している国の成り立ちと同じと思ってすべての国家のシステムをブラックボックスのブロックそのままで導入したら、それは、まさに占領と破壊と長い時間軸のレガシーの滅亡のプロセスを自ら受け入れることになる。

彼らの辞書には240年前以前は存在しない。

アメリカ合衆国は、過去数千年のサステナビリティを担保する必要の無い国家システムで動いている。

日本は欧米の文化と歴史の創造物、そのレガシーを自分たちの国の繁栄のためにうまく導入してきた国家です。それ以前には中国大陸から継続的に文化、文明のレガシーを導入してきた。それが可能だった主な要因は、日本の緯度経度による地理的な文明の導入に関する容易さ、つまり、メソポタミア文明が自然発生的に起こった場所に雑草のように生えてくる穀物と家畜のえさになる植物が自然に生い茂ることが可能な気候と土地であったことによる定住化と政治の中央集権化が早期に可能であったことや、その国家成立の早さと容易さによって長い時間軸によって最適化され淘汰形成された世界でもトップクラスの統治の仕組みが既にあったからです。

それをむやみな破壊衝動と暴力衝動、殺人への嗜好性とエゴイズムで破壊し、アメリカ的なやり方で、滅びと占領の原理にもっていこうとするそういった破壊嗜好性、暴力的な略奪への嗜好性をダーウィンの進化論的なDNAの淘汰によって生来の衝動として持っている一部の鬼畜のような業の深い半端モノに、国の行く先の意思決定を全権委任することは、「先住民」である日本人にとって愚かしいとしか言いようのないことです。

日本はアメリカ合衆国とは仲良くしていくお互い違うけれどウィンウィンの関係でいられる隣人として、国のまかないができる独立国家でいなければならない。日本は日本でとてもユニークな唯一無二の国だからです。

長い時間軸と世界トップクラスのユニークさ、魅力、世界から憧れを持たれるような日本的レガシーを大切に大切に育みながら、サステナブルに日本という国家であることが、もっとも先進的なビジョンである。

「難しいこと」が苦手で「白紙に何かを書き始めること」は避けたい、できれば「なにもしない」でお金だけ定期的に手に入れたいという人は、意見を言う必要が無い状況というのがある。それは、教育と躾によって何とかなることですし、日本には日本というチームを勝負に勝てる状態にしておくための日本独自の教育と躾は必要です。

資質によってレイヤーは分かれる。宗教は、あるレイヤーには欠かすべからざるものです。宗教のほうが理詰めの長い理論での躾よりも心に届きやすく広く人の魂を救う事が出来るツールだからです。

ヒトには、いろいろな見方、考え方があって良いとワタシは思います。

正解はひとつじゃない。

でも、正解か不正解か、ちゃんとした出来なのか、「ちょっとそれじゃだめだよ💦」な残念な仕上がりなのかは、はっきりしたほうがいい。

ダメージと無駄が多い。復旧不可能に陥る場合がある。

「いつになったらちゃんとできるんだ?」
「10年かかります。」

「えっ???(*'▽')。。。」

(「たぶん、2か月で青写真は作れるよ。(お金と意思決定権をいただければ...)」)

なんだか、最近、疲れてきたためが大きいけれど(反動というか安静にしているというか)、アメリカ文学についての講義(そしてそのアメリカ文学に影響を与えたアメリカ合衆国の成立からその国がたどった歴史的な事実)や、仏教についての講義を、ラジオで聴いたり、久しぶりに小林一三翁の著作を読み直してみたりしています。

心の中の自由は、全人類に保証されている人権だ。

以上、とりとめのない雑感から、理解の補助になりそうな時代背景を徒然に書いてきました。

皆さんは、日本の民主主義と資本主義について、どんな概念を持っていますか。

この note でご紹介した内容が、皆さんにとって、豊かで幸せな日本の社会の躯体となってゆくために何かのヒントになればと思います。

なお、史実に関する根拠は、特に記載がないかぎり、主に Wikipedia から引用しています。読みやすさを配慮して Wikipedia のリンク等に関しては省略させていただきました。

記憶|

幼児期の記憶の話をしてもごく個人的なことになってしまって何を言いたいのか伝えたいのかフォーカスが合わないとは思うのですが、ひとつ、不思議と残っている記憶があります。

自分で歩いて行ったのかも記憶に確かではないのですが、その場所のことはよく覚えていて、それは、記憶に間違いがなければ、典型的な古い呉服屋の美しい正面玄関のある家の裏側の入り口から入った和風の家の畳の上にたった一人でコロンと寝かされた状態だった思い出で、たぶん、ワタシは物凄く小さくて首も座っていなかった頃じゃないかという状態で、だからその場所までは歩いて行ってないとは思うのですが、もしかしたら、後々、歩いて行ったこともある場所で、でも記憶にあるのはその時の記憶と正面玄関から入ったときの巻いてある絹の反物が並んだ美しい風景だけで、その場での記憶では自分にとっては大きな和室の真ん中かどこかにコロンと寝かされた状態だったのではないかと思うのですが、その場所は日光がさしているわけではないけれど暗くは無くて眩しくもなくて、不思議な柔らかい細かい粉のような光に満ちていた記憶があって、その触れられそうなほど近くにある柔らかい粉のような光に包まれていて、自分の視界で唯一見えるのは、顔を横に向けたとき、遠くにある隣の和室との境のふすまが少し空いていて、そこはもっと明るくて、記憶が正しければ、最後列に正座して座った女性たちの黒い着物姿が見えていて、正座をした女性たちが最後列に並んで座っているその何人かの女性の横顔が見えていて、その女性たちのさんざめく笑顔が、和室と和室の間の少し空いたふすまから見えていた記憶なのです。
だから小さな赤ん坊だった私が寝かされていた和室の隣の部屋は明るくてきっと広くて大勢の人が正座をして並んで座っていたのだと思います。
わたしは、上を向くと周りの景色は全く見えなくなり、周りに壁があるのかも分からない状態で、光源はわからないけれど、なにか心地よい光に包まれて(おそらくは)仰向けに寝ている状態だったらしいのですが、その不思議な柔らかい光に包まれていたことがずっと記憶にあって、あの光は何だろう、その柔らかい光を見たい、その柔らかい光に包まれたいと、その状態を再現できないだろうかと強く訴求する気持ちがずっとあったのです。まるで何か必要な栄養素が足りない状態のようにワタシの中で気になり続けていたのです。だから、半世紀以上過ぎても幼児期の記憶が残っていたのでしょう。
それが、初めてその光に似た光の状態を再現できたと数年前思ったのが、ワタシが半世紀以上生きてきて、リフォームしたあとの自分のいる部屋の光の状態だったのです。この光だと思いました。
散乱光なんだな、と気づきました。何のことはないのですが、壁、天井、床、建具に窓から入った光や蛍光灯の明かりの光線が当たって散乱すると、自分の長年の記憶にあった不思議な細かい粉のような光に包まれている光の状態になる。
幼児期の記憶にある心地よい細かい粉のような手に触れそうな光に包まれていた感覚の光は、古い家屋の座敷の中での畳や壁やふすまや天井や柱に当たった光の混ざった散乱光だったのだろうと思います。
部屋の散乱光に日常的に包まれるようになり、その光の正体に気づいて以来、ワタシの中にあった幼児期のその不思議な光に包まれていた時へと遡りたがる記憶は、ワタシを苛ませなくなり、そのとき自分から見たら遠くに見えた部屋と部屋の境目の少し空いたふすまから視線に入っていたまるでルノワールの絵にあるようなさんざめく笑顔の群像への強いセンチメンタリズムのような憧憬とノスタルジーのような気持ちも静かに消えてゆきました。

ワタシは散乱光を求めていたんですね。
幼児期の記憶が自分を何かへの憧憬に駆り立てるというきっと誰にでもあるありふれた感覚なのだろうと思いますが、ワタシにとっては、この柔らかい細かい粉のような光への憧憬がただ一つの幼児期の記憶を辿りたくなる欲求だったのです。
それが、どこでもないある特定の場所にいたときの光の状態だった記憶であることが不思議です。私にとっては特別なことだったのだろうと思います。ごく普通の話をごく普通に語っただけですが、思い返せば、これほど満ち足りた幼児期とはなんと幸運だろうか。幼児期、ワタシは何物にも脅かされることがなかったのです。どこにいても満たされて安心・安全だった。これは本当に特別なことだったのだろうなと今になって思い返します。

Epilogue |
a, memories

One of the various memories that Vetri Vicini by Danka Weizen leads

The vegetation of the garden green, the gentleness of the sun entering the room from the window, all scenes are mysteriously similar to the nostalgic impression of the Japanese middle class home garden in the 1960s to the early 1970s. I really like the still life.

Vetri Vicini by Danka Weizen:
on https://fineartamerica.com

If I walk in a small town that will be completed in about 20 minutes on foot, the sound of a piano played by a near-age child practicing is faintly heard.

A child with a violin goes on to the lesson, there is green and pond in the garden of the house that can be seen from there, there was no person, the city was quietly standing.

A small park where children around the age who go to kindergarten can go for play alone was adjacent to the residential district.

An illusion only in memories.


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※note コンテンツ「小林一三著「アーニイ・パイルの前に立ちて」- 戦後|その一つの記録と終焉 -」に関連のあるスレッドが @Mats_blnt_pharm にあります。

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韮崎宿という独立連邦国家と
愛すべきナウマンゾウたちのストーリー|

逸翁の物語にはじまる「ネットサーチ」の過程で、ワタシは期せずして気づいた。

彼の言葉「自分は幸運な人間だった」の意味の一部は、彼が事実上「株をあてた」ことであって、彼はそこで「勝っている」。「ポーカーで勝った人」という運の良さがある。

他方、彼が投資家、事業家として成功していくその若き三井銀行時代から大阪時代を支えたのは、彼が築いていった政界、財界、大阪商人たちとの信頼と絆のネットワークだった。

つい先日の興味本位の「ネットサーチ」で、ワタシは気づいた。

彼が韮崎宿という「独立連邦国家」の王族のひとりであったという事に気づいたのだ。

韮崎宿の旧家である小林家(布屋)は、彼が家督相続した「長い時間軸を持つ財産」を、東京へ出た慶応大学時代の彼に仕送りし続けた。そして、三井銀行時代、大企業をスピンアウトしてベンチャー事業家、投資家として、彼が大阪の財界人との絆と信頼関係を築いていく彼の冒険のプロセスで、小林家は彼に彼が所有する権利を持つ資産を供給し続けたのだろう。事実上、彼は小林家の財産を相続した王なのだから。

そのために、彼は「軍資金」に不自由することはなかった。

彼は当時その韮崎宿という物流の集散地での商業を資源としながらその部落の全ての人々の営みの基盤を形づくっていた小さな小さな「独立連邦国家」の歴史あるユニークな仕組みの中で、ベーシックインカムを恒常的に得ていた(独立商業都市であるがゆえに民主的な性質が強い)王族の王の1人だったのである。

「独立連邦国家」韮崎宿は、彼がその国家の「王」だから、深い慈愛をもって、彼を(その地域の公益のために)資金面と絆の面で全力でお支え申し上げていた。

そういう仕組みだったのだろうと気づいた。「ネットサーチ」の過程でワタシは当時から半世紀以上たった今現在それに気づく。

彼は、愛すべき彼の小さな連邦国家から、日本という大きな世界の中に漕ぎ出でて、慶応大学で福沢諭吉の薫陶を受け、新しく隆興した自由主義経済と資本主義、民主主義の申し子として、日本国家に仕える事実上の公人として勝負に出ていく。それは彼のためであるけれど同時に日本の発展のためであり大衆の豊かな暮らしと幸福のためであった。

だが、彼の生涯を通じて、彼は韮崎宿という「独立連邦国家」の事実上の王のひとりであったのだ。

彼は彼自身の努力と勇気と才覚で、大阪の民に「今太閤」と呼ばれて愛される人となるのだけれど、彼を愛し彼を資金面と絆で支え続けたのは、その自由主義経済、資本主義、欧米化されたハリボテの日本全体のその帝国の中央集権の国家主導の民主主義から取り残された「もはや、石油は枯渇して何の経済資源もなくなった」彼の小さな小さな祖国の「連邦国家の最後の資産」を所有し管理している、彼にお仕えしお支えして真心のみによって深い愛情を注ぐナウマンゾウのような人々だった。

「もはや戦後は終わった」といわれた時代以降に生まれたワタシと親の世代との間には、日本海溝よりも深い断裂がある。

ワタシが生まれて育ったワタシの一家は貧しい家だった。でも、幼い時期、祖母はワタシに惜しみない愛情を注いでくれ、祖父は、何をしてくれるわけでもないが、幼児期のワタシの傍らにいつも静かに佇んでいた。ワタシは、祖父が自分の子供たちのために果実の実る木々を植えた「祖父の製糸工場の跡地」である庭で柘榴をもいで庭の土にたたきつけて割ってその場でかぶりついたり、かくれんぼでいちじくの木の下に隠れながら、頭の上に実る大きないちじくの実をもいでその場で皮をむいて食べたり、胡桃の殻を割ってもぐもぐ食べたり、軒に干してある干し柿を飽きるほど食べたり、子供の心と腹を十分に満たし得る、結局は、祖父が持つ小さいけれど誰からも脅かされる恐れなどみじんもない安全域の広い庭で、育った。

けれど、ワタシは、彼らを全然知らないんだ。

半世紀を経て、興味本位の「ネットサーチ」で知るんだ。

かつて、そこに愛すべき心暖かな愛情深い「ナウマンゾウ」の連邦国家があったということを。

彼らは、深く深く恐ろしく深い愛情で、彼らの長い時間軸の小さな公国の最後の王子を愛し、彼にただただ朴訥に愛を注ぎ、彼に尽くし支え、そして静かに滅びの道を歩んだのだ。

ワタシは、それを知らない。滅んだ愛すべきナウマンゾウたちの最後の気持ちを知らない。

知らない。。

知らない。。

知らない。。

その滅びた小さな小さな連邦国家の人々の、王と国家の公益と民主主義と自由経済と資本主義の統一国家である中央集権の民主主義の国である日本国家に、ただただ一途に仕えた「彼(祖父)」の生前の気持ちに、ワタシはPCのキーボードをたたく指の軽い打刻音の先にある「ネットサーチ」で初めて気づくのだ。

ワタシはナウマンゾウたちの血を引いている。

おじいちゃん、それは間違いないよ。

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https://note.com/matsunoya_note

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ビジョンがもたらすもの|

小林一三著「アーニイ・パイルの前に立ちて」- 戦後|その一つの記録と終焉 - に関連するコンテンツが note にあるのですが(※1)、「あとがき」から #TellStoryDay を挟んでのYouTubeリコメンド映画への展開がワタシ的に笑いのツボ...
分かりにくい?

※note 1. 祖母の手記(写し)「 松廼屋 菓子店の発祥」
https://note.com/matsunoya_note/n/n397cf798983e

夢を実現するには強く願う以外に「強く明確に思い描くこと、イメージする事」が必要と上記 note(※1)に書いた。

それは実践のプロセスについての各論的イメージトレーニング手法であるけれど、他方、心の原風景のようにユング心理学で説かれる元型、遺伝的継承像 Arche-Typ 、集合的無意識の視覚化でもあると思う。

図らずも、上記 note(※1) で、YouTube から André Rieu - The Second Waltz (Shostakovich) https://youtu.be/vauo4o-ExoY を引用し紹介した。

上記(※1)の - Another Epilogue - に書いた「臨時に設営された見世物小屋の中で見た見世物」のシーンを記憶している。

それは、小人や手足のない奇形が出てきたりしてどちらかといえばアメリカ文学的な例えばフィリップ・K.ディックやカート・ヴォネガット・ジュニアの小説の世界観のようなシュールでグロテスクな醜悪さをそのテイストに持つ世界だった。けれど、たぶん相当小さい頃のことだったのだけれど幼いワタシがそのショーを「3度見」したその夢中になった魅力というのは、そのグロテスクさとシュールさそのものではなく、むしろ、そこに現実にあった原風景、それは集合的無意識の視覚化の近似であったのかもしれないけれど、たまたま見た動画コンテンツである André Rieu が手掛けたライブ動画が、そのユング心理学でいうところの原風景に最も近い。

ようするに、André Rieu が計算しつくして演出し素晴らしいカメラワークによって動画作品として切り出したシーンは、ワタシの衝動、それはユング心理学においてはリビドーという概念で書かれるのだけれど、それが言いようもなく向かう原風景であった。無意識の中で、André が作りだした情景そのものの宇宙が、幼い私がそのテントの入り口をくぐって小さな見世物小屋に入った途端に広がっていたのだ。

そして、おそらく、小林一三著「アーニイ・パイルの前に立ちて」の中に書かれた逸翁が戦前に夢見た国際会議施設と外交・文化施設の総合された集合体の構築というビジョンの中にある原風景が、André Rieu が計算しつくして視覚化したビジョンの中に描かれているそのものの世界なのだという推論から、逸翁がそこに持ったビジョンが、ワタシの原風景と重なるものであるという気づきが生まれる。

多彩な音楽映像作品を手掛ける André にとっては1000分の1の心的エネルギーに過ぎない原風景であるのかもしれないけれど、彼の迷いなく計算しつくされた映像の創造は、小林一三翁の心的エネルギーと寸分の狂いもなく同じベクトルを示しているに違いない。

そして、 André がSNSを通じて惜しげもなくシェアするこの動画を視聴しながら、プラットフォームの拡張現実(AR)機能をもつ過剰なメカニズムに由来する錯覚からワタシは感涙のあまり「André は、もうすでにワタシのファミリーのひとりだ。」といった過剰なシンパシーを彼に持つに至るのです。動画の再生回数を見れば明らかにわかるように、世界にはワタシと同じ感涙に至る人たちが大勢いる。

映像から受ける印象を個々に詳細に述べても、それがインパクトを正しく伝えることになるのか、それはわからない。ただ、ワタシにわかるのは、映像が偶発的にそこにある風景を平らにとらえたスチール写真ではなく、それ以外にないというコンプリートされた彼の舞台音楽芸術としての完成形であり、強いメッセージ性をオーディエンスに投げかけていることだけです。

そしてさらにいえば、「松廼屋 菓子店の発祥」に関連するコンテンツ(※2)で紹介した YouTube コンテンツもまた、あるいはまったく同じ集合的無意識の視覚化の近似である。

※note 2. 祖母の手記(写し)「末ちゃん」・「製糸場回想記」
https://note.com/matsunoya_note/n/n9ca8dc48efcc

この(※2)中で紹介したのは、YouTube から、Freddie Mercury - Living On My Own (Lyric Video)  https://youtu.be/lgeJWnZnzcQ とフレディのチームが映像をつけた Freddie Mercury - Living On My Own (Official Video Remastered)  https://youtu.be/DedaEVIbTkY 、その他リミックス版なのですが、この楽曲の歌詞によって表現された世界観と他の人から見れば奇抜でアバンギャルドすぎる映像との総合的音楽芸術でフレディが示した世界観の中に見られる原風景は、さらにクイーンの後期においては、大観衆を収容したクイーンのライブとして表現される「原風景」となっていくけれど、偶然にも、または必然的にワタシの中の原風景と全く同じ心的エネルギーのベクトルを向いている。

クイーンの後期における大観衆を収容したクイーンのライブとして表現される「原風景」の一端が、最近、TikTok に収載されたらしい。

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リビドーに由来してそこに描かれた元型は、なぜ、ここまで近似し、ユング心理学で説かれる遺伝的継承像 Arche-Typ 、集合的無意識を視覚化しているのか。

それは、フレディ・マーキュリーという天才が計算しつくしたその視覚化された世界観において、心的エネルギーのベクトルを微動だもしない正確な方向に向けているから、彼が舵をとって船の行き先へとその船の船首を向けているのに他ならない。

余談ですが、Freddie Mercury Living On My Own の「アバンギャルドな」映像の中にちりばめられたモティーフと衣装の白と黒のひし形模様はヨーロッパの道化に代表される模様です。パブロ・ピカソの絵のアルルカンなどに画かれています。
西洋洋画美術館 アルルカン
パブロ・ピカソ(スペイン)1881~1973
https://artmuseum.jpn.org/mu_alulucan1.html

チェック柄は、日本では、市松模様と呼ばれています。江戸時代、歌舞伎の佐野川市松が白と紺の市松模様の袴を着たことで女性の間で流行したとか。市松模様は東京オリンピック2020のエンブレムに採用されて話題になりました。
市松模様には「永遠や発展拡大、繁栄」等の意味があるそう。日本では、事業拡大、子孫繁栄等のメタファーです。
縁起のよさそうなフレディ・マーキュリーっぽいの、見つけました。
そういえば、フレディが好んだ伊万里焼にも伝統柄として市松模様があります。

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彼らは、つまり彼らとは舵をとって船の行き先へとその船の船首を正確に向ける彼らのことであるのですが、なぜ同じ、まったく同じ集合的無意識を一寸の狂いもなく同じ心的ベクトルとして視覚化して表現しようとするのか。

彼らほどそこまで芸術性も事業家や投資家としてのビジョンも持ち合わせていないので、多少貧弱な話し方になってしまいますが、そこに社会性を有する類人猿の太古からの元型、端的に言ってしまえば、サル山のグループA の最も安定した平和で幸福感にあふれた集合体の様子がその元型にあって、目線としてはボス猿がその風景を見ている位置取りの元型が、今ある風景を見ているというよりもそのあるべき姿に向かいたいと思う強いリビドーである心的エネルギーが、その視覚化された原風景へと向かう衝動として、そこに厳然とあるからなのではないでしょうか。

そして彼らの視覚化されたイメージを見ながら、ワタシもまた、その雲の上にあるモノを追いたい彼らと同じ心的エネルギーに向かうまったく同じ原風景を見ていることに気づく。

その元型への心的エネルギーの強度とベクトルは、100%誰でも生まれながらに持っているものでしょうか。

人はそれぞれ違う。みんな違ってみんないい。

だけれど...ワタシは、

強さを強さで補完していくこれからの未来を思います。

弱さを強さで補っていくこと、弱さが強さを奪っていくことよりも、強さを強さで補完していくことには巍然とした「強さ」がある。

これからを生き抜くためのキーワードであるレジリエンス、インクルーシブとは、そこへのソリューションとは、チームが強さを強さで補完していくことから始まるのではないでしょうか。

その強さは根本的には統合的な見地からは集合的無意識へと向かう一寸の違いもない原風景へのリビドーの強さ、心的エネルギーのベクトルだ。

何となくそんなことを思いました。

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ウィズコロナのこの時代に、アメリカ合衆国では 11月23日、リリースから40年余りを経て、クイーンの ”Greatest Hits” がビルボード 200 albums chart でTop 10 入りを果たしたとか。 

フレディ・マーキュリーは、今なお、健在だなー(*ノωノ)

Greatest Hits | Queen on Spotify

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A Night At The Opera (Deluxe Remastered Version)
1975  | Queen on Spotify

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韮崎に生まれ、育つということ|

第4次産業革命以降のイノベーションと、そのテクノロジーに裏打ちされて整備されたインフラストラクチャが地球規模で存在することによって、これからの時代、「生まれ育ったこの土地にいるから(夢が)実現できない」または「他の都道府県に行けば(夢が)実現できる」という制限がなくなりつつあります。

ことわざでは、かわいい子には旅をさせろといいますが、それはあくまで「」であって、確かに国内外に問わず留学によって得られるものは、大きく成長を助けることではありますが、それはあくまで「」にすぎません。

これは、ワタシが生まれて子供時代の成長期を過ごした山梨県に限ったことではないですが、偶然に「神に祝福された土地」に生まれ育ち、周囲の恵まれた大気環境・水環境や、そういった環境の中で歴史と伝統を継承しつつ穏やかに長くそこに住んでいることによって実効性の高い、人間としての豊かな人生を実現してきた大人たちに助けられながら、守られながら、すくすくまっすぐと育ったのなら、そのことに感謝し、生まれ育った郷土で、日本人の一人として、一地球市民として、夢を実現していくことは、より良い人生を謳歌する選択肢として既に与えられている。

今の時代は、そういった戦略が技術的に実効可能な環境が整っている。

豊かさを内包する歴史・伝統といったものを継承しながら、人間として生活の時間を送ることができる恵まれた郷土があり、軸足を置く基盤としてその環境があってはじめて、本来の人間としての豊かな人生が、より実効性の高い形で実現できるのです。

その気づきによって、また、新たに若さ溢れる新たなビジョンが生まれてくるのではないかな。

そういったビジョンを持つ若い人たちが増えていくといいな、と思います。

韮崎市に生まれ育つということは、特別なことです。

それは、日本各地に静かに佇む長い歴史を持つその時空を内包した土地に、曽祖父母、祖父母、長きにわたってその土地に住む祖先の魂と時空を共にして育ち大人になる全ての多くの大部分の典型的な日本人らしい日本人に言えることですが、あなたたちは生まれて育って大人になってまた子供を産み育てるという過程で、特別な幸運に出会っている。

南アルプスの峰々、富士の霊峰、清き空気、清き水、整った学習環境、子供を思う大人、そして大切な仲間たち…。

子供のノビシロを遮らずに伸ばしていけるこういった整備された環境は、外の世界に出るとわかるけれど、どこにでもある「平凡なもの」ではないです。

世界に目を向けて羽ばたきながらも、宝物のようなこの郷土に軸足を置いて、郷土を基盤として、まっすぐに大きく成長していってほしいと思います。がんばれ!

君たちは、「武田節」をフルコーラスで歌えるかな。。

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北杜市のGWおすすめ観光スポット🌲に【信玄棒道】があります。

武田信玄が北信濃攻略のために造った軍用道路と伝えられ、「美しい日本の歩きたくなる道500選」、「歩いて見たい日本の100選」に選定されている。
【八ヶ岳 信玄棒道ウォーキングマップ】を持って美しい新緑の中をハイキングしてみませんか?🌿

信玄棒道

出典:山梨県 北杜市観光協会 Facebook

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これは、山梨県 北杜市観光協会のPRの文章をそのまま持ってきたのですが、信玄棒道、道好きにはたまらない風景です。

話が変わりますが、流行っているかどうか知らないけれど、「武田節」の歌詞って、あらためて読むと、いいなー(*'▽')と思う、今日この頃。

若いころは気にしていなくて、「確か三番まであって、途中でアカペラ入ってたなー」と薄れゆく記憶のみでした。

推測ですが、80歳代より上の山梨県人は、👆フルコース歌います。

しかも、途中で「詩吟」が入ります。

もはや戦後は終わったと言われた1960年代以降に生まれ、「日本海溝よりも深い断層を抱える世代」としては、若い人たちに、20代の若いうちにこの歌を詩吟入りでフルコース歌えるようになってほしい、と願うばかり。

幼いのころの記憶では、山が迫る田舎家の庭で、一族が焚火を囲んで食事をしながら、月が甘利山の向こうの大きな山陰にさしかかろうとする頃、その家の家長が武田節をうたいだし、途中で詩吟を唸り、焚火を囲む大家族の皆がその火を見つめながら、祖父母から孫たち全員で、そろって手拍子を打って聴くという、そういった風習がありました。

そんな風景が今もこれからもずっと永遠にあっていいと思いませんか?

韮崎に生まれ、育つということ、そして、その美しい祝福された神の土地で大人になって家族を持ち、また、次の世代へと豊かな人の暮らしを継承すること。

それは、あなたたちだけに与えられた、そして、日本の多くの歴史の長い時間軸を持つ故郷に生まれた人たちに与えられた、特別なギフトです。

それはどれ程の幸運でありどれほどの幸福だろうかと、思います。

狭すぎることはない。人間が一生を暮らすには十分な広さがある。

今の日本は、中央集権の政治的な仕組みが強く、地方自治体は運営が難しいといったことを聴きます。

日本の資源は、人材しかない。韮崎は、特別な場所です。若く才気あふれる「韮崎宿ハプロ」を持つ優しきうるわしき人間たちが、地方自治と産業の礎となって、結束して、強く生きてほしいように思うこの頃です。

そこに生まれそこで育ちそこで大人となって、美しい独立連邦国家での繁栄を謳歌してほしい。

そこには、どこにもないあまりにも美しく平和な町が静かに佇んでいるのだから。あなたたちのものだ。ひとには渡すな。

暴力と盗みは常に周辺に存在して押し寄せてくることはあるから、闘う必要があれば、それは時には必要です。
でも争いなく平和に暮らせればそれがベストです。もともと侵略されることがなかった平和が長い長い時間軸の中で続いた恵まれた土地です。

一歩、外へ出れば、バケモノのような暴力と盗みの嗜好性を露わにするはずれ者に襲われて何もかも奪われていく。
国をはく奪された人のような差別を受ける。

その背景には、日本人が多く戦死してしまった戦争の褥瘡がある。
殺しと盗みをその資質として生き残って帰還した人たちの子孫が単なる嗜好性から人を殺し盗みをしたがっていることが全くリスク管理されずに世の中の中に網目のように広がっているのが外の世界です。

韮崎にはその褥瘡がない。人間らしい環境で子供が育ち大人が人間として生活できるだけの十分な広さの生活できる長い時間軸を包埋した空間が広がっている。
人間として生まれ人間として育つことができる。

故郷の外に出て人間としてその人生を歩むには、装甲車と鎧を装備していなければ、無理なのよ。
サメがうようよいる海に自分が檻の中に入って飛び込むのと同じことです。

とにかく、そこにいなさい。その国を大事にしなさい。
修行のため、故郷の外に出ることはあっても社会人になるのは故郷にしたほうがいい。付き合うべき価値のある世界のネットワークとは、故郷と故郷の人との硬い信頼と絆でできたネットワークを基盤として繋がっていけばいい。人間だけで生活のネットワークを作ることができる。

あなたたちは、どこにもないギフトをもらっている。

Google ( 武田節 歌詞 🔍)

"
甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に 憂いなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子につつが あらざるや
あらざるや

祖霊まします この山河
敵にふませて なるものか
人は石垣 人は城
情けは味方 仇は敵 仇は敵
"

on https://open.spotify.com  |▶

YouTube | 「武田節」三橋美智也
Cover by AKI AZUMA 東 あき 7歳 小学二年生
https://youtu.be/u-ZFpbcqPGk

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Google ( ケセラセラ 歌詞 🔍)

"
When I was just a little girl
I asked my mother, what will I be
Will I be pretty, will I be rich
Here's what she said to me
Que Sera, Sera,
Whatever will be, will be
The future's not ours, to see
Que Sera, Sera
What will be, will be
"

on https://open.spotify.com  |▶

|

YouTube Dayniac4324 |
Que Sera Sera ~~~~~ Doris Day ~~~~ Whatever Will Be, Will Be https://youtu.be/hqwIifgs7KU

|

https://note.com/matsunoya_note

note 右上の🔍で

 ( matsunoya_note 🔍)

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本を読むということと教育。なぜ必要なのか|

本筋から外れますけれど、武田節つながりで、いわゆる「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」は皆さんご存知の甲斐の戦国大名である武田信玄の軍旗です(逸話)。
略して「風林火山」と言います。

風林火山

これは、武田信玄の根本的なものの見方考え方に大きく影響を与えたといわれる孫子の「兵法」という書に書かれたエッセンシャルな文章のひとつです。ようするに、武田信玄は、文字が読めるようになった2,3歳の頃から、正座して孫子の「兵法」を読んで育っている。

教育というものは大事だと思います。

徳川家康も人質としてとられていた幼少の時代、その国の城主である今川義元を育てた教育係本人から大名の跡継ぎ並みの一定の教育プログラムで教育を受けたと言われています。

意思決定を行うにあたっては、その場で出会うことは生まれて初めて出会うことであるケースが多い。

もちろん、人によってそのレイヤーは異なります。

例えばおいしい豆腐を毎日作る豆腐屋さんがその日の気温や湿度で微妙に豆腐の製造工程での配合を変え、最高品質の豆腐を作る、それもまた経験と勘を要する唯一無二の貴重性のあるディシジョンメイキングです。
日本人の生活の営みに幸福感を与えるために必須の役割を果たしています。

何にしても経験と勘は必要です。

そして、それが一代でできることもあれば二代ならそのほうがより高度な次元に到達することができる場合もある。

それが、戦国時代はもとより、現代の民主主義、自由主義経済、国家の成立という次元になると、これは外付けのメモリーが無いと無理な高度なステージに入る。

長い歴史とその歴史の中で記録に残るトップレベルの哲学、思想、ノウハウを土台として最新の近代史や近代の経済の仕組みに至る資本主義、民主主義、自由経済の各論まで学ばなければいけない。

政治経済の意思決定の経験と勘所には、長い歴史の中で人間が人間として人間らしく生きるための社会を形づくるために進歩してきた、そこに至る数限りないトライアンドエラーと正解への取捨選択と、より汎用性が高い一貫した定理の発見があるからです。

教育とは、そして書籍を読んで学ぶとは、そういった外付けのメモリーを、自らの内側に移築できる0歳から20歳前半までの間に、その後の社会に出てからの社会の躯体として機能していく際の自分での意思決定が可能になるレベルまで、それらを自分の中にため込むということです。

国家とか地方自治とか医療システムの実効性や政策のフェーズで社会の躯体として高度プロフェッショナルとしての役割につくのなら、相当量の外付けのメモリーは必要です。

そして、それを自分の物として理解し応用できるまでになるには、本人の資質もまた必要だ。

だいぶ大人になってから、やれ松葉づえが必要だ、パワードスーツが必要だと、人を頼りにすることもできるけれど、また、正しいインセンティブと動機付けがあれば、それはそれで社会として機能するけれど、あまりにも人便りで自分でできることは何もないというのならば、それでは、「強さが強さを補完する世界」にはならない。

昔の言葉でいると「他人のふんどしで相撲を取る」という残念な仕上がりになってしまう。

どのレイヤーで社会に役立つかは、社会性のある類人猿であるホモサピエンスとして、様々な立ち位置の役割がある。

適材適所が最も物事が潤滑に機能するクリティカルポイントではあるけれど、もちろん、いわゆる「アメリカンドリーム」が日本において成立することはあってよい。

成長の過程で教育と真摯に向き合うこと、努力して本を読むこと、その努力できる力、本の読解力、胆力を幼少から身につけることは、今の日本にあっては幸いなことに自分の志と努力で可能なことです。

そして、社会もまた、そのそれぞれのコンピテンシーに基づくところの努力と到達点とを公正に判断しながら、国民全体がウィンウィンの関係を築くことができる強靭な社会構造を創造していくこと、それがレジリエンスにつながる道です。

孫子の兵法の序文は「兵は詭道なり」という言葉で始まります。(※Wikipedia 風林火山によれば)風林火山の原文の出典は『孫子の兵法・軍争篇』の一節で全文は以下の通りです。

「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動。」

故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し、郷を掠めて衆を分かち、地を廓(ひろ)めて利を分かち、権を懸けて動く。

武田信玄の外交・調略のディシジョンメイキングに、孫子は多大な影響を与えた。

推察するに、信玄が戦国時代最強の武将と評価されるに至った背景には、その成長期に受けた教育の格差がある程度影響している。それは、また同様に、戦国時代に隆興して戦った戦国武将たちの成長過程で受けた教育に対しても言えることだ。

孫氏の兵法はヨーロッパに紹介され18世紀にナポレオン・ボナパルトもまた愛読したと言われているらしい。

孫子の「兵法」という書が、現代の近代資本主義社会に100パーセントフィットする定理かというとそうでもないかもしれない。けれど、それが今では使い物にならないような東京の夢の島の土の埋め立てにしか用途をなさないようなものかというとそれは全然違う。

ただ言えることは、現代人は、読む必要がある書物が昔よりはたぶん少しは多いということだけです。

出典:個人としての見解を除いて、Wikipedia 風林火山からの情報を引用しました。

@MTV on Twitter 2017年9月7日
Happy #ReadABookDay from all your fave celebs 📚

だいぶ前のことになるけれど、Twitter のツイートでワタシは盛んに📚の絵文字を使って情報発信していた時期があって、当時は、📚の絵文字を使ったツイートは少なかったと記憶している。

ある時、いつも愛用している絵文字が国際的に様々なアカウントで使われていて、なんだかうれしかった。国際読書デイというイベントだった。

何のために本を読むのか。いろいろ、心温まるツイートがありました。

ここでは、ロジカルシンキングと読書について書いてみたい。

ロジカルシンキングという言葉をお聴きになったことはあるでしょうか。

就職活動を頑張って無事に企業に入社すると、もしかしたら研修プログラムの中で、ロジカルシンキングについて学ぶ機会があるかもしれません。

研修が終わり、配属先の上司と面会したときに、もしかしたら、

「キミ、ロジカルシンキングしてみてくれたまえ。」

と言われるかもしれません。

できるでしょうか。

企業の職業訓練の成果を否定するものではありませんが、いきなり上司から言われたとき、もしも脳の中に、すでにロジカルシンキングのピラミッド構造が、立体構造として、頭蓋骨を開けてみたら構造物としてそこにある状態で構築されていなければ、いくら「はやくしろ!」と言われても、物理的に無理があります。

不幸にも栄養血管が詰まってしまって脳神経の一部が脱落した後のおじいちゃんの壮絶なリハビリではないですが、企業に入社したとたんに、当然の職業能力として上司から要求された時点で、それに近い状態になってしまいかねません。

物理的にロジカルシンキングのピラミッド構造が、成長過程の脳の中に構築されているから、その基盤を利用して高速で複数のレイヤーが連続するロジカルシンキングが可能になると推測されます。

では、どうやったら、成長期に高速で動くロジカルシンキングのピラミッド構造を実現する基盤を手に入れることができるでしょうか。

その一つの方法は、発見以来歴史が完成度を最高に高めてきた魔法のポータブルデバイスである「」を読むことです。

高校生だったら、有名な学者の書いた哲学書や心理学書を読むことが、ぶれずに精度が良いロジカルシンキングのピラミッド構造を積み上げる助けになるかもしれません。

車にたとえると、良書は性能のいいナビゲーションシステムのようなものです。30m先で右へ曲がるのか左へ曲がるのか、正しく指示してくれます。

成長期は、長い人生の中では比較的短いもので、色々しなければいけないことが多くて、何から優先順位を付けたらよいのかわからなくなることもあります。

でも、少なくとも、成長期の中でしか、生理学的に得られない大事な構造物を物理的に手に入れる、物質として構築することを優先すべき時期ではあります。

「ロジック」は、イコール、人類特有の社会性そのものです。

社会性の発達とロジカルシンキングの基盤の生理的な成長には、相関があると思われます。

自分のものとするという意味で、同時進行するものです。

年齢に合った、文明の発達と知識の蓄積によって築かれてきた良書の数々を選択して、時間をかけて読むことは、たった10数年の経験しかない成長期の中で、紀元後21世紀に生きる人としての豊かなレガシーを手に入れるための、各個人にとって優先順位の高い手段であると思います。

さあ、すべてのメディアデバイスの電源を切って、

「本を読もう。」 

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政治経済だけではなく、たとえば本とストーリーテリングは科学とテクノロジーの実現ともつながる。と思う。

amazonJP|
The Naked Sun (The Robot Series Book 2)
(English Edition) Isaac Asimov

This is an Asimov book which I read many times as a primary school student (a book translated into Japanese).
There is a memory that was full of images overlapping the society in which Facebook is aiming for AR.
I think that science can be said to be an image realization.

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躑躅が崎から始まる徒然|

躑躅が埼、読めますか?

躑躅 読み方は「つつじ」です。不思議な字ですよね。

躑躅が崎は、山梨県甲府市の武田氏の城跡の呼び名です。戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、(※Wikipedia 躑躅が埼館によれば)信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能した。

躑躅は日本の土壌に合っているのか、はたまた丈夫過ぎる木だからか、名所は全国津々浦々、ハッキリ言って、どこにでもあります。名所ではなくても、その辺の道路の横の植栽と言えば躑躅です。五月の連休の頃は花盛りとなりますね。俳句では春の季語。

韮崎市では、甘利山のレンゲツツジが有名です。子供の頃はよく日帰りのハイキングコースになっていました。当時、昭和の時代にやたら流行ったスピッツの雑種の可愛いワンコと一緒に登ったものです。

SNS映えがトレンドになった近年では、甘利山のレンゲツツジの群生のあたりは、富士山と甲府盆地を展望できるカメラ小僧スポットとして有名になっています。場所取り、大変でしょうねー。

躑躅という感じを見て、「これ、何だろう???」と思う人は比較的多いらしく、軽くネットサーチすると漢字の由来が数件出てきました。

躑躅は中国語にある言葉で、中国語での発音は

躑 zhí ちー
躅 zhú ちゅー

意味は「躊躇する」です。Google 翻訳🔊で発音が聴けます。

Google 翻訳 躑躅(中国語)
https://translate.google.co.jp/?hl=ja#view=home&op=translate&sl=auto&tl=ja&text=%E8%BA%91%E8%BA%85

アメリカンが「メリケン」に聴こえるようなもので、チーチューが「つつじ」に聴こえるのは自然の摂理のような気がしてきます。zhízhú って冒頭がzh で始まっている。この子音は日本人に発音できないんです。発音できないなりに、末尾に Z と i の母音を入れて一応発音できたと、収支がついたことにするんです、日本人は。

ですから、古来からあった日本の言葉というよりは外来語なのだろうと思ます。

躑躅という漢字の由来については以下のコンテンツが面白かった。

要約すると、もともとは「羊躑躅」 yángzhízhú やんちーちゅー Chinese azalea から来た名前で、羊を省略したらしい。
羊がこの植物を食べると、植物毒によって足元がおぼつかなくなるようすから名づけられたとのこと。

中国語の音で聴くと、いかにもふらついている感じが音感から伝わってきます。

下記のウェブページ、日日是言語学によれば、『蜻蛉日記』 (974年頃) における記載「みちのくの 躑躅の岡の くまつづら」が躑躅という漢字が使われた最古の文献のようです。

「躑躅」 (つつじ) には、なぜ、足がいっぱいあるのか?
げたにれの “日日是言語学”
やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。
https://ameblo.jp/nirenoya/entry-10252682562.html
漢字文化資料館|漢字Q&A
Q0481
ツツジは漢字で「躑躅」と書きますが、2文字とも「足へん」です。どうしてですか?
https://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0481/

農研機構のホームページ「レンゲツツジ」(※)によれば、

ツツジ科の植物にはジテルペン構造を持つグラヤノトキシン(grayanotoxin) I ~ III などの有毒物質が同定されています。

IUPAC名は、
(1S,3R,4R,6S,8S,9S,10S,13R,14R,16R)-5,5,9,14-tetramethyltetracyclo[11.2.1.01,10.04,8]hexadecane-3,4,6,14,16-pentol

PubChem|Grayanotoxin

グラヤノトキシンの名は、これが最初に同定されたハナヒリノキの学名Leucothoe grayana に由来します。
このうちグラヤノトキシンI はアンドロメドトキシン(andromedotoxin)、レンゲツツジから抽出されたロードトキシン(rhodotoxin)、アセビから抽出されたアセボトキシン(asebotoxin)という別名があります。

グラヤノトキシンは細胞膜上のナトリウムチャンネルに結合し、これによって細胞は興奮状態と脱分極状態を持続して、カルシウムの流入が起こります。その結果、骨格筋や心筋の収縮力を高め、期外収縮などを起こします。

グラヤノトキシンは迷走神経を刺激し、後にこれを麻痺させます。採食後数時間で発症し、嘔吐や泡沫性流涎を起こし、軽症では、沈衰、四肢開張、蹌踉、知覚過敏となります。

また重症では、四肢の麻痺、起立不能、さらに間歇性の疝痛、腹部膨満、呼吸促迫、脈の細弱不整、そして全身麻痺に陥る場合もあります。ただし回復は早く、致命率は高くありません。

病理所見としては、一般に激烈な胃腸炎を認め、皮下血管怒張、胃腸粘膜ならびに心筋に出血斑、また腎髄質部に軽度の充血、脳および軟脳膜面は顕著な充血を示します。

以上、引用(※)。

そういえば、アセビ(馬酔木)はこれを食べた馬が酔っぱらった様に痺れることに由来する名前です。
ちなみに、この別名が3種類もあるヤツ、たまーに試験とか出てますね。ぐらっと来るジテルペンなヤツです。この機会に、憶えておきましょう。

武田信玄の館の美しい名前と、そこに実際にあったろう花盛りの春と、ナトリウムチャンネル結合、開口、カルシウム流入、神経興奮、持続的脱分極、躑躅、連想が広がります。

そんなに猛毒なんだって、ちょっと引きますけど、子供の頃、友達との遊びの中で、オレンジ色の躑躅の花を木からもいで、その花の首根っこのとんがった先から蜜を吸った後、そのオレンジ色の肉厚の花びらを食べるという草木遊びの一つがあった。

大人から教わったわけではないけれど、きっと年上の兄や姉のいる子供が兄姉から教わって、同級生の仲間遊びで広めるのだと思うのですが、毒のあるレンゲツツジと毒のないヤマツツジをどうやって見分けたのか、ほとんどニホンザルの世界です。

ヤマツツジを食べる習慣については、下記のコンテンツに詳しい記載がありました。

森と水の郷あきた|
山菜取りシリーズ20 その他食べられる草花等-2 ヤマツツジ
http://www.forest-akita.jp/data/sansai/20-sonota2/sonota2.html

万葉集に歌が残されているそうです。この時代にすでに躑躅と呼ばれている植物があったことが窺えます。

山越えて
遠津の浜の
石つつじ
吾が来るまでに
含みてあり待て

上記のコンテンツには、

花をかむと、さわやかな酸っぱさが口に広がる。花から花冠を抜き取って、花の姿のまま、サラダにして食べたり、チャーハン、ピラフ、コンソメ風スープなどに散らして風流を味わう。ただし、有毒植物のレンゲツツジの花と間違えてはならない。また手作りケーキのトッピングにするなど、花の雅趣でお客さんをもてなすには素晴らしい素材である。

とあります。

また、素敵な短文が紹介されていましたので引用します。

菅江真澄「酒飲みはヤマツツジの花を好む」
(「おがらの滝」1807年)

山菜を採るため、山ふみにきた人も集まって来て、佇んで見ていると、八つばかりの女の子が藤布衣を着て、短い布の黒染めの前垂をして、少しも恥ずかしがる様子もなく踊った。

人々は、これを肴にして飲み、帰ろうと立ち上がっては、タチハといって飲み、ヤマツツジをとってきて、枝のついたままの花をむしゃむしゃと食っては飲んだ。

酒を飲む人たちは、ツツジの花を好むものという。

自分の子供の頃の記憶では、その躑躅の蜜は甘く、花は酸っぱく、おいしかった。幸い、毒性のないほうの木だったらしく、酩酊を味わうことは一切ありませんでした。

ちょっとした祠が祀ってあるこんもりした塚のような小高い小さな台地上の場所に生えているような躑躅の木でした。

躑躅はアザレア(Azalea)とも言います。正式にはアザレア(Azalea, Rhododendron simsii cv)は「西洋ツツジ」、「オランダツツジ」のことらしいのですが、保阪嘉内が1916年に盛岡高等農林学校農学科第二部に入学したあと、宮沢賢治などとメンバーとなった文芸同人誌『アザリア』が連想されます。

嘉内は賢治、小菅健吉、河本義行とともに、中心メンバーだった。

ということで、保坂嘉内に連想は飛びますが、(※Wikipedia 保阪嘉内)によれば、保阪嘉内(1896年10月18日 - 1937年2月8日)は、宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われているそうです。

山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身でお父さんは韮崎の地主のひとりでした。韮崎高等小学校から1910年に山梨県立甲府中学校(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進みます。

ちなみに、小林一三翁も韮崎高等小学校出身です。別にどうでもいいことですが、ワタシも同じ学区だったので韮崎小学校出身です。

嘉内が中学入学の年(1910年)にハレー彗星の最接近を観察しスケッチをつけたことがきっかけで、1992年に北海道で発見された小惑星14447は、2012年4月6日、「Hosakakanai」と命名されました(発見者:渡辺和郎、円舘金)。

ロマン以外の何物でもないですねー。保坂嘉内は銀河宇宙の小惑星になったんです。宮沢賢治という名前の星はどこかにあるのでしょうか。

もう少しロマンに耽溺させていただくと、嘉内は、ハレー彗星のスケッチに、

「銀漢ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ遙カ虚空ニ消エニケリ」

と書いたそうです。

ロマンですねー。

ちなみに、小林一三翁は1907年(明治40年)に「箕面有馬電気軌道」が設立されると同社の専務となり、事実上の経営の実権を握ると1910年(明治43年)に現在の宝塚本線・箕面線に相当する区間を開業、同年、線路通過予定地の沿線土地を買収し分譲を開始します。

保坂嘉内、14歳、小林一三、37歳。

ハレー彗星が日本の上空にその尾を長くして浮かんでいた。
いやぁ、鉄道ロマンと彗星ロマン、ここに極まれりという感がします。

逸翁も、また、その銀河鉄道の夢を、列車の車窓から見たのかもしれない。

2020年、今年はネオワイズ彗星の大接近を日本でも見ることができました。

北海道名寄の大自然のなか、明けの明星 Lucifer のように巨大彗星が昇っていく🏔☄太古の世界を見るよう🦖
様々なメタファーを連想させる👼壮大な風景ですね。

美しい図☄
ネオワイズ彗星のイオンテイルとダストテイルの質量の違いが分かって興味深いです。太陽風の強さが彗星の軌道の運動エネルギーよりもはるかに大きいんだなー。
現実に肉眼で見えていることが信じられない天空ショーですね!

宮沢賢治と保坂嘉内をめぐる話題としては下記のコンテンツが面白かった。

宮澤賢治の詩の世界|
保阪嘉内の故郷を訪ねて(1)
2007年11月 3日
https://ihatov.cc/blog/archives/2007/11/1_36.htm
保阪嘉内の故郷を訪ねて(2)2007年11月 4日
https://ihatov.cc/blog/archives/2007/11/2_39.htm

山梨県立文学館で行われた「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛七十三通」という企画展と、その関連行事の講演会の所感を書いていらっしゃるブログでした。充実した企画だったようです。

1968年に刊行され賢治研究に大きなインパクトを与えた『宮沢賢治 友への手紙』(筑摩書房)、保阪嘉内の次男の保阪庸夫氏が編集者の一人となって編纂されたものですが、世に出るまでのちょっとした厄介ないきさつの逸話に、なるほど、とうなずいた。
(以下、上記のコンテンツからの引用です。)

ある日、賢治の著作権の継承者である弟・清六氏と、筑摩書房の「重役」が訪ねてこられ、上記のように手紙の著作権は宮澤家側にあるため、これを無断で出版することは罷り成らぬと告げられたというのです。

「賢治の手紙という貴重な文化遺産を、長期にわたって保阪家が『隠匿』していたとは、手紙の価値に対する『侵害行為』である」、そして「今後は手紙の保存は、保阪家で行うよりも、専門家のある宮澤家側の方がふさわしい」とまで言われたんだって。

保阪家の人々は冷静に対応され、結局「保阪庸夫・小澤俊郎 共編著」という形で本は出版された。しかし、保坂庸夫氏はこの顛末を体験しつつ、ひそかに「文明の横暴」と同種のものを感じていたとはじめてそこで語られた、と。

この「文明の横暴」というのは、コロンブスでも、ナポレオンでも、ヘディンでもそうですが、「未開」の地で文化財を「発掘」した「文明人」は、その文化財を「保護」するという名目で、現地から持ち帰り、自国で所蔵して陳列したり研究したりした、ということを指していると。

いやぁ、「保坂家」、直接存じ上げないのですが、保坂嘉内、ですねー。

ごく個人的にですが、すごくシンパシーを感じます。その論理展開に、心中で笑い転げながら、ブンブンうなずく、ワタシであった。

何かと予想外のイベントがあると、何とはなしに、自分が「アパッチ一族」のひとりみたいな心持ちになるんです、ワタシ。。

励まされる...。っていうか、運命か。

ちなみに、保坂康夫氏は大学で基礎医学を目指されたけれど帰郷し、地元の韮崎の医療においてご活躍されたとのこと。素晴らしい。

宮澤賢治から保坂嘉内へ送られた手紙を丁寧に保存されているとのことです。しっかりされている。誰にでもできるということではないです。

保坂嘉内の生家も企画の見学コースに入っていて生家の写真もブログにアップされていました。美しい門構えが今でも見られることは、宮沢賢治とその友人たちの思い出を大切にしている全ての人にとって、どれほどうれしいことでしょうか。

もしかしたら、そこまでする必要はないかもしれないのだけれど、保坂康夫氏をはじめ企画に協力したすべての人たちのオープンマインドなカインドネスに、思わず微笑みが心から湧いてきます。マインドとその実効性に至る智慧に優れた人たちです。

貴重な企画展での体験をブログにアップされて広くシェアしていらっしゃる上記ウェブサイトの管理人の方に敬意を表します。韮崎に残る素敵なエピソードが、こんな充実した心からのおもてなしのような企画展の旅で様々な人たちに共有されることは素敵なことです。

韮崎の地元の人たちの理解があるところがとてもいい。

文学者を呼ぶ通例から敬称を略しますが、保坂嘉内と韮崎、宮沢賢治と盛岡をめぐる様々な事象は、多くの人を引き付ける。

ワタシは、実際のところ宮沢賢治の文学は苦手で、それは、別の note に少し書いたのだけれど、保坂嘉内を通じてアプローチする宮沢賢治という角度があったか、と気づいたことがあります。

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だからと言って、それほど熱心な宮沢賢治ファン、文学ファンというわけでもないのですが、何かの機会に、こうして保坂嘉内のエピソードに触れると、何か韮崎のあの丘に登る坂道から見た富士山の大きさとその時の清冽な空気を思い出します。

嘉内が旧制甲府中学弁論会で主張した農村の理想「花園農村」が「花園農村の碑」に刻まれている。

ワタシは、フレディ・マーキュリーの曲を聴くたびに、時々、

「これが、フレディ・マーキュリー。。」

って、言ってしまうのだけれど、

「花園農村」という詩を読んで、

やっぱり、

「これが、保坂嘉内」

って、言ってしまう。

いえ、何も知りませんよ。そりゃあ、初めてネットサーチして、今、読んでる。

でもね、

「これが、保坂嘉内」

「花園農村」

春は麦打ちせんと畑に立って

遠山のかすみに消えゆく夢みる喜び

夏田植えして帰る田の水の上に浮かむ白玉

秋は柿の梢に柿赤き頃

豊な稲穂はすゝ風にさらさらと波打って

冬は縄なひ 草鞋作り

夕は家庭のもっとも歓しきうたげに

あわやかに降りつむ雪をみる

われわれをして 田園都市を作らしめよ

模範農村を 作らしめよ

そしてわが幸ある天地の神に感謝をささげしめよ

(出典:Wikipedia 保坂嘉内)

この詩を読んで目に浮かぶのは、山梨県立美術館の一連のミレーコレクションです。

山梨県庁HP|ミレーと出逢う美術館
https://www.pref.yamanashi.jp/miryoku/rekishi/millet/index.html

最初のミレーの「種をまく人」の買い付けは昭和53(1979)年だった。
当時、小さな県の大きな買い物ということで新聞で話題になったと記憶している。

山梨県のというか保坂嘉内たちの原風景の一端とそこへ向かうリビドーの心的エネルギーのベクトルのようなものをミレーのコレクションに伺うことができる。

その頃、父が当時、山梨県庁の職員のひとりとして、ミレーの買い付けのプロジェクトに関わっていたことは子供ながらに知っていたのだけれど、あまり絵心がなかったワタシは、ミレーの最初の美術展で行列してやっと絵を見ることができたとき、

「なんか、暗い色彩の絵だなあ。全体的に暗い。もうちょっと明るい色彩の絵を買ったらいいのに。」

と思ってた。

ミレーの絵が象徴する世界観が、山梨県人としての心の原風景 "It's our gene." を象徴しているのだなー、と今、悟りました。

でも、保坂嘉内が農村の理想「花園農村」で夢見ていた色彩は、どっちかというと、パリの画家たちが憧れた南フランスのアルルにある空の色と土の色と花の色だった気がする。

ゴッホ、ゴーギャン、マネ、マティス、モネ、セザンヌ。。

というか、それは、韮崎の風景にすでにある美しい色彩。
韮崎は色彩にあふれていた。

それは、麦のあお、山の霞みのあお、水のあお、秋の実りのあか、冬の干し草の質感といろ、夕べの暖かな明かりのいろ、漆黒の闇に降る雪の眩しいしろ、だと思うの。ワタシはね。

それがどこに行っても存在するとは思わない。特別なこと、特別な場所なのです。少なくともワタシが韮崎で育つ中で見た色彩はそれだった。

高校を卒業して山梨県を出で、大学に進学し、会社に就職し、そこには、どこにもそんな色彩はない。そんな色彩はどこにもないのよ。

別の note で紹介したけれど、パブリックドメインで公開されている絵画の中で言うと、モネやゴッホの色彩のほうが近い。

画像3

何ていうかなあ、まあ、どうでもいいことと言えばどうでもいいことだけれど、それに、普通に、Twitter で「いったい誰に向けてつぶやいているんだろう」と思うツイートは、しばしば見かけますし、そんなのどうでもいいと思うけど、

言いたいんだなあ。。

これが、韮崎の多様性と個性なんだって。

以上、躑躅からの自由連想でたどり着いたあれこれと独白でした。

最後は、意外とかわいいオーストラリアガマグチヨタカで。
on Twitter @kobe_doubutsu 2月11日
"こーゆーのがお望みなんだろ…
くっ!"

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保坂嘉内と宮沢賢治について知ったのはこのNHK ETV特集でだった。
テレビ独特の必ずしも写実的とは言えない歪んだガラス越しに見るような演出はどうかと思ったけれど、今まで知らなかった宮沢賢治と保坂嘉内という人間同士の出会いから別れまでのプロットを追うにはまとまっていてよいように思った。

「宮沢賢治には、生涯をかけて愛した同い年の男性がいた。」ETV特集 アンコール「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭(どうこく)の愛と祈り~」

保阪嘉内に軸をおいた宮沢賢治研究の解説コンテンツは、なんとなくわかるというか、前向きな肯定的な気持ちのまま、宮沢賢治作品に向き合わせてくれるものでした。

明治時代の育ちのいい「普通に仕上がったお坊ちゃん」たちの、人間力というか、人間賛歌というか、これだけ、よじれや拉げを抱えながらも美しすぎる、これ、当時の基準では裕福ではあるけれど、物資や情報が豊富にある現代で言うと普通の家の男の子たちの青春から青年への成長の軌跡なんですよ。

どこにでもよくいる高校生とか大学生なんですよ。

こうあってほしいな、いや、こんなにねじれちゃわないでいいけれど、健康でいいんですが、むしろ、健康に育ってほしいのですが、明治は人間を育てるのに適正化された大きな揺り籠だったんだなってことを痛感します。

では、令和は?って思いました。

保阪嘉内は、山梨県韮崎市の小高い丘の上にある古くからの庄屋の長男で、甲府中学校からはるばる岩手県の盛岡高等農林学校に進学して、学生寮で宮沢賢治と出会ったのだそう。

NHK ETVの解説を理解するヒントになったのは、そのシチュエーションでした。韮崎の台地状の丘の上に登っていって、坂道の途中で振り向くと、びっくりするほど大きな富士山が見えます。その風景と、韮崎市の空気と、保阪嘉内の、その青春の抒情と、それに憧れ、ひかれていく宮沢賢治の気持ちと、韮崎の風景と似た盛岡の山を間近に控えた清冽な空気や風。

日本とフランスとの土地の雰囲気の差はあるのですが、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)とポール・ゴーギャン(1848-1903)が、ゴッホが強く望んだ南フランス・アルルでの二人の共同生活をしていた時のような、危うさと激しさとそのお互いに影響する人間力というか、そんなものを、故郷の韮崎を遠く離れて、けれど郷土とよく似た静かな、「地軸が安定した空気感」がある盛岡の盛岡高等農林学校の学生寮での二人に重ね合わせるとわかる気がしてきます。

結局、青春にありがちな、疾風怒濤の時代を二人は過ごすのだけれど、そして、ねじれや拉げを抱えたまま、表現者として、人生を歩まざるを得ない運命を背負った人として、歩んでいくのだけれど、そこに、わたしが知っている、あの、韮崎の丘の上に向かう上り坂の風景と、ただ一度、仕事で出張しただけですが、農業試験場の見学やその他食品安全全関係の勉強会の集まりで、その盛岡の、清冽で静かな清く安定した空気感、盛岡駅から市内に出て「あれ、ここは?」と空気を吸った途端に思ったその不思議な相似性を手掛かりに、宮沢賢治をわたし自身の脳内で理解できそうな気がしてきたのです。

いや、しかし、保阪嘉内と宮沢賢治というアプローチは、良いですね。

崩上四方固(くずれかみしほうがため)に合わずに、宮沢賢治の作品に近づけそうな気がしてきます。

美しい~⤴

ETV特集 アンコール
「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭(どうこく)の愛と祈り~」
https://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2019-05-04/31/25927/2259635/

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このクイーンの曲、ご存知ですか。
彼らが伝えようとしているメッセージは、
"This could be heaven for everyone"

面白い映像がついている。なんだか、ここに保坂嘉内と宮沢賢治の中にある原風景を見ているような気がするの。
そして、フレディ・マーキュリーの音楽世界での彼が彼の元型に向かう心的エネルギーのベクトルと、その嘉内との相似性を見るような気がして、フレディの声でこの曲を聴くとそれがすごく伝わってくる。

queen heaven for everyone lyrics 🔍)

YouTube|Queen - Heaven For Everyone (Official Video)
https://youtu.be/yI8lrvKLzg0

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いきなり、唐突に怒り心頭な雰囲気を出してしまうと、びっくりされるかもしれないけれど、ワタシは怒ってるんじゃあ、ありません。

えっとぉ...

よくわかりもせずに、賢治と嘉内との深い理解と共感を内包する友情で結ばれた人間関係を、本当によくわかっていないまま、どこで覚えたのか理解不能だけれど、ステレオタイプ(???)な同性愛傾向として、解説しようとする無責任なというか無神経なというか、あなた誰?的な人々には全く辟易する。

正直、あなた誰?的な人々は理解不能なのだけれど、一体どこでステレオタイプな同性愛傾向ってものを、自分の概念として獲得するのか。(どうせ、想像を絶する下衆さだろうと推測する。)

テレビのゴシップネタを楽しむ(?、楽しいのか??)のと、実在した文学に携わる偉人に、自身たちの欲のタガが外れた妄想を気軽に押し付け、蒙昧を誹謗中傷に変えて得意がることとは、まったく次元の異なることです。

たぶん、生まれてこの方、躾をされたことがない野蛮さを大らかに出しても殴り返されたりしないヘンに恵まれた生活環境があったのかもしれない。

シチュエーションギャグなような態度をとる人たちには、まぁ、死者を侮辱すると地獄に落ちるということは肝に銘じていてほしいものです。(宗教の一貫した教育背景がないまま言っているので説得力に欠けるかもしれないが、きっと地獄行きだ!!

メディアがフロントラインに立たせる人間をあまりに下衆いケダモノみたいなレベルで揃えるからこうなる。

今でも、普通に育ち人間らしさを持つ人たちは日本に多く存在する。テレビに映らないだけだ。本当に人間らしいテレビ関係者でもない一般の個人がテレビに映る必要はないけれど、テレビは人間を描写すべきで、人間を描写できる職業的能力を持ったテレビマンを揃えたフロントラインを維持することが道義的には義務だと思うのですが、罰則規定とかが必要でしょうか。

テレビはパワードスーツですし、拡張現実(AR)機能を持ったメディアです。使い方を間違えば、日本社会の社会性を破壊してしまう。自動車の自動運転レベルにはなっていない原始的で巨大なポンコツ機械です。
危険はある。

そういった意味で、嘉内と賢治という明治を生きた人間らしい人間の生き様を取り上げることは、人間が見ていてああ人間がいるという安心感を醸し出すことが可能ですから、テレビとして有意義だったと思います。

ただ、番組の構成加工の段階で、どこで覚えたか理解不能な浅薄な同性愛傾向を、その解釈に(作り手の趣味的な傾向から)いれるのはどうかと思う。

彼らが人間として人間らしい仕草をすることは、どこにも異常性はないし、人として欠けたところがあるわけでもない。

他人に対して深い理解を示し共感し、愛情深く振る舞えることはヒトとしてかけがえのない優秀な資質です。

ただ、宮沢賢治は、その深い理解と共感と友情とに加えて、人としては普通な程度の愛情と混ざった所有欲があったのかもしれない、と思う。

それだけの才能を嘉内が持っていたということ。賢治は、稀代の芸術家であったし表現者だから、自分の芸術に向かう突出したリビドーの一部として、嘉内の才能を所有したいという衝動が生まれたとしても不思議ではない。

嘉内の(賢治とは別の、賢治にはない)生まれながらの才能を。それは、賢治の性格のプロフィールのひとつであり、そんな所有欲、憧れは誰にでもあるものだと思いませんか。

狂気に満ちたメディアの影響が色濃い異常性と人権侵害に満ちた下衆い「教育背景」を持つほとんどの今現代の男性が持つ愛情でも何でもないタガが外れた狂気に近い物欲のような所有欲と比較したら、どこにも欠けたところも異常性もない人間らしい深い愛情と憧憬と尊敬だったのだろうと、ワタシは思います。

高校生の頃、図書館の心理学の本を読み漁っていて、その頃のことですが、心理学の本の中に「異常性格者」という項目があって、異常性格者とはという概念や異常性格者の分類や異常性格者の行動パターンにはこんな種類があるというのが書かれていたのを相当真面目に読んでいたことがあった。

異常性格者は、逸脱している。欠けたところがある。様々な倒錯を示す。そのなかに性的倒錯も含まれる。パラノイア(誇大妄想)も含まれる。病的なフェティシズムも含まれる。
それは、病的傾向です。何かが足りない、または機能すべきものがうまく機能していない状態です。

一方で、健全であって、人間とはという深い洞察の中で、人間の可能性を追求して表現するという生き方や芸術性の高い表現行動がある。これは、人間をより深く、より広範な状態で可能性の地平までを理解し表現する事であって、知能と才能が必要なことですが、ほかの人よりも飛びぬけているけれど、それは逸脱ではない。人間として突出して優れている資質があるということです。

普通の目や耳や感覚を持っていれば、病的な逸脱と人間的、または芸術的な突出した表現とは明らかに区別可能です。そこまで理解できてからではないと、芸術家の突出した才能と生き様を語る資格はないのではないかな。

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芸術、文学へと向かうリビドーが突出した賢治によって、若き日に出会った嘉内は、彼の芸術性のベクトルへと共に向かう伴星のような「ミューズ」であったのだろう。

高村光太郎にとっての智恵子がそうだったように、ゴッホにとってゴーギャンが、ゴーギャンにとってゴッホがそうだったように、そして、たぶん、ブライアン・メイにとってフレディ・マーキュリーがそうであるように、彼らは芸術への情熱にその生涯を委ねる過程で運命的にミューズと出会った。

フレディ・マーキュリーは自身を太陽に最も近い軌道をすごいスピードで回る水星ととらえていたけれど、その太陽の巨大な重力にとらえられた惑星を、ブライアン・メイは、ブライアン自身の捉えられた彼だけの軌道をとりながら、フレディを彼の取る軌道にエネルギーを与える伴星として「彼の生涯のミューズ」ととらえていたのだと思う。

宮沢賢治の芸術性へと向かうリビドーにおいて保坂嘉内はミューズであり伴星であった。

ただ、保坂嘉内は芸術性の高い仲間に影響を受け芸術と文学に傾倒したとはいえ、ユング心理学でいうところの元型、彼の心にある最も優先すべき原風景は、自分の農園を農民と手に手を取って理想の楽園とすることだった。だから、人民の幸福をもたらすことを最終目的とした街づくりと統治に向かう彼の情熱とリビドーは、彼を別の運命へと否応なく向かわせたのかなとも思う。芸術に造詣が深い地元の名士という生き方が最も彼のリビドーの向かう心的エネルギーのベクトルと適合していたのではないかと思う。

韮崎宿と甲州街道沿いの小さな独立連邦国家を統治したそれぞれの小さな小さな国の民主的な王たちは、不思議と、ほかの地方にはない、激しい、まるでそれは芸術への激しい憧憬のようなリビドーに似た、人民の幸福へと向かう街づくりと社会システムの創造へと向かう、クリエイティブな情熱だけれど、政治経済を動かすことによってしか無しえない、そんな元型へと向かうリビドーを持っていた。

韮崎宿の独立連邦国家の小さな小さな彼の国を統治していた王たちは、あの美しい小国に生まれて育った、愛すべき、ユニークな人たちだったのだろうと思う。

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令和の時代は、もう一度、人間を(破壊したり摘心したり矮小化したりゾンビと化したりせずに)生まれたときの当然の可能性の到達地点にまで創り込むインキュベーターとして足りうるのだろうか、と思いながら、「天の時、地の利、人の和」という言葉を思い出した今日の朝でした。

できる土地にいたら、そうなってね、という希望です。

破壊されずに、人であってほしいです。

一部の地域、安定した土地柄の場所だけでもいいから。サンクチュアリ、ハッピーキングダム、そんなイメージが心にわいてきます。

「どうしたんだ Hey Hey Baby」ではないんです。

人間に生まれてきたからには、人類という霊長類が当然到達できる場所、到達してきた場所までは、10代のうちに、最近の例をあげれば、パンダの赤ちゃん「彩浜(さいひん)」のように、サンクチュアリの、ハッピーキングダムの、インキュベーターの中で、すくすくと育ってほしいのです。壊されずに、五体満足に、大人まで育つサンクチュアリが、令和の時代に、必要です。

Twitter @aws_official 2019年5月4日
パンダの赤ちゃん「彩浜(さいひん)」は滑り台の上で逆さまになったり丸くなったり、ゴロゴログダグダ…のんびり過ごしています。
263日齢(5月4日)の体重:15.20kg(出生時:75g)

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NHK ETV特集を見て、空想ですが、こんなイメージを持ちました。

保坂嘉内は、結局、ただの、町の「インテリゲンチャ」として社会の一員となっていく、町全体の人間の幸せの実現ために生きる運命を担った人だった。

大人になってから人生において担う運命が全く違う保坂嘉内と宮沢賢治が、美しい自然の中にある学園で出会って、それまでの、生まれ育った環境や教育から受けてきた背景が相似していたことから、双子のように惹かれあった。

彼らは互いに強い影響を受け、強い影響を与え、青春の短い季節を過ごして、その一緒に過ごした時期は、彼らの心の中に、傷のように、永遠に残るタトゥーのように、深く残った。

保坂嘉内は、それを、遠い青春の疾風怒濤の時代にうけた刻印として、二度とこない季節の記憶として一生心の中に大切に持ち続けたであろうし、一方で、宮沢賢治は、そのタトゥーを、仏画にある曼陀羅図の菩薩の姿のように心の深い部分に抱えて、宗教的な浄土への救いとした。人として息衝く時間の中では、ずっと、心にある友の生き様を「模倣」し続けた。

友の生き様を模倣し続ける生活が、彼にとって人間でいるための修験者としての行だった。

そして、一方で、宮沢賢治は、表現者として、人間でいたいという憧憬をもったまま、心に真っ黒い深い空洞を抱え自身の中にあるブラックホールのようなものを、芸術を通して合理化していった。

宮沢賢治は、そんな、もがきながら表現者として社会の中で生きていく運命を担った人だったのかもしれない。

冷静に考えれば、この庄屋の長男である保坂嘉内の両親の近しい知人だったら、東北の農業大学へは進学させずに、帝国大学か慶応大学のような大学で経済や政治を学ばせるように助言したでしょうし、文学はやらせるな、と忠告したことでしょう。

医者になる技量があれば、医学を目指させてもいい。

街に帰ってきて、相応の地位を得てから、農業の振興には、人を使って尽力すればいいではないか、と助言します。

一方で、もしも、わたしが中学生の保坂嘉内の立場だったら、町の身近な百姓たちの暮らしを豊かにするために、自分が農業を学問として納めて、百姓のコミュニティの中に入っていって百姓として一緒に働きながら農業指導をしていくという人生のビジョンをもつことはわかりますし、東北の農業大学へと進学する夢を実現して、学校の中で、気が合うエキセントリックな芸術かぶれの同級生と出会って、その友人の影響を受け、初志貫徹せずに、芸術に傾倒した挙句に、リベラルだけれど先進的な思想をはっきりと表明して、東北で農業を教えているような保守的な教師の反感を買って、懲戒、退学処分となる、そういう流れはあると、思います。

保坂嘉内は、例えば、バスケットプレイヤーとして、中核選手になる才能はあっても、傍らで、冷静で敏腕なコーチが絶えず状況を把握して、指示を出し続けないと、若いうちはやっていけないタイプだったのかもしれないな、と、ふと、空想します。

とにかく、意外性があって、色々考えてしまう、楽しいテーマのETV特集でした。

保坂嘉内、宮沢賢治、二人とも若くして亡くなりますが、人生50年と言われた時代、その若い死の哀れさを感じると同時に、本来の人としてその人生を全うした人間の大きさを感じます。

明治はそれを許容できた時代だったのだろうな、と思います。

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土日、保坂嘉内など、ネットサーチして note に加筆した。

盛岡の農業学校は当時最先端の科学技術を教える先進的な教育機関で学生は自由奔放に青春を謳歌したとはいえ、嘉内は農民のもとまで下りて手に手を取って楽園へ共に歩みたいというその大らかで正義感溢れるまっすぐな気性と誰からもわかる彼自身への才気あるギフトから、おそらく、東北地方の厳しい気象や貧困な大地においての社会の成立の過程で育まれた全体的な大人の事情を含む「東北」独特のエゴイスティックで理不尽かつ心の狭い(ずるさと卑怯さと脅しや盗みを容認しむしろ尊ぶような)排他的差別と分捕り気質にさらされて、苦労しただろうと勝手に推測する。

その差別は、東京での彼の努力においても、彼の夢の実現に対して、大きな障壁となったに違いない。そして、嘉内は、ただ、歯を食いしばり、人を恨んだり憎んだり人のせいにすることなく、素直にひたむきな努力を続けたに違いない。

彼は、自分と弱き者たち、彼が慈悲深さを与えるべき者たちとの間に、まったく境界線、敷居をおかずに、彼自身が農民として働き、農民と混ざり合って楽園を作るという夢とリビドーを持っていた。

なんだか、ここでフレディー・マーキュリーを例に出すのは気が引けるけれど、フレディがライブで大観客の中にダイブして嬉しそうにしている動画など見ると、嘉内とフレディのそのリビドーの共通点を見るような気がする。

理性的に考えて、あまりにも重ならない異質な人間の集団との間に物理的な境界を作らずに混ざってしまおうとすることを、彼らにとって「あまりにも危険な行為だ」と思う自分がいる一方で、振り返れば、「ワタシってそういうことをしてしまうヤツ」という、うんざりするような現実にも気づく。

オープンマインドを最大に生かしてオープンソースで行くやり方は、別のレイヤーで論理的に考えれば、最大の公益性、彼らにとって、大勢の大衆、大勢の農民と喜びと幸せを最も効率的で生産性の高いやり方で実効性をもって共に築きたいという彼らの原風景の心的エネルギーのベクトルとはぴったり合っている論理的には第一選択肢である手法だ。

論理的には正解だけれど、世の中には同じ原風景を共にしないまったく分離して二峰性を示す別のカテゴリーの人間がいて、その二峰性の別のグループは、人を襲うこと、人からものを盗むこと、人を殺して所有権を奪うこと(要するに侵略行為です)、人の人権を侵害し苦しみに快楽を得ること(ようするに侵略行為には必要なコンピテンシーです)を何よりも優先する人格をそのカテゴリの中に持っているのだ。

フレディや嘉内の元型へとむかうリビドーに対して、もう一つのカテゴリーの人たちは、所有欲に端を発して所有権を自分にうつす欲望、盗みと殺人に至る欲望を彼らの原風景としているのかもしれない。他人が考えていることは目には見えないから、仕草や言動から推し量るしかない。

社会的には、フレディや嘉内あっての幸せの実効性なので、うまくいけば社会に対してギフト、レガシーとなるはずの情熱だけれど、ここで、小林一三翁を例に出すのは気が引けるし恐れ多いとは思うのですが、逸翁は、慶応大学と三井銀行で、いわゆる境界線の引き方を体系的に学んでいて、それでも、逸翁は今太閤として大阪のアイドルとなった。

テクニカルに(異質な人たちとの間に)境界線を作ること、システマティックに、自分と同じカテゴリーの人たちとの信頼のきずなのネットワークを構築して、万一、殺意や盗みの憎悪をむき出しにされたら、大群で向かって追い払うこと、など、単独徒手では限界がある部分の課題を解決しなければ、保坂嘉内の夢の実現のような尺度の事業は成しえないかな、と思った。

日曜日のNHK「ダーウィンが来た」で絶滅危惧種のコアジサシが東京湾沿岸で生育できる環境をボランティア団体が構築したという特集をやっていた。

わずかながらコアジサシの繁殖が成功して大群で住んでいる子育て中のコアジサシが、肉食のカラスや猛禽類が雛を狙って急降下してくるのに対して、数千羽で一斉に飛び立ち集団で隊形をなしてそのカラスや猛禽類に猛アタックしていく映像に凄い迫力があった。ヒッチコックの「鳥」っぽかった。

集団で行動することは、防衛上とても有効な手段だ。

それは、10人くらいのユニットでもだいぶ違うし、100人のユニットならかなり有効に機能するだろう。

自分と相似性の高いユニットを「意識しなければ作れない」のが保坂嘉内ではある。

嘉内は文芸同人誌の仲間とともに活動することに夢中になったし、嘉内は農民と共にいたがる。
嘉内と相似性の高いユニットは、そこじゃないんだ。

ワタシは、フレディが好きで、保坂嘉内の気質も「たぶんこうだったんだろうな」というところを容易に空想し、愛すべきそのキャラクターに心温まる気持ちになったりするけれど、現実問題として、社会成立の背景での不幸な戦争の褥瘡は、反社会的な非人間的な衝動を優先する攻撃的で卑怯で残忍な気性のリビドーに支配された人たちだけを生き残らせ、悲しい世界を作った。

装甲車と鎧に例えると、わかりにくいかもしれない。

保坂嘉内も、小林一三も、美丈夫だった。

単独徒手というよりは、彼らは小さな独立連邦国家の王として、その原風景への激しい心的エネルギーを社会へのギフト、レガシーの創生として形づくっていった。

個人としてのパワーは、ずば抜けていた。けれど、所属する仕組みによるパワーもまた彼らのモノにしてドライブしなければ、実効性はないのだ。

彼らはそのコンピテンシーにおいて生来オープンマインドだったけれど日本の戦前の社会の仕組みに適応していて、そこには彼らがリビドーのまま全力で走ることが可能なシステムがあらかじめ敷いてあった。

ただ、近代化の中、新しく隆興してきた社会システムの中では、彼らはあらかじめ新たな社会の仕組みの中で適合した形の境界線を持たなければ機能しなかった。

それは、例えば、保坂嘉内は最先端の科学とテクノロジーのみによって、彼の理想の農業都市を作ることにアプローチしようとしたけれど、彼のコンピテンシーと尺度では、それだけでは心が痛むような妨害が意図的に人為的に入りすぎて、無理、ムラ、無駄が多かったのだろうと推測する。

彼のリビドーの実現の尺度であったら、単に最先端の科学技術的な知識と独自のユニークなアイデアだけでは無理で、自身の所有物や自分と仲間の所有物が雲散霧消して拡散していかないよう、盗まれないよう、強盗山賊から襲われて全てを奪われたりしないための、社会システムの中で適合した堅牢な境界線、クラスタ構造、自分自身が所有しドライブが可能な社会システムを持つ必要があった。

今、現在の社会での社会との向き合い方は、たとえば、今、10代で勉強と進路を選ぶ人たちは、現代日本の中、二峰性に分かれた人たち(フレディ・マーキュリー、保坂嘉内、小林一三タイプとそれとは別のエゴイスティックな個人的生理的肉体的刹那的欲望とか他人の苦しみによって増すような非共感的な快楽(侵略戦争で人を殺して生き残るには有利なコンピテンシーです)を優先するタイプの中で、自分がどちらに位置するのか理解した上で、自分自身の元型への心的エネルギーの方向性を理解した上で、全ての人間を包摂する社会の躯体となるために自分が社会に飛び立つ前に手に入れなければいけないアイテムのリストは持っていたほうがいいように思う。

小林一三翁は「自分は運がいい人間だった」といった。でも逸翁が自分で必要と思ったアイテムを全て自分でリサーチして意図して揃えていったことは確かで、そこまでは教育訓練を受けていれば可能なのだと思う。

生まれながらの性分というものは仕方が無くて、社会に出てからの教育訓練では矯正できない部分がある。それをコンピテンシーという言葉で呼びます。

自分の職業適性とコンピテンシーと心的エネルギーが向かう元型へのベクトルとは、若いうちに理解することが、より、人為的な障壁にぶち当たらずに、生き辛くない、安全な人生を生きるために必要なことだなと、今回の徒然の随想の中で思いました。

そしてそれは、最新の適性検査や心理テストで明らかになってくることが多いかもしれませんが、自身のルーツを理解する知的で創造性が高い旅によっても、理解が深まることなのではないか。

皆さんも単純に祖父母、曽祖父母がまだ生きているなら祖父母の話を聞くだけでもいいし、自分のルーツをたどる旅へ出かけてみては。

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逸翁が今現在の時空に現れ、寛いだプライベートな場で対談ができたら、短い時間の中どれ程膨大な情報量のお互いの持つ情報を互いにやり取りできるだろうと空想するとなんともワクワクする。

小林一三翁の著書に端を発する徒然のなか見つけた様々な事物は、まさにワタシを知的冒険の旅へと誘い出すヒエログリフ巻物📜である。

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韮崎でその一生を過ごした父のこと|

長年、山梨県庁に勤めていた父の定年退職直前の職場は、山梨県甲府市にあった(現在は山梨県立大学に統合され廃止された)女子短期大学の事務局長という仕事だったらしい。当時、50代後半だったのだろう。その短期大学に新しい学部を新設するプロジェクトがその最後の仕事の中で最も大きな業務だったそうだ。

父は、高校を卒業して大学進学を希望していたが、それは1940年後半から1950年という戦後の経済的に苦しい時代だった。家計を支え、まだ家に残っていた年下の兄弟が学校へ行くのを助けるために、父は大学進学をあきらめ高校卒業後、山梨県庁職員となった。

大学への憧れは、ずっとあったのだろう。50代後半の最後の仕事で大学に勤め学科増設に関わったことが、父にとってはとても思い出に残る誇らしいことだったようだ。

ワタシは中学から高校に進学する際に、進学校である甲府第一高等学校など学区外の高校への進学を希望していたけれど、父が韮崎高等学校への入学を希望してワタシの希望する進路に反対し、自分の中学時代の夢のひとつは否定されたことが当時、トラウマだった。

父は彼自身が韮崎高等学校へ進学したことを誇りに思っていた。それが父の最終学歴なのだからなおさらだったろうが、それとワタシの将来とは全く関係がないのではないか。

結局、ワタシは韮崎高等学校をいやいや受験して受かり、韮崎高等学校で可もなく不可もない、つまらなくも無難な高校生時代を送った。

ちなみに、高校受験が終わって合格発表があった直後くらいに韮崎高校から家に電話がかかってきて、入学試験の成績がトップだったのでワタシは入学式の際の入学制代表としてのあいさつか何かをするよう依頼された。

その時の電話をとった時の父の、まるで何か意外なことを聴いたような驚いたような顔は、喜んでいるというのでもなかったけれど、いつもの顔とは違っていたように記憶している。

当時、正直、ワタシはうれしくもなんともなかった。

ちなみに、サッカーが強かった県立韮崎高校は、ワタシが在学中に3回、国立競技場で試合をするところまで行って、冬の国立競技場での応援のことは、まあ、いい思い出の一つかもしれない。それと、韮崎高校は、J-リーガーで若くしてサッカーワールドカップの日本代表になって活躍した中田英寿さんの母校でもある。ワタシが通っていたころはJ-リーグはまだなくて、高校サッカーは地味でローカルなスポーツ行事だった。一部のオタクだけのマニアックな世界だった。友人がサッカー部のマネージャーをしていた関係で、当時のサッカー部監督だった体育の教師の横森巧先生に「リクルート」されて夏休みだけマネージャーのボランティアをした思い出などがある。

当時、高校では試験があるたびに、廊下に成績順の名前のリストが張り出されるので、ワタシは学校では名前の知られた人だった。だからというわけでもないけれど学校は別に居心地が悪い場所ではなかった。地域色から社会性の高い子供しかいなかったし、高校では穏やかな時間が流れていた。

試験結果が貼り出された紙では、だいたい、3番目くらいにいた。勉強をする意欲をなくしていた灰色の青春時代だった。やる気が全くなくなっていた。図書館に行って哲学や心理学の本を借りては読んでばかりいた。英文科に進もうかと考えていた。

今、思い返せば、父は、自身の母校である歴史と伝統のある韮崎高校へ子供を進学させたいという強い気持ちがあったのかな、とは思う。父にとっては、充実した思い出深い唯一無二の青春の舞台だったのだろう。

父は大学を出ていないこともあってか、ワタシの4年制大学進学にも反対して山梨県立女子短大に入学させようとしたり、それで、ワタシは親に知らせずに自分で勝手に千葉大学薬学部に願書を出して勝手に受験して幸い合格したので進学したい旨を父に伝えたり、さすがに、父も職場の同僚の子供が千葉大学に受かっていてそのお祝いを言わなければいけない立場になって、そういった経緯から進学を反対する気分がそがれたのか、千葉大学への入学を認めたり、大変だったけれど、中学時代から高校時代、父はワタシの行く手を阻む厄介な障壁だった。

最終的に父は山梨県立女子短大に勤めることができて、それが父の最初で最後のキャンパスライフとなった。

学園祭の設営の際は、地元の親戚の手を借りてキャンプファイアーの大きな薪をたくさん準備したりしていたそうだ。彼にとっては最初で最後の学園祭の準備であり、楽しかったのだろう。

その山梨県立女子短期大学で、当時、学長をされていた小牧治氏との出会いが、父にとって大きなものだったということを、父が定年退職前後にワープロを覚えて自分史を編纂したという冊子で知った。

新聞でサミュエル・ウルマンの有名な詩である「青春の詩」を知り、良い詩だと思って小牧学長にその詩を教えてさし上げたのだそうだ。そうしたら、学長は、様々な場所での講演や、学長を退官される際の退官講演で、その「青春の詩」を引用されたということに、すこぶる感激していて、自分の誇りのように思っていたらしい。

小牧氏は高学歴で長年哲学の教授をされていた経緯もあり、この詩を知らなかったとは思えないけれど、なにか感ずるところがあって、しばしば引用するようになったのだろうか。

このサミュエル・ウルマンの有名な詩である「青春の詩」は、今でも日経新聞に載るような実業界、財界人がしばしばコラムなどで引用する。

この詩は、ワタシも社会人になってから知って、自分の職場の机の上に貼っておいたりしていた。良い詩である。

父が大腸がんの手術をするために入院している病床を訪ねるにあたって、ワタシは、サミュエル・ウルマンの「青春の詩」を紙にプリントアウトしてパウチ加工したものを持っていって手渡した。大きな手術は初めてで落ち込んでいた父だったが、県立女子短期大学勤務当時に学長にこの詩を紹介して喜ばれたという話を誇らしげにしていた。

手術前の手続きと主治医の説明を父と一緒に聴き、主治医がステージ4の病巣の画像を見せながら説明する話にワタシはいちいち大きくうなずいて、笑顔で父に何度もうなずいてみせた。ワタシが帰る直前には、父は、手術に対して前向きになって勇気を持った様子だった。

別の note に書いたのだけれど、ワタシは、2011年に東日本大震災と併行して、当時、勤続20年代の後半だった製薬企業でトラブルに巻き込まれていた。

公益通報者保護法を読んだことがありますか 松廼屋|論点解説 番外編
https://note.com/matsunoya_note/n/n62facb0f4b05 

上記、note に書かなかったエピソードがあった。

ワタシが、公益通報者保護法と会社法に準じたその企業のコンプライアンス細則その他の法令に従って、会社宛てに連絡相談した件についての会社の対応は、例えば裁判所に記録が残っている事案でいうと闇カルテル事件での通報者の不利益取り扱いとして企業側が敗訴した証拠として判例に羅列されている不利益取り扱い事項のオンパレードのような様相を呈してきていた。

R&D部門のその当時の総務マネージャーが私と面談して優し気な口調で、当時、省エネのために閉鎖されて電源を落とされていた図書室の片隅にパーティションを切って私を単独で閉じ込めようとしたことは、上記の note にエピソードとして載せてあるけれど、その常に穏やかで優し気な口調で総務マネージャーが面接のとき、

お父上が大腸がんのステージ4なんだって?

と、それはそれは優しげに温情深い様子で聞いてきたのだ。

ワタシは、誰にも父のがんの話はしたことがなかった。家族だけが知っていることだ。会社に家族と付き合いのある人はいない。

ワタシの不利益取り扱いと、上司の責任逃れのためワタシを情報から遮断してスケープゴートとしようと(恐らく)画策していた会社上層部から自分の直属の上司までの秘密裏の工作は、ワタシの家族から父のがんのことを聞き出すところまで行っていたのだろう。

恐らくそれだけではなく、家族にワタシが「会社に歯向かって重い罪を犯した」というような誹謗中傷とうそを言って聞かせ、介護休暇などをとらせてそのまま解雇するか自主的に退職させるところまでの青写真があったのだろうと思う。

まったくのところ、ストーカーである。

製薬企業の取締役レベルからR&D部門の厚生労働省へ医薬品の製造販売承認申請手続きをするという当時の薬事法で規定が明確にされている業務を担当する部署のマネージャーラインまでが、責任逃れと「盗み」と「暴力」への衝動で、どれほどの人間離れした一方的な憎悪をワタシに向けていた事か。

ワタシの教育背景から、ワタシは、上司らのやったことは罪の重いことであると思っていた。けれど、社内の誤記訂正と上司らの「教育」と部門内人事だけで済む話だとそこまでは考えられていた。

それと同時に、医薬品の製造販売承認申請にかかわる申請書類として、上司らが試験責任者となった書類が上司らの思惑通りに事実を隠蔽して改ざんされた状態のまま厚生労働省に提出され、PMDAの書面調査で隠ぺいと改ざんが判明した場合、PMDAがその製薬企業の担当部署に対して「踏み込んでくる」という(そういう教育を受けていたので)ことを想定して、それは避けたいと考え、社内での逸脱是正措置を正しい手続きでとるようその申請の執行役員である取締役を(社内通報窓口担当の社外弁護士宛ての書面を通して)説得を続けているつもりだった。

上司から取締役員は、そのワタシの職業能力を全力で注力した様々な綿密に書かれた書面を真面目に受け取り粛々と作業をすることなく、ワタシへのおどろおどろしい恫喝恐喝のやり方だけ24時間考え続けて、きっと彼らなりにワクワクして心躍らせていたのだろう。モティベーションの向かう方向性が全く異なる人間離れした輩は、企業には残念ながら少なからず存在する。

渦中にあったワタシは、自分の教育背景から遵守すべきと判断したすべての法令順守の実行と会社を救う事、患者さんの命を守ること、各論的な逸脱の是正を軌道に乗せること、そして「地球を救うのだー!!!」と考えることに集中していて、上司から会社役員までのおどろおどろしい不利益取り扱い計画までは気が回っていなかった。

一方、実家では、父は父で自分でリハビリに励んでくれていた。最晩年は抗がん剤治療とリハビリのすさまじい努力の中で過ぎたかもしれないが、自宅で日常生活を過ごせる穏やかなモノだった。亡くなる直前まで普通に生活していた。あの年齢の人たちは、概してタフでマイペースなものだ。

丁度、その頃、小さい頃からワタシを可愛がってくれた親戚の叔父が、ワタシに唐突に書籍を送ってきてくれた。

amazonJP 蜩ノ記 羽根藩 (祥伝社文庫) 葉室麟

どうやら、自身で読んで感動したから読んだらということで送ってくれたらしい。ざっと表紙のあたりだけ見たら、罪を着せられ幽閉された武士が切腹するまでの話だった。

Amazon から引用すると、


幽閉中の武士・戸田秋谷の気高く凄絶な覚悟と矜持を、九州豊後の穏やかな山間の風景の中に謳い上げる感涙の時代小説!平成23年度下半期・第146回直木賞受賞作!2014年、待望の映画化!

当時、会社でも家でも個人的に「地球を救うのだー!!!」のプロジェクトに全力を傾ける以外の時間の使い方が無い、まるでジェットコースターに乗っているひとみたいな状態だったので、読まないままにしていた。

さすがに、無実の罪で切腹するまで幽閉された武士の最後の数年を画いた話がいかに感動的であれ、自分の当時のシチュエーションから言ったら、笑うしかない。

後で、叔父に「送った本を読んだ?」ってさりげなく聞かれたが、「まだ...読んでいません。時間が...」などとあいまいに答えた。

これから言うことは、単にウケたいだけで、他意はないし、普段、野卑な言葉遣いはしたことがないので、言い方が間違ってたらゴメンなさいm(__)mっていう程度で言いたいのですが、

直木賞かよ

ってことです。

製薬企業のR&D部門は、例えれば、プロ野球リーグとプロバスケットボールリーグなど様々なメンバーがごちゃ混ぜになっている部署です。そこには、様々なレイヤーの様々なカテゴリーのいい言い方をすれば個性豊かな、端的に言えばめちゃくちゃ癖の強い職業人がごちゃ混ぜになっていて、強力な統制、計算されたインテグレートが必要な部門なのです。

製薬企業のR&D部門は、まず第一に患者さんの命を守るという絶対に外せない前提があるから、言ってみれば、アナーキズムへの嗜好性が許容される部門ではない。アナーキズムは、部門の機能を破壊してしまうし、その方向性と枠組みの範囲は、当時の薬事法において明確に規定されていた、

不幸にも卑怯かつ卑劣な人格を持つ人間が、企業の大きな意思決定権を握った時、現場は百鬼夜行の修羅になる。

愚かしく、不必要に悪い仕草を続ける、かつて直属の上司であった会社取締役が作った組織のマネージャーラインは、結局のところ、執拗に不必要な不利益取り扱い計画を実行し続け、会社でのワタシの居場所を全て失わせ、キャリアを奪っていった。

コンピテンシーと適合する職能にあった人事がどれほどクリティカルで、それでいて高度な人事の技術と能力が必要なことかわかる。

会社の無駄に醜い騒動の中、多くの人が涙を流したり苦しんだ。それは、多様性でもレジリエンスでもない、ただただ残念な仕上がりだった。

そんなところに行く必要はないんだ。皆さんの豊かな感性やコンピテンシーを慈悲深く分け与え手を貸す必要もない。そんなことを、皆さんに伝えたい。

父は、韮崎で生まれ育ち、幼いころ生まれた家を失ったけれど、小さな家とは言え祖父が建てた父自身の育った家で一生を全うした。地域の中で地元に密着した暮らしをした父のその彼にとっては激動の昭和から平成へかけての穏やかで充実した人としての80余年の生涯を、なにか、ワタシは不思議なものの様に思う。

父がワタシの年には、今私の手元にある父の「自分史」などをワープロを覚えて書いていて、大型犬のアフガンハウンドを溺愛し実家の周りの散歩道を散歩させるのが自慢と生きがいだったかと思うと、本当になにか不思議なことのよう、と思う。

彼の「自分史」に書かれているペットの犬へのアフガンハウンド愛に対してさかれたページは、彼の自分史の中での自分の子供に関する描写のページよりもはるかに多かった。

韮崎宿というまるで幻影のような穏やかな長い時間軸の時空に流れるときを思う。

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マガジン|matsunoya diary

日々の雑文をクリップでまとめた感じのマガジンです。
 🖇 matsunoya diary 🖇

https://note.com/matsunoya_note/m/me041ddf14570

よろしければ、こちらのコンテンツもいかがですか?

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BLOG 祖母の手記(写し)|「末ちゃん」・「製糸場回想記」
https://note.com/matsunoya_note/n/n9ca8dc48efcc

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別の note でフレディ・マーキュリーの2枚目のソロアルバム「バルセロナ」について書いた。

その中で紹介した曲を一つ、ここにのせておこうかなと思います。

フレディが日本語で「夢のよう」と歌っているフレーズを、もう一度聞きたくなって。

YouTube|Freddie Mercury Solo
La Japonaise (New Orchestrated Version)
https://youtu.be/THDBBvjOc4M

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それではまた、
お会いしましょう。

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