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弥生式竪穴住居の話。

昭和二十年、東京は大空襲を受けたがとくに私の住んでいた港区麻布霞町はこの前まで自衛隊の基地になっていた麻布三連隊に隣接していたこともあり猛烈な空襲を受けた。特に夜間、低空で飛来する米軍機を迎え撃つ速射砲のオレンジ色の光がサーチライトで映し出される敵機の腹をまがまがしい色に染めているのを50年以上経った今でもハッキリと思い出すことができるのだ。
当時小学校三年生だった私は二つ違いの姉とふたりだけで遠い親戚にあたるTさんのところに疎開することになった。疎開先は岩手県の前沢というところで今でこそ前沢牛とか言って結構名の知られた場所になったが、当時は水沢から更に辺鄙な所でありしかも前沢の町から更に山道を一里(4キロ)程も歩いて上り詰めた先にある前沢炭鉱の部落はずれに住んでいる開拓農民の一人がTさんという訳であった。
この家というのが周りに深さ50センチほどの水路というか濠をめぐらせてあり、家の真ん中に太い柱を立て中心から円形にわらで葺いた家で窓は一箇所しかなく板が一枚ぶら下げてあって開けるときは板の下を外に向かって押し出し、つっかえ棒で支えるという代物。家の中は30センチほど低くなっていて半分が土間、半分が板の間というまさしく弥生式竪穴住居そのものであった。
風呂なぞ勿論なく、トイレは外に立ててある掘っ立て小屋である。食べ物といったら大豆かヒエ、アワが常食で米粒は探さないと見付からない。こういう生活だから子供達の遊びも自然食い物探しに収斂することになる。まずやったのが躑躅の花びら集めである。季節がよかったこともあったが野山には野生の躑躅が沢山自生している。つつじの花をむしって下のほうを口でチュウチュウと吸うと仄かに蜜の味がする。ラッパ型になっている躑躅の花にヒモを通して首飾りを作り首に掛けながら今度は花びらをむしって食べるのだ。ちょっと酸っぱいあじがするが甘いものの無いときだからこれでも結構お菓子代わりになる。でもこれは女の子のやる遊びだから悪童連に見付かればすぐはやしたてられる破目になる。次は百合の球根掘りである。野百合を見つけて球根を掘り出して煮て食べるのだが、後年料亭で高い金を払って食べた百合の根よりもずっとおいしかった気がする。球根掘りに使う小さなシャベルを放り投げてそれを拾いに行くと必ず百合の咲いているところに落ちていたものだ。
主食がジャガイモとアワ、ヒエなので動物性の食い物が欲しくなるのは育ち盛りの子供にとって当たり前なこと。そこでまずは岩魚とりである。勿論つり道具などという気の利いたものはないから手掴みである。渓流に入っていってここぞという岩の下に両手を差し込んで隠れている魚を手掴みにする。中々思うようには獲れない。川遊びは疲れるから近くの畑に潜り込んでトマトやきゅうりを盗み食いするのが関の山。これではならじと夕方を待って炭鉱に行ってカーバイトランプを拝借し前沢の町まで下りていって水田に居る泥鰌を獲る。シャモジに古釘を裏から5/6本打ち付ける。泥鰌は夜になると水田の泥の上に出てきているのでカーバイトランプで照らし出された奴めがけてシャモジをハッシとばかりに叩きつけると古釘に打ち抜かれた泥鰌が獲れると言う寸法なのである。お百姓さんにしてみれば大事な田んぼを荒らされるわけだから見付かればぶん殴られるのは間違いない。あたりは真っ暗だからカーバイトランプの灯りは遠くからでも見えるのだから仕事は手早くやらなければならない。こういう時は泥鰌獲りは上手なのに任せてお供は古手拭に獲物を入れてついて歩くだけである。10匹も獲ると大急ぎで家に帰って泥鰌汁を作ってもらうのだが泥臭いのも気にならずに頭から尻尾までバリバリくってしまう。お百姓から苦情が来てこれも一回限りとなってしまったので次は蛙である。そこらの水溜りにいる赤蛙をつかまえてまずしりの穴に麦わらを差し込んで思い切り息を吹き込む。蛙の腹がパンパンに張ってきたら後脚の指の根元にナイフで切り込みを入れて両手で皮をつまんで思い切り左右に引っ張ると全身の皮がつるりと頭まで綺麗にむけてしまう。これを水に入れると白蛙が泳ぎだすという趣向である。遊びに飽きたら白蛙の尻から燃えにくい小枝を差し込んで炭火で醤油をつけながら焼き上げる。香ばしい匂いがしてとても美味しかったような気がする。
蛙は小さいので腹一杯にならないので、常日頃眼を皿のようにしてシマヘビを捜し歩く。青大将とか山かがしはうまくないのでつかまえてもひとしきり遊んだら放してやるが、シマヘビは食い物になるから大事に持って帰る。
今では蛇を食わせる店もあるので蛇の皮を剥くところを見た方も大勢居ると思うが子供ではなかなかできない力仕事なので帰って小父さんにやってもらう。
頭の横に切り込みを入れて皮を掴んで一気に剥いてしまうのだがこれも縞蛇が一瞬にして白蛇になってしまう。これをぶつ切りにして醤油で付け焼きするのだが、白身になったぶつ切りが金網の上で蠢いていたことを昨日のことのように思い出す。皮は草履の鼻緒にするから捨てはしない。
夜、板の間にムシロを敷いたところに寝るのだが雨が降ってくるとそこら中雨漏りするので弱った。ビンとかカンとかというものは基本的になにかの入れ物に利用されているので雨がもれ落ちてくるとその都度寝床の位置を変えなければならないのだった。
こんな生活を三ヶ月程した後突然両親が迎えに来た。東京での疎開先であった世田谷も空襲を受けるようになったのでどうせ死ぬなら家族全員で死んだほうが残された子供の心配をしなくてもいいという一家心中的な考えに取り付かれた母親が戦火の中を態々東京から岩手の山の中まで我々を連れ戻しにきたのだった。帰りの汽車が翌朝早いのでその晩私達二人は両親と一緒に前沢の駅前旅館に泊まることになった。両親は東京から白米を持参してきていた。(当時はお米は配給制で旅行する際は自分の食い扶持は持って歩いたものなのである)
宿屋の夕食は何ヶ月ぶりかで銀シャリなのだ。ところが日頃食べつけない所為かあるいはあまりに美味しくて喰い過ぎた所為か、その晩は酷い下痢に悩まされ一晩中トイレを往復したものだから母親が
「あの家には随分お金を置いておいたのに、ご飯も出さなかったなんて非道いもんだね」
と言った。
確かに、思い出すと子供が寝静まった頃、あの家では白米に大豆をいれたご飯を食べていたのを何度か見かけたことがあったので、きっと姉が母親に告げ口したのにちがいない。子供なので文句も言えずに居たのだがそこは女である姉はお金の経緯を知っていて母親に実情を手紙で知らせたのに違いないと今となっては思うのだ。 


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