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棹は十年櫓は五年

 今では観光地で位しか見掛けることも無くなってしまったが、昭和四十年代までは漁港に行くと必ず何杯かの和船が見られたものである。俗に棹は十年櫓は五年と言われているとおり櫓で漕ぐのもなかなか難しいものなのだ。艫【舟の最後尾】の桟に櫓ベソ【我々は櫓チンと呼んでいたが】が埋め込まれていて、これを櫓の中ほどにあけてある穴にはめて梃子の原理で櫓を漕ぐのである。
 ある年の夏私は釣友のUと羽田にハゼ釣りに出掛けた。Uは父親が安房小湊の出身であったところから子供の頃から和船に慣れていたので、ボートもあったのだが和船を借りて釣りに出た。私も港の中で練習してみたが、まず漕ごうとすると櫓チンから櫓が外れてしまうのである。なんとか櫓を漕げたにしても今度は舟がぐるぐる回ってしまい真っ直ぐ進まない。
 ということで漕ぎ手はUに任せ私はのんびり胴の間に座ってあたりを眺めていた。釣り場はどこでも良いのだがその日は潮周りが悪いのか魚の喰いが今ひとつである。あちこち動き回っているうちにかなり遠くまで来てしまった。ふと辺りを見回すと今まで周りで釣っていた釣り船が一杯も見当たらない。変だなと思って空を見上げるといつの間にか西の方から黒い雲が空の四分の一程まで覆っているではないか。
 「やばい」 大急ぎで釣道具を片付けてUは必死に漕ぎ始めた。風も出てきてまだ雨こそ降らないが只ならぬ状況になってきた。
 海で使う和船は頑丈に出来ているだけあって櫓も大きく重い。Uも根限りに漕ぐのだが思うように前に進まない。雨もポツポツ降り始め、風は真正面からふきつけてくる。
舟がガブられるので櫓が櫓チンから何回も外れてしまう。
 そのうちに「ボキッ」という嫌な音がした途端Uが「いけねえ 櫓チンが折れちまった」と叫んだ。
 櫓チンがなければ櫓は漕げない。このままではどこまで流されるかわからない。窮すれば通ずの譬えどおり二人は船底のすのこ板を外すと左右に分かれて一心不乱に漕ぎ始めた。風も雨も激しくなるばかりで舟は進まない。もう二人は死に物狂いで腕も折れよとばかりすのこ板をオール代わりにしてかくのだがとても港まで辿りつけそうにない。
 船宿から救助船が来てくれなかったらどこまで流されたかわからなかった。救助船で引っ張られているうちにだんだん怖さが身に染みてきて夏だというのに二人は濡れ鼠でガタガタ震えていた。
 ところでこのことがあってからUはひそかに櫓の練習をしていたらしく何年か経っッてからこんなことがあった。千葉県の寒川あたりは当時まだ砂州があってハゼ釣りの名所であったが、ある夏私はUと友人のSとYの四人で天婦羅道具持参でハゼ釣りに行ったことがあった。Uは当然のように和船を借りて釣り場へと漕ぎ出した。当時はすでにボートは当たり前で船外機をつけた釣り船も沢山出てきた頃で、和船で悠々とハゼ釣りをしているのは我々位のものだから四人は得意然としていた。
 昼時になったので州に舟を乗り上げて天婦羅の支度にかかった。家から七輪から炭まで用意してきているのであとは油が煮立つのを待つだけである。魚は船の中でUが肥後の守【当時の小中学生の必需品の文房具で小刀の名】をふるってさばいてある、車座になって冷や酒を飲みながら話をしているうちに自然と和船の話になり羽田沖の大騒動へとうつっていった。それを聞いていたYがいきなり立ち上がると 櫓ぐらい俺にもできる という顔をして舟に近づくと一人で舟を水中に押し戻し櫓を漕ぎ始めた。
 三人は「できゃぁしねえぜ、櫓チンを折るのが関の山だ。やめろやめろ」と言ったものだからYは意地になって覚束ない手つきながら櫓をぐいぐい押し始めた。「割りにうめえじゃねえか」「初めてにしちゃあたいしたもんだ」などと三人が言いはやしたものだからすこし沖目に舟を漕ぎ出したところ、丁度潮目の外に出た舟はYの漕ぐ櫓の動きなど無視するように流れ始めた。
 Yの形相が変わってきたのがはっきりわかる。必死に漕いでいるのだが舟はどんどん流されてゆく。
 その時、Uがパッと立ち上がり上着をかなぐりすてるや脱兎の如く駆け出すと海にザブーンと飛び込んだ。いままで見たこともないようなスピードで舟に泳ぎ着くと船べりに手をかけてザーッとばかりに飛び乗りすぐさまYから櫓をうけとると舟を立て直してこちらに戻ってきた。その鮮やかな手並みに我々だけでなく周りで事の成り行きを固唾を呑んで見守っていた他の釣り人たちも一斉に拍手喝采。Uの得意そうな顔とYの恥ずかしそうな笑い顔が今でも目に浮かぶ。
 後年、Uの結婚披露宴で私はこの話をスピーチでしたところ大うけで新郎も大いに面目をほどこしたことだった。勿論、羽田沖の方の話は省略しておいた。


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