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運転教習所

 品川駅から都バスで10分ほどのところにその教習所はあった。
 当時は実地試験は試験場で受けるのが普通だったが、この教習所は実地試験免除の特典があり魅力だった。
私はポン友のNと二人で夏季一ヶ月特訓というのを受けることにした。日曜日以外毎日、二十五日間で本免許を取らせるという触れ込みで費用は一万五千円だったと記憶している。当時の学生のアルバイトの主流であった家庭教師の稼ぎが週二回で月五千円の時代である。
 品川駅からバスが鮫洲に入ってゆくと潮の匂いと工場の煙の匂いがザラザラした土ぼこりの風に乗ってバスのなかに入ってくるのだった。今は埋め立てられてしまったが、バスの通る産業道路に沿って運河が入ってきていて、そこに架かっていた橋を渡って左側に運転教習所があった。その昔東京都知事をやった津島寿一が理事長をやっている社団法人ということだったから警視庁のOBのために作った施設だったのかもしれない。
 車はすべて外車、当時でも古くなっていた1949年50年型のフォードとシヴォレーが十台ばかり置いてある、恐ろしく冴えないところで事務所兼教室も木造のガタピシする建物に一ヶ月間通うことになったわけである。
あたりには食事をする場所もない、そのころはコンビニもない頃のことだから初日から昼食にありつくのに苦労することになった。兎に角工場街のど真ん中にあるから見渡す限り店屋というものは見当たらない。教習所の先生も生徒も弁当持参で来ているから我々の面倒は我々がみなければならないのである。暑い砂埃の舞っている道を歩き回った挙句食堂の代わりに曖昧宿の食堂を利用することにした。奥まったところにあったので最初は分からなかったが 工場地の外れに今で言うラブホテル、木造二階建てで一階の四分の一程が土間になっていて泊り客に食事を出しているのである。昼時は近所の工員さんたちで結構混雑しているのだが二階から相方と二人で何か言い合いながら夏場なのに何故かドテラを着た泊り客が裾を乱しながらドタドタと降りてくると流石に他の客の眼を避けるように奥の部屋に消えてゆく、何をしに降りてきたのか分からないが昼近くまで二階の部屋でお仕事に励んだ揚句金がもとのトラブルらしい。
 丁度その頃出た山本周五郎の名作「青べか物語」に浦安の曖昧宿の女達の生態を見事に描写したところがあるが、正しくその女たちそのままがこの宿の女郎なのだった。その生臭いような男と女の営みの匂いが漂ってくるような感じが何とも言えない食堂の中で客たちは何事もなかったかのように食膳にムシャ振りついているのだった。
 毎日この食堂に来て昼食をとっていたが慣れてくるとこの風景も中々風情があってなにか一昔前の時代に居るような気がしてくるのだった。何しろ周りを見渡すと印半纏か腹掛に褌で、わら草履か裸足、首に手拭を巻いているというのが標準的なスタイルだし、店の小娘も着物に前掛けという格好だからである。つまりこの店に来るのは普通の工場の職工さんなどではなく所謂人足なのだ。まともな職工さんたちは弁当を持ってきているか工場の食堂で食事をしているので、ここに来ているのはその日暮らしの人達なのだ。時代劇の人足と違うところは髪形と紙巻タバコだけというところか。
 私たちはすっかりここが気に入って毎日通ったが流石に夜の方は行く気がしなくて二階の様子は最後まで分からない侭だった。
 ある日、食堂からの帰り道教習所の手前の橋を渡っているとハシケが泊まっていて陸から渡した一枚板の上を印半纏を纏った真っ黒い人足がモッコを両天秤に担いで腰で拍子をとりながら渡ってゆくのに出くわした。一足ごとに板がしなって拍子をとらなければ次の一歩が踏み出せないのである。日焼けと石炭の粉にまみれているので頭のテッペンから足のつま先まで真っ黒である。成る程先代の若乃花が若い頃沖仲士をやっていたので二枚腰三枚腰をつかって土俵際で相手の寄りをこらえることが出来たのもこの仕事をやっていたからなのだなあと二人で感心しながら見ていると面白いことに気がついた。
 男は半纏以外身に何一つ着けていないのである。真っ黒なのでよく見えなかったのだが気をつけて見ると股の付け根でブラブラしているものがある。しかし何しろ石炭粉で真っ黒けのけなのである。
 若乃花はその頃すでに土俵の鬼といわれて久しく厳しい顔つきで土俵の周りに座っていたが若い頃はこんな格好で働いていたんだろうなと思うと、目の前の人足に急に親近感が湧いて来て思わずニヤリとしてNを見るとNも同じような気になっていたのか同じくニヤリとした。
 二人は人足に向かって手を挙げて挨拶した。するとその人足は我々にピョコンとコックリしてまた一枚板を器用に渡ってゆくのであった。


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