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鰻取り

 多摩川に流れ込むホソ【支流】に沢山の鰻や鯰が居た頃の話である。
 東京オリンピックを境に東京は大きく変わってしまったが昭和三十五年ごろまでは産業活動も今ほど巨大化していなくて人々の暮らしぶりもやっと白黒テレビと電気冷蔵庫が普及し、欧米の生活用式がそんなに違和感なく取り入れられ始めた時代である。川に興味を持っていない人は気がつかなかったであろうが都心を流れる川あるいはそこに流れ込んでいる小さな流れにもまだまだ野生が残っていたのだ。
 川底には茶碗のかけらやこわれた三輪車などがごろごろしていた。というのは東京の人間だけではないと思うが戦前から家庭のゴミを橋の欄干越しに川に捨てるのが普通で、今のようにゴミ回収車が定期的に巡回するようなこともごく一部でしか行われていなかったので庭で燃せないゴミはこうして捨てるしかなかったのである。
 しかし水質そのものは今のように石油系の洗剤などは無かったので見た目以上に綺麗だったし、川もいまのようにコンクリートで作った大きなドブではなく川辺は雑草が生い茂り岸辺の水底には藻が繁茂していて魚の絶好な棲みかとなっていたというわけである。
 当時和泉多摩川から京王多摩川にかけてのホソを専門にして鰻をとる名人がいた。名前は勿論のこと年齢も定かでない。というのは朝方と夕方まだ原野のような場所にある雑草に覆われている細い流れを風のように通ってゆく全身黒装束、頭にも黒頭巾をかぶったまるで忍者そのもののようであったからである。人の噂によれば鰻漁専門の漁師でどこかの料亭に捕った鰻をおさめているらしいとのことで、ホソのどこにいつ鰻が棲んでいるかすべて知り尽くしていてあぶれるということはないとのことであった。風のように足早に通ってゆくのは人に自分の穴場を知られないためであることは言うまでも無い。どういう捕り方をしているのかもわからない、大した荷物を持っているようにもみえないのである。
 当時の我々の鰻取りの知識と言えば一つは穴釣りと言って一メートルくらいの竹竿の先に鰻の大好物のドバミミズをえさにつけ石垣のあいだの隙間にそっとさしこむ。鰻は昼間はこのような穴の中に入って入り口の方に頭を向けている。目の前に好物がちらつくのでパクリとやって穴の奥へ引きずり込もうとするところを石垣に足をかけてずるずると引っ張り出すのである。ところが石垣の間と言ってもどこでも良いというものではなく、また鰻も馬鹿ではないから異常な動きをすれば絶対に餌に喰いつこうとはしない。専門に鰻の穴釣りをする人はどこの穴に鰻が入っていたかを覚えている。不思議なもので鰻の住み心地の良い穴というのは決まっているらしく空き家になってもすぐ新しい入居者が入って来るのだそうである。そういうわけだからこの釣りはしょっちゅうやってないと鰻は捕れないのである。水量に影響されることもあり、農薬などがまかれると鰻の餌の小魚やエビ・カニなどがいなくなってしまえば鰻もいなくなってしまうのだから経験と勘と根気と注意力が必要な釣りであることは他の釣り以上である。したがって普通の釣り人がいきなり穴釣りに挑戦してもまず釣れることはないと言える。
 もう一つの鰻取りの方法というのは置き鈎である。これも同じく一メートル程の竹竿を何十本か用意して、竿の先にタコ糸を結びつけ糸の先に直接大きめの鈎をつけ生きた泥鰌をかけここぞと思う場所に竹竿を突き刺しておくのである。目印に白い布のきれっぱしを竿の先端にしばりつけておく。何十本もさしてあるくのでどこにさしたかわすれてしまうのでそうするのである。この釣りの欠点は三つある。一つは生きた泥鰌【鰻にとって食べごろの小振りで生きの良い泥鰌】を入手すること。二つ目は鰻だけでなくザリガニに齧られたり鯰に喰われたりすること。三つ目にこれが一番難物だが我々が回収する前に誰かが持って行ってしまうということである。それでも下手な鉄砲数打ちゃ当たるで素人でも鰻を捕ることが出来るやりかたである。勿論効率を考えると馬鹿馬鹿しいが元来魚釣りは効率を考えたらやるものではないことは言うを俟たない。
 第三番目は所謂ドあるいはウケと呼ばれるもので竹で編んだ筒型の籠の中にミミズを縛り付けて川底に沈めておいて翌朝早くこれを引き上げて中に入って出られなくなった鰻を捕まえると言う寸法である。しかしこのドとかウケは都会ではまず手に入らない時代だったし、あっても高価なものでちょっと手を出しにくいもので鰻よりこれを捕
られでもしたら大損害というわけである。
 さてかの名人がどのような捕りかたをしていたかは不明であるが多分持っていた荷物の量から穴釣りの類であったものと考えられる。餌もドバミミズのように誰でもが使うようなものではなくなにか特別なものを使っていたに違いない これらの職漁師の一人に女性が居て昭和三十七年頃の週刊誌に写真入りで紹介されたことがあり、覚えのある方も居られるかもしれないが装束は私が見掛けた名人と同じで全身黒ずくめで頭巾も被っていてまったく忍者風であったことをおぼえている。
漁師でも猟師でも同じだが上手と言われる人は各々独自のものを工夫していてなかなかその秘訣を他人に伝えることないし、また簡単に真似の出来るものでもなく一代で終わってしまうものが多いのは残念であるが見方を変えれば釣り人の挑戦意欲をいつの世でもかきたてることに資するとも言えるのだ。

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