香港の釣り
一九八〇年、私は香港に赴任したが何しろ暑い所でしかも夜遊びが盛んな土地柄とくるので健康上著しく悪い。 なんとか魚釣りをしたいと思っていたところ、日本人の兄弟で香港に永く設計事務所をやっているОさんと知り合い、特にお兄さんは釣り気違いだったことからよく釣りに連れて行ってもらった。
香港の釣り師達は一人でやる人は少なく団体でやることが多いようであった。特に壮観なのは、釣魚島という島に毎年六月ごろに回遊してくる大スズキ釣りである。何十隻という釣り船が出てこのスズキを釣ろうとするのだが、船上には友人知人が沢山乗っていて持参の料理で大宴会である。たまたま大魚が釣れると大騒ぎで魚を舷側に縛り付けてそこらじゅう走り回って見せびらかすのである。一メートル半ぐらいある腹太スズキで胴回りは一抱えもあるという超大物なので誠に見事なものである。私は勿論釣れなかったが兎に角この時の印象は強烈だった。
さて、普段は鯛釣りをかねてガルーパと呼ばれる石班魚を釣りにでかけた。餌は活海老.か現地でサージンと呼んでいるイソメである。活海老の容れ物はОさんの作ったプラスチックの道具箱で蓋には海苔巻きを作るときに使うスダレを切り開き海水を張ってブクブクを横に背負わせたなかなか洒落た容れ物である。何しろ釣り人口があまり多くなく餌屋といっても一軒しかないし、外国人は一人も見掛けないような路地裏にあるのだから一人ではとても辿り着けない。
言葉は勿論広東語で漁師言葉とくるからチンプンカンプンで。二十年以上も香港に住んでいるОさんでも六十パーセント位しか理解出来ないと言っている。この餌屋から船頭に連絡をとってもらって行くのである。
次はお弁当である。三人ともチョンガなので弁当を買って行くことになる。そこはお手の物の飲茶に行ってチマキ(もち米に肉が仕込んであって油っこいがすこぶる美味)を買って出発。
ところが船に乗るのが一苦労で、港と言っても堤防があるわけでもなく膝まで水に使って船の所まで歩いてゆかねばならない。またこの舟というのがよく映画にも出てくるサンパンである。我々が日頃見慣れている船の後ろ半分をチョン切ったような舟ですこぶる安定性が悪いのだ。船頭は日覆いのある前の座席に居て客は後部の日ざらし雨ざらしの所にすわるのである。とにかくよく揺れるので立ち上がるなどということはとてもできない。
清水湾という所が釣り場なのだが時々巡視艇が回ってきて臨検を受けることがある。その時に身分証明書(香港政庁の発行するIDカード)を持っていないと拘留されてしまう。なにしろ中国本土からの密入国が盛んなので舟は特に目をつけられる。もともと釣りに行くときの格好などは難民同様だし日本人は顔では区別がつかないので何を言っても通用しないとのことであった。というわけで私のIDカードは汗と塩水でクチャクチャになっていた。
二十メートルぐらいの水深のところで釣るのだが良く釣れるのは手のひらサイズの花鯛である。時々大物が釣れると香港仔(アバディーン)にある知り合いの日本料理屋に持ち込んで鯛の刺身を作ってもらう。ガルーパ、特に黒いガルーパが釣れたら万々歳である。このハタ科の魚は香港人が最も好む魚で、蒸してだし汁をかけて食べるのだが、本当にウロコと骨以外すべて、目玉だろうと胃袋だろうと食べられる。特に美味なのは唇と頬肉で文字通りしゃぶって食べるのだ。
小さい魚はスープにする。コーンオイルを鍋に半分程入れて煮立たせ、そこに小魚を全部ぶちまける。割り箸の先で魚を突っついてバラバラにする。よく煮立ててから木綿の手拭で漉すと白濁したスープがとれる。このスープに酒・胡椒・塩を入れて味を調え、豆腐と葱を刻んで投げ込み一寸煮立てて出来上がり。 蒸し暑くて食欲のない時にはこれが一番で、丁度味噌汁のような感じでご飯が何杯もお代わりと相成るのである。
一方、砂地で連れるのが。現地名でなんと言ったか忘れてしまったがキスのような魚で大きくはないが引きが強烈で釣りとしては面白い。浅瀬に立ちこんでサージンを餌にして投げ釣りをするのだが、二十センチ位の奴でも竿がしなってなかなか寄せられないほど引きが強い。この魚を釣るときは香港島からフェリーで一時間ほど行ったところにある瓢箪型をした島に行って釣るのである。昔、海賊が宝物を隠していた島として有名な島だが、真ん中がくびれていて五十メートルしか幅がないところもある。
ここは、香港島でも有名な海鮮料理(魚屋で活きた魚貝を買って近くの料理屋に持ち込み自分好みの料理を作らせる)を安直にやってくれるのだ。香港島の五分の一位の値段で美味しい料理が食べられるので釣りに飽きたらここへ直行する。釣りをするときの姿と言えば、ゴム草履に麦藁帽子、Тシャツというところだから香港人も日本人も区別はつかない。従ってボラレルこともない。
この手の料理屋で一番驚くのは香港人の食に対する意欲である。どこから見ても日雇い風の若い労働者が日本円で一万円以上もするガルーパをメインディシュにとることだ。我々日本人の給料でもなかなか手が出ないこのガルーパを女房を質に入れても食うというのが香港人の心意気なのだ。
魚と言えば酒だが、こういう時には焼酎がなんと言っても一番。地酒の焼酎をグイグイ飲んで、文字通り新鮮な魚料理をシコタマ食らって酔っ払うのはストレス発散の妙手なのだ。
香港の若い人達の釣りは、海水浴に行って小魚を沢山釣って食べるというのが普通である。つまり、海水浴には船をチャーターしてゆくので泳ぐ合間に簡単な仕掛けで船からスズメ鯛の仲間がいくらでも釣れる。餌は持参の鳥のから揚げとか肉のきれっぱしで充分。こんなもの釣ってどうするのかと見ていると、やがて海水浴を早めに切り上げて仲間の家(料理屋)に大勢で押しかける。 大勢と言ったのは船に乗っていた者達だけでなく何時の間にかその仲間がどこからともなく参加するからだ。
お母さんがこの雑魚を大鍋にいれて蒸したところに味付けして、上に香菜を刻んでふりかけ大皿に盛ってだしてくれる。これを皆が箸で突っついてチュウチュウしゃぶりながらたべるのである。大してうまくもないが大勢でワイワイガヤガヤしながらビールを飲みながら食べたこと今では懐かしい思い出である。
さて、次に極めつけの釣りをご紹介しよう。新道楽と言えば香港でフカヒレスープの美味しいことで有名な店だが、フカヒレには勿論味などないのだから味付けが良いということなのだ。実はこのスープの素は、香港島のフェリー乗り場の公衆トイレの下に棲んでいる赤い色の体中にトゲがついている小魚だと言われていた。この魚は体長五センチ位の口の小さな魚で、色々な餌で釣るのだが中々釣りにくい魚なのである。
朝早くから何人もの釣り人がこの魚を釣ってバケツに活かしておく、この魚でとったダシが断然美味しいことは皆知っている。新道楽に高値で売ろうという連中は真剣だ。
ところが或る日とんでもない発想をした釣り人が出現した。
ある朝早く例によって見物に行くと、見慣れぬ仕掛けで次々とこのトゲ魚を取り込んでいる人がいる。見ると、ビニール製の網袋を手のひら程に切り取ったものに餌の団子をくるんで水中に投げ込む。暫くして引き揚げると一・ニ匹の魚が網目にトゲが引っかかって上がってくるのだ。瞬く間に当日の食い扶持を稼ぐと男はさっさと立ち去ってしまった。その後何日かして行ってみるともう全員がその方式でやっていたが魚のほうもすれてきたと見えてあまり釣果は上がってないように思えた。あの釣り師は、また秘策を練っていたに違いない。