見出し画像

きよしこの夜

2023年クリスマスの頃。親友が息を引き取った。
家族と姉妹に囲まれて、最期は苦しむことなく静かな旅立ちであったと妹さんが連絡をくれた。

お通夜と告別式に参列。
棺のなかの親友は信じられないくらい小さくなっていた。私は親友の肌に直接触れたくて、おでこやほっぺをペタペタ触った。ありがとう。ありがとう。よく頑張ったね。皆が口々に「ありがとう」と言って嗚咽していた。

ご家族の厚意に甘えて火葬場へ同行し、いっしょに骨も拾わせて頂いた。ここまで立ち合わせてくださったご家族に深く深く感謝している。

親友はいつも自分で決めた。そして「自分が決めたことだからね。」と口にしていた。多少の意地もあったろうと思うけれど、自分で決めることを大事にしていた。だから私も親友が決めた人生の在り方を尊重したい。自分で緩和ケアの病院を調べ、試し、決めて、それまでの残り時間をギリギリまで自宅で家族と過ごす。その通り、やり遂げた貴女はすごいよ。

私が泣いているのは、親友が皆より一足早く逝ってしまったことを憐れむとか、癌になったことを不幸に思うとか、治ると信じてつらい治療に耐えたのに不憫だとか、そういうのでは無い。

余命宣告を受けてからの親友は私に、自分は幸せ者だと告げた。協力的な家族と姉妹と、出逢う人に恵まれたと。人生の振り返りや私との思い出話しもした。身に余る感謝の言葉をくれた。

私は、ただただ、親友の不在が寂しいのだ。いまだに一緒にお婆ちゃんになる夢を手放せずにいる。

お婆ちゃんになったら日帰りバスツアーとか行ってみたいよね。いいねー。花畑で花摘みしたりするやつ。温泉もいいよね。道の駅とかでお土産どっさり買うよね。いっぱい試食もするねー。するする。って、老後プランやら他愛の無い話しをしていた頃の私たちが、今の私には眩しい。

親友は私に「たまに思い出してね。」と言った。親友が亡くなって1年経った今も、たまにどころか24/365共にある。忘れがちなのは“死んでしまったこと”のほうで、報告したいことや話したいことががあるたびに、親友の不在を意識して涙になる。ポロポロこぼれる。

玉置妙憂さんの『まずはあなたのコップを満たしましょう』に、こんな言葉がある。
~「泣くこと」は浄化作用のひとつ。悲しみをうまく忘れたり、乗り越えたりするときに必ず必要な作業です。「泣かないこと」で回復はどんどん遅れてしまいます。泣きたい人は、本当に、好きなだけ泣いてよいのです。むしろ、ゆっくりと時間をとって心ゆくまで泣くべきです。それはあなたの人生をよくするために課せられた、大事な“夏休み”のようなものだととらえてみてください。~

いいのかな。私の夏休み、もうだいぶ長い。

いいなと思ったら応援しよう!