「苦しむことはあっても、悩むことはない」
そこそこ生きてくると、これまでに出会った人々が様々な場所で暮らしていることに気づかされる。
その多くは、望むと望むまいとに関わらず、時々その住まいを移している。
自分はというと、実家を出て20数年経ってなお、ほぼ同じような場所に留まり続けている。
もちろん何度か引っ越しはした。
しかし決定的に異なる環境に身を移した経験は、いまだかつてない。
これはこれで幸せなことだ。
だいたい引っ越しは面倒だ。
新しい住まいを探し、部屋を片づけ、荷物を箱に詰める。
役所やライフラインの手続。
子供もいるので学校のことも考えなければならない。
ああ、病院も探さないと。
このような面倒なことを、世間の人々は当たり前のようにできる。
しかし自分にはどうしてもそれができない。
そこでひとつ、劣等感に似た感情を抱く。
さらに、こうして移動していった他の人たちが、世界中の移動先でそれぞれ輝いて見えてしまう。
「自分はなぜずっとここにいるのだろうか」
そう思うと、自分だけが世界から取り残されたような気がする。
もちろん、他人が輝いて見えるのはほぼ自分の主観や思い込みだろう。
みんなそれぞれ苦労はあるし、いいことばかりではない。
移った先で退屈と戦っている人もいるのだろう。
それでも自分にとっては、移動していった人たちがとても輝いて見えるのだ。
変わりたい。
でも変われない。
明日こそはきっと変われる。
そう思って、気がついたら時間だけが過ぎてしまった。
自分を強力に押し止めるこの力の正体は、いったい何なのか。
違う自分に変わって輝いている未来を空想するこの想像力は、いったいどこから来るのか。
変化を恐れ、嫌い、求め、憧れる。
この矛盾した感情をどう処理すればよいのか。
ちょっと前までは、このような矛盾を抱えていてもわりと平気だった。
しかし今は、頭を鉛のヘルメットで覆い尽くされているかのような重苦しさを感じるのだ。
自分は変わることができないのか。
変わる必要はあるのか。
答えの出ない問いを延々繰り返してはすり減ってゆく。
大学院時代、指導教官にこんなことを言われた。
「君は悩むことが趣味なんだよ。僕は苦しむことはあっても、悩むことはない」と。
ずっとその意味は分からないままだ。
悩むのは頭の中だけでできる。
何もその場から動く必要はない。
苦しむには行為が必要だ。
もがき、苦しむ。
どんなに不安であろうと、とにかく一歩足を踏み出さねばならない。
躓けば痛いが立ち上がらねばならない。
石を投げつけられても、前進せねばならない。
それが苦しむということだ。
なんだ、ようやく分かったじゃないか。
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