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さらば「かも分からない」、小倉智昭さん。
東京人も使う?「かも分からない」
ネットの情報記事を見ると、「かも分からない」について次のような内容が書かれていました。書いた人たちは、普段「かも知れない」を使っているのではないかと思います。曰く。
① 今の東京人は「かも分からない」は使わない。
②しかし、年配の人物や「情報プレゼンター”特ダネ”」司会の小倉智昭さんなどがよく使っていた。
③ 「かも分からない」は、正直言って「うざい」表現である。
たしかに小倉智昭さんは、テレビで長く「かも分からない」を発信してきた人です。
小倉さんは先日まことに惜しくも亡くなられました。同じ団塊の世代として、残念でなりません。これも供養かと思い筆を進めます。
小倉さんは1947年、秋田市で生まれ、幼少期を東京と秋田で過ごして、中学生以降は東京在住でした。「かも知れない」分布図を見ると、秋田県も東京都も「かも知れない」系の地域です。なのに「かも分からない」を使ってきた。これは奇妙なことです。
しかし最近私は、YouTubeで高田純次さんが関根勤さんと対談しているのを聞いて、高田さんもまたごく自然に「かも分からない」を話す方であることを知りました。高田純次さんは、1947年、現・調布市国領町で生まれ育った東京っ子です。
二人とも1947年生まれの団塊の世代一期生。この世代が育った時代までは東京人も「かも分からない」は、日常的な表現だったのでしょうか?「うざい」などと若い人に言わせない、れっきとした東京語だったのでしょうか?
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「かも知れん」の世界に出現した新星「かも分からん」
「かも知れない」の全国方言分布図を見ると、
① 大きく分けて「かも知れない(ん)」と「かも分からない(ん)」の二つのバリエーションがあって、京を中心にやはり周圏分布しています。「かも知れない」が古い言葉で、「かも分からない」は新語です。
② この分布図はまた、ふたつの表現が、地域を分けて、まったく同じ意味の言葉として使われていることを示しています。
分布図で明らかなことは、近畿を挟む日本の東西はおおむね「かも知れない(かも知れん)」であるのに対して、近畿は「かも分からん」が濃厚であるというという点です。そして東京や関東は「かも知れない」の地域です。
たしかに関西では「かも分からん」を使う人が極めて多いのを、私は日々実感しています。
関西出身のお笑いタレントは、ほぼ「かも分からん」ですし、テレビでコメントする関西出身の識者・学者の発言を聞いても、「かも分かりませんね」は非常によくあることです。先日京都でタクシーに乗ったら、「道が混んでるかも分かりません」と、京都市内でもやはり現役でした。
ただし関西でも「かも知れん」を使っている人もいて、私もじつのところ「かも知れん」と言っているのです。関西では、混在しているというのが実情のようです。
「かも分からん」は近世の新語
「かも分からん」は、近畿を離れてあまり広がっていません。四国でもせいぜい東の方だけ。これは、この言葉の歴史がまだ浅いことを示しています。
そもそも「知れる・知れぬ」が奈良時代にもさかのぼる古い言葉であるのに対して、「分かる・分からん」は、室町末になって京に初めて現れた、とても新しい言葉なのです。『日葡辞書』が、「分かる」「分からぬ」の初出です。
*日葡辞書〔1603~04〕「リガvacaru (ワカル)、または、vacaranu (ワカラヌ)」
「かも分からん」は、近世・徳川時代になって、ようやく京から広まり始めた表現かと思われます。「かも知れん」を東西に追いやって広まりました。
遠い地方に到達した「分からん」の謎
新語であるにも関わらず、青森や佐賀など本土の東西の端の部分や、さらに、琉球でも「分からん」が用いられているのが不可思議なところです。「知らん」であっていいはずなのです。しかし、それぞれの地域をよく吟味していけば、謎の解明は不可能ではないでしょう。
青森など北方に遠く飛び火しているのは、江戸時代後期に興隆した北前船の影響でしょう。上方の文化的な物資とともに、青森に「かも分からん」も運ばれたのです。九州への広がりもこれと似ていて、古くからある瀬戸内海航路を通じて、海路を迅速に運ばれたものと見ることができます。
琉球は、奄美諸島も沖縄本島もいずれも「分からん」で占められます。この地域だけは、どなたか知恵あるお方にお教えいただきたいのですが、私にも独自の考えがあります。
琉球の場合、近世以降になって、上方の最新語「分からん」が移植されたのではないか? という考えです。
たとえば昆布を考えてみましょう。
根っからの東京人、特に「山の手」育ちの人は昆布を「コンブ」とは呼ばず、上方と同じく「コブ」と呼びます。昆布は、上方からもたらされた文化だったせいでしょう。沖縄では「クウブ」です。これは、上方の「コブ」が琉球の音韻規則に従って変化したものです。
北海道の昆布を多量に上方(特に大坂)に運んだのは18世紀末に隆盛を極めた北前船です。そのせいで、大阪は日本一良質の「コブ」が集まる昆布の都となりました。その昆布は、薩摩藩(現・鹿児島県を中心とする地域)を通じて、奄美大島、沖縄にももたらされました。今も沖縄が昆布を多量に消費する県であるのは、そういう歴史があるからです。こうした「コブ」などの物資と同様に、この南の島々に届けられたものひとつが、上方で流行っていた「かも分からん」文化だったかと、私は思うのです。
夏目漱石が愛用した「かも分からん」
さて、小倉智昭さんや高田純次さんがなぜ東京で堂々と「かも分からない」を使ってきたか?この謎を明かすため、文献に当たってみましょう。
青空文庫でざっと検索してみると、明治の東京の作家は、ほとんど「かも知れぬ」など「かも知れない」系を用いています。東京の作家である樋口一葉、幸田露伴、森鴎外、田山花袋などの作品には、「かも知れない」系以外は見当たりません。
ただし夏目漱石は違います。
『吾輩は猫である』から、未完に終わった『明暗』に至るまで、「かも知れない」系に加えて、ちょこちょこと「かも分からない」系を使っています。『吾輩は猫である』(1905~06)、『三四郎』(1908)、『彼岸過迄』(1912)、『私の個人主義』(1914)、『道草』(1915)、『硝子戸の中』(1915)、そして『明暗』(1916)で使っているのです。つまり漱石の創作活動のすべての時期において使われていました。『吾輩は猫である』では、中学教師・苦沙弥(くしゃみ)先生のセリフの中で、次のように使われています。
同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日書いた通りの筆法で空海と願いますと云う方がまるで書体を換えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。
苦沙弥先生は、「かも知れぬ」と「かも分からん」を、同意語として自在に操っていることが分かります。同意語としての使用は、次のように、『彼岸過迄』でも見られます。
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
さらに『三四郎』では、漱石はセリフでなく、地の文でも使っています。
ことによると、ただ金を受け取るだけで済むかもわからない。
漱石は、会話だけでなく、地の文でも用いているではありませんか。つまり、東京では新語であった上方語の「かも分からない」系語が、話しことばの域を超えて、書きことばとして定着していたのです。こうした地の文での使用は、同時代の作家、鈴木三重吉『桑の実』(1913)、有島武郎『或る女2』(後編)(1919)でも見られます。みな明治末から、大正初期にかけての作品群です。
漱石に後続する「かも分からない」作家たち
さらに漱石らより後の時代の作家たちの間でも「かも分からん」の使用は続きます。芥川龍之介、岸田國士、野村胡堂、吉川英治、太宰治、火野葦平、林芙美子、梅崎春生、山本周五郎などにも受け継がれています。
山本周五郎の『葦は見ていた』を見てみましょう。1947年の作品です。これは奇しくも小倉智昭さんや高田純次さんが生まれた年です。
おひさの身についた、男を夢中にさせる技巧にか、――そうかもわからない。
この時代、つまり20世紀前半までの東京では、「かも知れない」と共に「かも分からない」がごく普通に、流通していたことは間違いないと思えるのです。
「かも分からない」を使った階層
さて20世紀前半までの東京では、「かも分からない」を、どんな人たちが話しことばとして使っていたのでしょうか?「漱石の『道草』は、自伝的な小説ですが、漱石自身を思わせる健三という人物とその妻・お住が会話するシーンがあります。
「ことによると、もう死んだかも知れないね」
「生きているかも分りませんわ」
二人がしゃべっている言葉は、江戸っ子、べらんめえ調の「下町ことば」ではありません。東京の知的エリート、富裕層、つまり上層階級の「山の手ことば」なのです。
かつて私は、「させていただく」という表現が、明治時代の早くから「山の手ことば」として、東京の山の手に住む上層階級の間で普通に使われていたことを明らかにしました。「させていただく」だけでなく、「かも分かりません」も、山の手ことばではなかったのか?
実際、健三は、
「するとまあただ御出入(おでいり)をさせて頂くという訳になりますな」
と「させていただく」を用いています。知的エリート、富裕層、上層階級にふさわしい言葉だったのです。
この会話では、イギリス留学から帰った、「山の手ことば」の遣い手の健三が「かも知れないね」を使っていました。しかしその妻お住は、なんとしたことか「かも分かりませんわ」と応じています。なぜでしょう?
私はこう思います。妻のお住は、夫よりもさらに上品な言葉遣い、できるだけ優美で、穏やかな言葉遣いをしようとして、「かも分からない」のほうを選択したのではないかと。
東京遷都で「かも分からん」はやってきた?
1868年の明治維新で首都が京都から東京に移ると、天皇と多くの侍従たち、そして公家がいっせいに東京に移ってきて、上層階級として君臨しました。江戸という街に多かった武家屋敷は、こうした上層階級に支配されるところとなりました。当時そうした上層階級は、江戸っ子ぽい「かも知れない」とか「かも知んねー」ではなく、京都の言葉だった「かも分からん」「かも分かりません」を使っていたでしょう。健三の妻を含む、東京の山の手エリートたちは、京都の上層階級の言葉に倣ったものかと思われます。
「かも分からない」を使う人の性別
ここまでの文献に基づく考察をまとめると、どうも「かも分からない」は、当初、あくまでも当初ですが、女性に好まれていた表現であったように思えてきます。
検証してみましょう。
漱石よりさらに古い「かも分からない」の例を探しました。そしてこんな例を見つけました。徳富蘆花の『不如帰』(1898~99)です。主人公のひとり浪子のばあやで、山の手ことばを使う幾(いく)の言葉です。幾は上方から飛び火してきた「遊ばせ」言葉もふんだんに使う、上品な女性です。
「こう申しておりますうちにどなたぞいらっしゃるかもわかりませんよ。(中略)旦那様がお帰り遊ばすとようございますのに、ねエ奥様」
「おほほほほ、さようでございましたよ。殿様が負(おん)ぶ遊ばしますと、少嬢様(ちいおじょうさま)がよくおむずかり遊ばしたンでございますね。
――ただ今もどんなにおうらやましがっていらッしゃるかもわかりませんでございますよ」
典型的な山の手の女性の会話の中で、「かも分かりません」と「遊ばせ」はセットで用いられているのです。
「かも分からない」が「うざい」と言われる前
ほかの作家についても見ましょう。「かも分からない」が会話にどんな効果を及ぼしているか?
まず、岸田國士の演劇台本『恋愛恐怖病』(1926)です。
女 人によつては、それがわざとらしく思はれたり、却つて気障(きざ)に見えたりするかもわからないけど、あたしは、さういふ男の友達が好きよ。
次に、菊池寛の小説『貞操問答』(1934~35)です。
「そんなこと出来ませんわ。またいつどんな夕立が来るかも分らないんですもの。」と、新子は恥かしげに微笑した。
これらを読むと、その言葉遣いから、語り手たちは上層階級の品のある女性であることが感じられます。「かも分からない」は、女性を上品で、優雅に見せるために、有効に作用しているかのように思えます。古い「かも知れない」より、より丁寧で柔らかく、相手への配慮もよく行き届いた言葉と意識されていたのではないかと思います。
「かも分からない」は、こうしてアッパークラスの女性が1世紀近く使い続けたことによって、東京では、やがて男たちにとっても、上品で好ましい表現だとみなされ、使われるようになっていったのでしょう。
今となって若者から「うざい」と貶められて、「かも分からん」は、とてもかわいそうな身分です。
品格ある言葉遣いをしていた泉下の小倉智昭さん、そして今もお元気な高田純次さん!漱石・蘆花の本を胸にひしと抱きしめて、一緒に令和の世を嘆きましょう。