明石家さんまさんは「ああ、エラッ!」
「ああ、疲れた」と言うときの「疲れた」を、日本のそれぞれの地で何と言うのでしょうか。
全国分布図を見ると、いくつもの表現が京を中心に「周圏分布」していることが分かります。周圏分布とは、昔、首都の京都で流行りすたりした言葉が、波紋のように広まって、古い言葉ほど京から遠い地域に分布している状態を言います。
分布図を判読すると、本土では、「コワイ」を最外周にして、どうやら「キツイ」「クタビレタ」「カッタルイ」「エライ」「シンドイ」の順に、京の都で話しことばの盛衰があったことが分かります。
私の身近な言葉から見てゆくことにします。
私は京都から近い、滋賀県の琵琶湖の西北岸にある海津に生まれましたが、「エライ」「ああ、エラッ!」と言っていました。
以前テレビで、サッカーの練習をしていた明石家さんまさんが、疲れてグラウンドに座り込んで、「ああ、エラーッ!」と言っていました。
京都の友人たちは「ああ、シンド!」と言います。京で先に「エライ」が栄え、そのあとに「シンドイ」。つまり「シンドイ」は、京で生まれた最新の表現だったのです。
九州にたったひとつの「コワイ」
もっと広く、全国の「疲れた」表現をひとつひとつ見ていきましょう。
東北や北関東、新潟など広く東日本で、「コワイ(コエー)」と言っています。すごい広さと密度です。ただし、「コワイ」は、西日本にも少し散らばっています。
たとえば、「関西の秘境」と呼ばれる十津川村にあるではありませんか。また、古い言葉を残しやすい島根県沖の隠岐の島にもあれば、愛媛県の西から飛び出た、佐多岬にもあります。さらに、鹿児島県の大隅半島にもわずか一か所ながらあるのです。
いつも私の健康チェックをしていただいている看護師・鹿屋千春(かのやちはる)さん(※1985年生まれ)は、その大島半島、鹿児島県鹿屋市のご出身です。彼女に聞いてみました。
「あなたのふるさと鹿屋市の近くにコワイがあるでしょう。ダレタもありますね。あなたも使っていませんか?」
「聞いたことないですね、どちらも。私たちの世代はもう、お年寄りの鹿児島弁は理解できないんですよ」
「方言消滅!30年前に調べといてよかった」
「私が使うのは『ツカレタ』です」
「やっぱり標準語か」
「でも、そう言えば、1960年生まれの美千代お母さんが」
「え?」
「近くの高山(こうやま)町出身なんですけど、疲れた時、コエーと言ってますね。コワイでなく、コエーです」
「それですよ!コエーは、京のことば、コワイから来ています。東北でもコエー、コワイと言ってます。周圏分布しているのです」
「へーえ、鹿児島が東北とおんなじ」
「コワイ」は東日本を覆うように分布しているのに、九州ではこのあたりだけ。京都から同じように東西に広まったはずなのに、結果として、東西で、極端なアンバランスの分布を見せています。
東西のアンバランス
しかし、こういうアンバランスは、じつは方言分布にはよくあることなのです。
たとえば「東京へ行く」と言うのを、東北はじめ東日本で広く、「東京さ行ぐ」などと「さ」を使いますが、やはり西にも「東京さん行く」などが、九州西部のおちこちに残っています。いずれもルーツは、古い京の話しことば「東京さまに行く」の名残りです。
「コワイ」の場合とは逆に、九州北部に集中している「キツイ」は、関東には少数しかありません。京から旅立った「キツイ」ですが、九州には密に分布し、東日本にはまばらに分布しているケースです。
ほかに、西日本だけに濃厚で、東日本には見られない言葉もあります。高知県、また九州南部に多い「ダレタ」です。京にあったと推定される「怠(だ)れた」がそれぞれ独自のルートで西日本の地にたどり着いたものと考えられます。しかし東日本では消滅しました。
周圏分布といっても、このように東西に粗密があったり、どちらか一方で消えてしまっていたり、そのアンバランスぶりは、多くのバリエーションを持っているのです。それぞれの語彙について、きっと探るに値する何らかの事情があったはずです。
西日本の言葉たち
九州北部にのみ分布する「キャーナエタ」。何これは?九州独自の発想の言葉なのか?さてどうでしょうか。
京には昔、「足が萎えた」(※『太平記』14世紀後半)や、「足手が萎ゆる」(※『日葡辞書』17世紀初頭)という言葉があったことが分かっています。疲労困憊、身動きならぬ状態を言っています。古い京で「手」「足」が萎えたのなら、「気が萎えた」も京にあって、それが九州にも伝わったと考えてもおかしくないでしょう。
鳥取・島根両県だけの「イタシー」、これだけは地元生まれの表現なのでしょうか?
イタシーの分布は、出雲を挟んで、東の伯耆の国と西の岩見の国の東西端っこ同士に分布しています。二か所のイタシーは、「シワイ」「エライ」などに分断されています。分断される以前は、伯耆と岩見はびっしりと「イタシー」に占拠されていた可能性があります。
「痛い」の古い形、「いたし(痛し)」(万葉集初出)という言葉があります。「肉体的に苦痛だ」という意味があります。「イタシー」と関りがありそうです。奈良や京の都の威光が、伯耆・岩見の地に「痛々(いたいた)しい」ならぬ、「痛(いた)しい」をもたらしたものと考えていいかと思うのです。
関東の「カッタルイ」のルーツ
三重県の「カイダルイ」と、関東に多い「カッタルイ」は、室町末から江戸初期までの都ことば「カイダルイ(腕弛)」が旅してきたものと思われます。
私の調査では、西日本からこの言葉の回答はありませんでしたが、古い方言集には「かいだるい」類が西日本でも拾われています。京都が発信したのは「カイダルイ」でした。
では「カッタルイ」はどこで生まれたか気になります。東海地方か、江戸市中か?徳川時代の全国方言辞書の記述を見ましょう。
上方から飛び火するように、徳川初期、早くに江戸にもたらされた「カイダルイ」が、この地で独自に進化を遂げて、「カッタルイ」となったものかと思われます。
小林一茶のふるさとの言葉
長野県(信州)を中心に、「テキナイ」「ゴシタイ」という表現が数多く見受けられます。「テキナイ」は、近松門左衛門の浄瑠璃『心中宵庚申(しんじゅうよいこうしん)』(※1722年)に「喉につまってぎっちぎっちてきない(苦しい)こんでごはりまする」とあるので、18世紀までには上方で生まれていたものでした。
それよりもさらに東へと遠く広がっている「ゴシタイ」は、これももしかすると上方語で、17世紀までには京を旅立っていたかと思われます。そして小林一茶は、1801年、たまたま長野県北部の現・信濃町柏原に帰郷し、父の病と死を見届けることになります。『父の終焉日記』には、父が病床で苦しむ様子をこう書いています。
両語、すでに使われていました。「テキナイ」「ゴシタイ」は、こうして現代まで2世紀以上にわたって、信州方言として命脈を保っているのです。
「我を折った」とは?
東北の真ん中あたりにある「ガオッタ」は、これも一見、親しみの持てない、奇妙な表現のように感じられます。しかし、これは室町末にはあった京ことば「我を折った」でしょう。急に分かりやすい表現になりました。
「意地を張らず、他人の意見に従う」が本来の意味ですが、それが「閉口する」「恐れ入る」などに意味を変質させて、やがて「疲れた」の意味に至ったのでしょう。
確かに、自分の主張を抑えて、他人の意に従うことは、とても「疲れる」ことでしかありませんものね。「疲れた」の意味がすでに京都で生まれていたのか、あるいは東北の現地で新たに生じた意味だったのか、さらに精査する必要があるでしょう。
今に残る地方語の多くも、中世から近世初期にかけて、京都から旅してきた言葉と考えるのが順当かと思えるのです。
東京の港区男子の証言
東京の「疲れた」について、伊藤花文(はなふみ)クンにLINEで聞いてみました。1989年生まれの花文クンは、私の大学時代にとても親しかった友人・たかぼんこと伊藤高夫氏の次男です。たかぼんは病を得て、三年前に亡くなりました。たいへんに無念なことでした。
半世紀近く前、「この子と付き合ってる」と紹介されて、学生のころの奥さんとも私は親しかったこともあり、ご自宅にお参りに通っているうちに、花文クンとも仲良く話をするようになりました。彼は、たかぼんの若い時のように、とてもいいやつなのでした。親父は学生として京都に来るまで、山形県の鶴岡市で育った東北人でしたが、卒業後は東京で就職、花文クンは赤坂で生まれ育った東京っ子です。
「花文クン、あなたは疲れたときには何と言うの?」
彼からのLINEの回答はこうでした。東京は「ツカレタ」であると。そして山形の祖母や叔母、父の思い出も添えて。次に記します。
花文クンは、山形県鶴岡市が「クタビレタ」であることを指摘してくれました。さっそく分布図の鶴岡のあたり、山形県北部を見ると、全体的に、なんと「クタビレタ」です。私は彼の父君との長い交際の中で、彼の「疲れた」表現が「クタビレタ」であると意識したことは一度もありませんでした。花文クンの鋭い言語感覚に驚き、そのことを伝えました。彼はこう返してくれました。
50年ほども前、20代半ばの私は、鶴岡のたかぼんの実家に招いてもらったことがあります。お父さんは地元の教育者で、お母さんは長く東京に住んで帰郷された画家で、お姉さんも含め、私はほぼ完璧な標準語で歓待していただきました。方言はまずなかったのです。
しかし、東京から遊びに来た幼い花文クンに対しては、その祖父母や叔母は、庄内方言をきっとふんだんに交えて接していらっしゃったのでしょう。彼は祖父母と叔母から大事にされて育ったのだろう。そう思って、私は少し嬉しい気分になりました。