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私が「不倫」という言葉が嫌いな理由(わけ)──婚外恋愛で不幸にならない方法

 【不倫】という言葉が持つ、うさん臭さ

 2010年代に入ってからだろうか。
 ここ5、6年ばかり、有名人の「不倫」に対して、マスメディアの報道でも一般市民のSNS上でも、寄ってたかって責め立てる風潮の過熱ぶり、どこか異常なものを感じている人も少なくないのではないだろうか?
 その風向きの分岐点は、2014年に社会現象となった連続ドラマ『昼顔』の大ヒットだったように見える。いわゆるダブル不倫のカップルがロマンチックに描かれたこのドラマが人気を博したことは、世の妻たちのひそかな「不倫願望」を浮き彫りにしたとも、いやその願望をドラマで満たすことで家庭の平和維持に役立ったとも評された。
 ともあれ、これ以降、あたかも反動のように「不倫=悪」と一様に責め立てずにはおかない空気が始まった感がある。
(実はマスメディアがもっと重要なニュースを隠すための目くらましに使われてるんじゃないの?と疑わしくもなるけれど、それはまた別の話としておいて。)

 私はこの「不倫」という言葉が、どうにもうさん臭くて嫌いである。

 なぜなら、そのやっている行為を単純に表す言葉は「婚外恋愛」だったり「婚外セックス」に当たるだろうに、その代わりに常用されている「不倫」という言葉の本来の意味は「倫理に反すること」──つまり「罪深い行為」という価値観を、先にかぶせた言葉の使い方なのだから。
 だから「私、不倫してるんだよね」と言うと、たとえその行為に対する意識が、カタカナ言葉の「フリン」と書くほどに軽い人であっても、「私は罪を犯してるんだよね」と言っていることになるわけだ。
 そういう言葉を、無自覚に使っちゃっていいの?と危ういものを感じるのである。

 じゃあそもそも何の倫理に反してるの?とあらためて問い直してみれば、それは「封建時代の倫理」なのである。つまり、人妻とその情夫が実行した婚外の情事が「犯罪」として罰せられていた時代の倫理だと言えるのだ。

「不義密通」「姦通罪」の時代の倫理観とは?


 その始まりは江戸時代の法律に「不義密通」として定められてから、明治以降は「姦通罪」と名前を変えて、終戦直後の1947年(昭和22年)に廃止されるまで続いたこのルール、実は夫側が実行した場合は、罪にはならなかった。それだけでなく、妻といっても内縁関係の場合には、罪を問えなかった。
 なぜ正式な妻の行為だけが犯罪扱いされたのかといえば、当時の社会システムの都合というほかない。
 その時代の日本では、原則として長男が家の跡取りとなり、息子がいなければ長女がムコを取って、父方の血筋を代々つないでいく「家父長制度」が守られていた。そのシステムを安定させるためには、知らぬ間に夫ではないヨソの男性の血筋が入ってくるような混乱は避けねばならなかったから、妻の性行動に制限をかけたというわけ。

 面白いのは、明治以降の姦通罪では、夫が妻の行為を容認していた場合は成立せず、あくまで夫が妻の不貞を許さず離婚する場合のみ罪に問えたという点。
 だからある意味、婚外セックスそのものを全て〝悪行〟と扱っていたわけではなく、要は「家の血筋を勝手に乱すこと」が罪とされていたのだと言える。

 自由意思と貞操義務のグレーゾーン 

 戦後にこの罪が廃止されたのは、妻側の行為だけが罰せられるのは「男女不平等」だという理由から。そこで「妻がしても、夫がしても罰する」という方向には進まずに、婚外セックスをするかしないかは、男女とも本人の自由意思に任されるような形になった。

 そんなわけだから、昭和の頃には自分の連れ合いに対して、「長い結婚生活のうちには、夫が(あるいは妻が)1回ぐらい浮気することもあるかもしれないけれど、バレないようにやってくれるなら構わない」という寛大な考え方をする人も少なくなかった。

 ただし、婚外セックスが法律上の罪ではなくなったとはいえ、結婚した者同士には「貞操義務」、つまり連れ合い以外の人とはセックスしないものという、法律でハッキリそうと決められてはいないけれど〝暗黙のお約束〟があるとも見なされている。そのため、不貞を働いた連れ合いを家庭裁判所に訴えれば、慰謝料をもらって離婚することができたりする。逆に、連れ合いの不貞を知った上で、大目に見て結婚生活を続けるのも、本人の自由なのだ。
 つまり、その行為の良し悪しを、当事者以外の人たちが決めることは、本当はできない。

 ところが最近の「不倫バッシング」は、法律上の罪ではなくなった婚外の情事を、みんなで責め立てる「社会的制裁」という形で罰しているかのように見える。
 しかも、封建時代と違うのは、妻と夫のどちら側がやった場合も同じように責められるという点。男女両方が痛みを引き受けるという意味では、戦前より公平になったとは言える。

 ただ、私がこの「不倫=悪」という条件反射的なバッシング現象を不自然だと感じるのは、結婚している方を無条件に「正しい側」とする扱い方がパターン化していることなのだ。
 その結婚は、もはや「正しいこと」ではないかもしれないというのに。

 「婚外=悪」「結婚=正」とは限らない

 例えば、夫のDVに苦しみながら、世間体や金銭的な理由で離婚を認めてもらえない女性が、より自分にふさわしい相手と出会って、愛を育むことを決めたなら、その関係をも「不倫」と呼ぶべきなのだろうか。
 確かに法律は守るべきものではあるけれど、もし法律上の夫婦であることをタテにして、相手のより良き人生選択をする自由を奪おうとするなら、それこそ法律ではなく「倫理上の罪」ではないだろうか?

 そもそも全ての結婚が、愛情や信頼関係のもとに成り立っているわけではない。
 自分の家庭のことを「生き地獄だ」「気が休まらない」などと毒づきながら、世間体や何らかの利害関係のために簡単に離婚できずにいる人たちの話を聞いていて感じるのは、むしろ
《偽りの結婚こそが不倫なこと》ではないかということ。
 それは、限られた人生の時間を無駄にすることでもある──自分のも、相手のも同じように。

 また、連れ合いのことをそこまで嫌ってはいない人でも、もし無条件に惹かれ合い、純粋な心で「もうこの人なしの人生は考えられない」と言える相手と出会ってしまったら、これまでの結婚生活を続けるのは苦痛や違和感が伴うことになるだろう。

 普段は忘れられがちだけれど、夫婦の関係というものは、生涯不変のものとは決まっていない。男女どちらからでも離婚を願い出る権利は、何も現代の法律だけでなく、実は封建時代の頃からも保障されていた。私たちには、限られた人生の時間をより良く生きるために、より自分にふさわしい人生の相方を選ぶ権利があるのだ。

 実際、20世紀から2000年代にかけて、大物有名人の〝不倫〟が報じられた時には、そこへ前パートナーとの離婚と、新しいパートナーとの再出発がついて来ることが多かった。そこにはむしろ「二股にケジメをつける」というような潔さも伴っていた。
 ザッと1960年代生まれの私の記憶に残っているだけでも、プロ野球監督、人気司会者、売れっ子作家、ミュージシャン、女優、お笑い芸人、国会議員などなど、実に様々な分野の顔ぶれが思い浮かぶ。彼らは一時期の逆風と痛みを伴いながらの「パートナーチェンジ」を果たした後に、やがては周囲からも祝福されるような幸福そうな夫婦生活を手に入れていた。
 かの世界を変えたポップス界のカリスマ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの伝説的カップルだって、その出発点は婚外恋愛だったのだ。

 不倫スキャンダルの転機は2011年から  


 それに比べて最近の不倫スキャンダルの多くが、これまでとクッキリ違っている点が一つある。

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