「100日間生きたワニ」感想メモ
映画の感想記事第二回目。今回は「100日間生きたワニ」である。とにかくコンテンツ周辺の治安が悪く、上映前から炎上騒動に見舞われていた本作だが、いざ蓋を開けてみると、これがなかなか面白かった。
映画はワニくんが死ぬまでの前半パートと死んでからの後半パートの二部構成になっている。前半パートは、正直言って退屈だった。演出は悪くないし、生々しい若者言葉で繰り広げられるワニくんとネズミくんの会話劇もそれなりに楽しい。とはいえ、結末はわかりきっているので総集編のような雰囲気はどうしてもあり、かつ劇中劇のパート(ゲーム大会と映画館のシーン)が妙に長くて退屈に感じてしまうのだ。
一方、ワニくんが死んでからの後半は非常に良かった。前提として、この作品の舞台が地方都市っぽいということがある。ワニくんやネズミくんたちも、どことなくマイルドヤンキーっぽい。地元密着で、古い人間関係のまま大人になり、それを大切に思っている。(この辺、ワニくんが実家に電話しているシーンと微妙に噛み合わない気もするが)。狭い空間で人間関係が完結してしまっているせいで、ワニくんの死後もネズミくんたちには逃げ場がない。お互いになんとなく会いづらい雰囲気なのだが、町が狭いので普通にそのへんで会ってしまうし、買い物に行くだけでワニくんとの思い出がそこかしこにチラつく。かといって、町を出る気にもならない。行き場のない悲しみとともに、セルフネグレクト寸前までいってしまうネズミくんの姿には実に説得力があった。そうして、カエルくんがやってくる。
カエルくん。この映画を見た人間の99.9999%が言及せずにはいられない強烈なキャラクターである。本作の成功(興収的には失敗っぽいが)を決定づけたのは、このオリジナルキャラクターの存在だと言って良いだろう。ワニくんの死後、ネズミくんたちのコミュニティに入り込もうとしてくるカエルくんは、とにかくウザい。悪いやつではないのだが、とにかく「嫌われ」感の生々しさが半端ないのだ。「ども〜〜〜どもどもども〜〜」という軽薄な挨拶だったり、人との距離感を測れず相手のパーソナルスペースにズケズケと踏み込んでしまったり、壊滅的に場の空気が読めなかったり……。とにかく強烈に「見苦しい」キャラクターである。それに対するネズミくんのじめっとした対応も生々しくて辛い。しかし、彼は単にウザいだけのキャラクターではない。カエルくんは、本作においてものすごく大事な役割を担っているのだ。
映画の終盤で明かされる一つの事実がある。実はカエルくんもバイクの事故で友人を失い、それを「忘れる」ためにこの町に引っ越してきたキャラクターなのだ。つまり、ワニくんを失ったネズミくんたちと全く同じ背景を持っているのである。にもかかわらず、どうしてここまで正反対の言動になるのか。それは、カエルくんがこの作品の中で唯一、「前に進む」ことを試みているキャラクターだからである。
ワニくんを失ったネズミくんたちは、完璧な形で喪に服している。ワニくんの喪失を噛み締め、悲しみに暮れ、失ったものを見つめながら生きている。それはそれで、とても正しく、仕方のないことだ。(特に僕が気に入っているのは、バイトの先輩がワニくんと見るはずだった映画を見に行き、隣の空席に目をやる場面である。彼女はその空席に今はいない恋人の姿を見るのだが、現実は非常であり、全く知らない別の客がその空席に座ってしまう。我々が親しい相手の喪失を思い知るのは、空っぽの席を見た時ではなく、そこに知らない誰かが座るのを見たときなのだ)。一方で、カエルくんは悲しみに暮れない。わかりやすく喪に服したりはしない。辛い思い出のある町を出て別の場所に行き、新しい生活を始めようとする。新しい友人を作り、新しい恋人を作り、死んだ友人のことを忘れようとする。そうすることで彼は悲しみを癒し、立ち直ろうとするのだが、その姿はとても滑稽で見苦しい。カエルくんの言動が痛々しいのは、彼が前に進もうとしている存在だからである。ネズミくんはこのことに気づくからこそ、彼の肩に手を置くのだ。ネズミくんがカエルくんをツーリングに誘うのは、彼に同情したからではない。いなくなったワニくんの代わりにしているわけでもない。同じ痛みを持つものとしてシンパシーを覚えたからでもない。自分にはできないこと、「前に進む」という道を(たとえそれが痛々しく見えるものであっても)選び、進もうとしているカエルくんに尊敬の念を抱いたからである。だからこそ、ネズミくんはもう一度歩き出し、「前に進む」ことを決意することができたのだ。
この作品を見終わった時、ふと思い出したのは「ノマドランド」のことだった。あるいは「トイストーリー4」かもしれない。どちらも、喪失を抱えた主人公が、その喪失を守るために放浪の旅を選ぶ話だ。ノマドランドの主人公は夫を亡くし、その喪失とともに生きるために町を捨て、放浪者として生きる道を選ぶ。「トイストーリー4」のウッディは、アンディの最高のパートナーという失われたアイデンティティを捨てられず、他の子供のパートナーになることができない。彼もまた、その喪失とともに生きるためにおもちゃであることを捨て、ノマドとして生きる道を選ぶ。喪失を喪失のまま抱えておきたい時、それを失いたくない時、我々は町を出て、放浪の中に生きるのだ。
けれど、「100日間生きたワニ」はそういう話ではない。ネズミくんたちはその喪失がどれだけ深く、悲しいものであっても、その穴を埋め、別れを告げて前に進む道を選ぶ。どちらが正しいという話ではない。それは個々人の生き方の話であって、外部が口を出すものではないからだ。もちろん、その喪失が決して埋め合わせのきくものでないことは、ネズミくんにもわかっている。(彼が映画のラストで一瞬、立ち止まるのはそのせいである)。それでも彼は歩き出す。その勇気こそ、彼がカエルくんからもらったものなのである。