「サマーフィルムにのって」感想メモ/映画、演劇、青春

 100点!

 良かった。今年の夏映画は豊作だけど、これとサイダーがツートップなのではないだろうか。話の傾向や雰囲気もよく似ており、悪役を作らない群像劇(風)の作りが絶妙に今っぽい。特に主人公のハダシ役の女優さんが素晴らしく、中高生特有の自分の体を持て余した感じの歩き方がばっちりキマっていたし、それだけラストの殺陣も光る。以下ネタバレありです。↓↓↓





 本作についてはほとんど前情報を入れずに見に行ったのだが、良い意味で期待を裏切られた。なんとなく映画を作る女子高生の話?くらいのイメージだったが、蓋を開けてみればタイムトラベルSFで(もっとも親友のビート板が「時をかける少女」を読んでいる冒頭でなんとなく察しちゃったけど)、90分という枠の中でテンポよく物語が進む良作だったと思う。特に主人公3人組(ハダシ、ビート板、ブルーハワイ)が狭くるしいワゴン車を秘密基地に改造しているくだりが良い。現実ではちょっと無理があるが、かと言って荒唐無稽でもない絶妙なラインだ。

「非リア」のハダシたちに対置される「リア充」側の映画部たちも良かった。特に花鈴はベスト。「君に届け」のくるみを想起させる、少女漫画的ぶりっこキャラを完璧に再現したルックスでありながら、全く嫌味を感じさせない。このへんの描き方も実に今風。けれど、だからこそ一部の人間にとっては救いがない話でもあり、それは後述するビート板の物語にも通じていくものがある。

 ということで、ここからが本題なのだが、本作の根底にあるテーマは「傍観者から主人公へ」である。未来人である凛太郎はもともと、ハダシのデビュー作である「武士の青春」(未来においては消失してしまっている)を見るためだけに過去へとやってきたのだが、自分が主役として映画に出ることになってしまう。タイムトラベラーという傍観者であろうとした彼が、否応なく舞台に上がっていくことで起きる変化を、映画の前半は描いている。

 そんな凛太郎の変化を受け、後半ではハダシの変化が描かれる。大の時代劇オタクであり、凛太郎に「役者として」一目惚れをしたはずの彼女は、次第に凛太郎本人に好意を抱くようになってしまう。しかし、当然だが彼は未来人なのでその想いが叶うことはない。果たして自分はどうすべきか?こうして、映画の結末(さよならをいうべきか否か)は、ハダシという少女の人生と直結する。ハダシの悩みを反映するように、映画の結末は何度も書き換えられ、そして上映当日、ついに決壊する。

 完成した映画の結末は、「さよならを言わない」というものであった。これは凛太郎と別れたくない(あるいは穏やかに別れたい)というハダシの願望を反映したものである。しかし、上映当日、ラストシーンがかかる瞬間に、ハダシは映画を止めてしまう。そして「さよならを言う」ラストシーンを今この瞬間に観客の前で演じることを決意する。「武士の青春」は映画であることを完全にやめ、演劇へと移行するのだが、ここで終わりではない。今度は、監督であるはずのハダシ自らが舞台に上がって、役を演じることになるのだ。彼女はもう、自分の気持ちを物語に投影することすらやめ、直接的に主人公になる。映画は演劇になり、演劇は現実になる。そして、その現実が「傑作になる」その瞬間をカメラが映し撮って、「サマーフィルムに乗って」という映画は終わる。

 個人的には、このラストはかなりお気に入りなのだが、本作が問いかけている問題(映画はなくなってしまうのか?)に照らし合わせると、実は際どい展開でもある。凛太郎たちが暮らしている未来の世界には、映画は存在しない。映像作品は五秒がスタンダードで、一分を超えればもう大長編だと言う。そして、これが重要なのだが、映画が存在しない理由というのは、「誰も映画を作らないから」ではなく「誰も映画なんて見ないから」である。未来の世界では、「他の誰かの物語を見たがる奴なんて誰もいない」のだ。

 ハダシと凛太郎は「映画の火を絶やさない」ことを誓い合うが、それはあくまで創作者としての決意であり、問題の本質はそこにはない。「誰も映画を作らない」ではなく「誰も映画を見ない」ことが問題なのだから。事実、映画のラストで、二人は自分たちが作った映画を捨てて、それを現実で塗り替えてしまう。「傍観者から主人公へ」というテーマは青春映画としては極めて適切なのだが、映画文化にとっては意外と都合が悪い。誰もが自分の物語の主人公となり、かけがえのない「今ここ」を生きようとする世界で(それこそが良いとされる世界で)、一体誰が二時間もある他人の物語を見てくれるというのか?おそらく、未来の世界で映画が無くなったのも、そういう理由に違いないのだ。

 これは先日「サイダーのように言葉が湧き上がる」を見た時にも、ちょっと思ったことではあった。主人公は文字の芸術である俳句を捨て去り、舞台に立ち上がって「声」で直接気持ちを伝えることを選ぶ。ここでも重視されているのは、「声」という身体性であり、そして「直接」気持ちを伝えることである。もっとも、この作品の場合は俳句そのものに大してウェイトが置かれていない(というと失礼だが)ことや、主人公がそのうち俳句をやめるであろう雰囲気がふんだんにあり、それがかえって青春映画としての抒情性を高めていた。が、「サマーフィルム」の場合は、「映画をなくならせてたまるか!」という熱いパッションが根底にあるため、どうにも収まりが悪いのである。しかし、この作品の中でただ一人、映画的な立ち位置を捨てなかった人物がおり、彼女のおかげで「サマーフィルムにのって」は映画として成立している。その人物こそ、ハダシの親友であるビート板なのだ。

 はっきり言って、僕がこの映画で一番好きなのはビート板だ。ハダシも花鈴も好きだが、ビート板がぶっちぎりでいい。これは映画の中で明言されているわけではないが、おそらくビート板が想いを寄せていた相手というのは、ハダシだろう。なぜ彼女は、大して興味がない時代劇をいつも一緒に見てくれるのか?なぜ彼女は花鈴たちの「キラキラ青春映画」を毛嫌いし、そしてハダシもそれを嫌うように煽るのか?なぜ彼女は「イケメンが苦手」だとわざわざ口にするのか?そもそも映画の冒頭で窓越しにハダシと会話する彼女の姿は、「大好きしかいえねえじゃん」のオープニングの構図を反復していないか?しかし、ビート板のこの感情は誰にも気づかれていない。本人ですら、終盤まではそこまではっきりと自覚していなかっただろう。「そっか。これ失恋か」。その言葉を彼女から引き出したブルーハワイですら、失恋相手を凛太郎だと思っていたくらいである。(そしてビート板はブルーハワイの言葉に対して肯定も否定もしていない)。

 「勝負に出ない主人公なんて見たくない」という花鈴の言葉に、ビート板は最後まで抗う。彼女は勝負に出ない。主人公にはならない。絶対に気持ちを表に出さず、傍観者に徹し続ける。「他の誰かの物語」を見守り、見届けようとする。それが彼女の望む生き方なのだ。ブルーハワイが、ハダシが、自分の嫌う「キラキラ青春映画」の世界に入っていくのを見ながらも、彼女だけはそこに行かない。人気のない、がらんとした天文部の展示のように、彼女は物語の背景に徹し続ける。そして、カメラを回す。映画が演劇になり、演劇が現実になってもなお、彼女だけは舞台に上がらず、ひたすらにカメラを回し続け、撮り続ける。「サマーフィルム」という作品を最後まで映画として成立させているのは、彼女のこの視点である。もしも、未来の世界で映画が生き残るとするならば、それはビート板のおかげじゃないかと、そんな風に思うのだ。

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