「ブックスマート ~卒業前夜のパーティデビュー~」をめぐるいくつかの政治的瑕疵と、それにも関わらず最高の映画である理由
結論から書くと、「ブックスマート」は最高の映画である。観終わった直後の脱力するような恍惚感は、少なくとも生涯ベスト10には入るだろうと思わせてくれるもので、本当に最高の気持ちで劇場を出た。
風向きが変わったのは、売店でパンフレットを買ってからだ。そこに載っていた解説(三つあるうちの一つ)を読んだとき、そのダサさに軽くショックを受けて、高揚した気分が一気に台無しになってしまった。次いで家に帰り、ネットで感想を調べてみたが、調べれば調べるほど、どんどん気持ちが沈んでいった。どいつもこいつも、トイレの話しかしていない。
認めよう。確かに本作にはジェンダーニュートラルなトイレが出てくる。そのことは(喜ばしいことに)事実だ。登場人物はみな善人で、一見いじわるにみえるキャラクターも、ファットフォビアやホモフォビアとは無縁である。教室の人種は多種多様で、主人公のうち一人はカムアウト済みのレズビアンだが、そのことも極めて自然な当たり前のこととして描かれており、いやらしさのようなものがない。それはとても素敵なことだし、パターナリズムを逆手に取る本作のそうした態度は、その魅力の大きな理由にもなっている。なので、とりあえずの第一声がトイレの話になってしまうのはわかる。わかるが、これはトイレの映画ではなく友情の映画だ。それもとびきり最高な。
さらに言えば、本作を完璧に「リベラル」で「アップデート」された「先進的」な青春コメディとして持ち上げることは、同時に本作が抱えているいくつかの政治的瑕疵に目をつむってしまうことを意味するし、それはフェアな態度とはいえない、とも思う。
おそらくもっともわかりやすい批判は、「結局これは、エスタブリッシュメントたちの物語に過ぎないのではないか?」というものだろう。本作に登場する人物たちは極めて現代的に洗練されているが、そのことは彼らの大半がそれなりに裕福でリベラルな家庭に生まれていること、舞台がLAの高偏差値高校であること、そして物語の発端である「卒業生の大半が名門大学や一流企業に進んでいくこと」と無関係ではない。「ブックスマート」の世界には多様な人種、セクシャリティ、年齢の人物たちが登場するが、そこに貧乏人の姿はない。その優しい「先進的な」世界は、貧困層の排除(的包含)によって成立しているのだ。
もちろん、一応のエクスキューズはある。モリ―たちはいわゆる「白人富裕層」ではないし、舞台も私立ではなく公立高校だろう。家が豊かとはいえ、それはアッパーミドル程度の豊かさだとは思われる。ただし、このことが果たして今の時代にどれだけエクスキューズとして通用するかは、いささか疑わしい。(この手の青春映画が往々にしてミドルクラスの物語であったことを踏まえれば尚更だ)。
この欺瞞は、モリ―の親友であるエイミーが人権主義的なアクティビスト(それもかなりカリカチュアされた)であることによって、よりはっきりとしたものになる。彼女は大学入学までの間にアフリカへ行き、タンポン作りのボランティアに従事するような人間だが、一方で自分たちの学校の校長(イェール大生を何人も輩出しているような、ハイレベルな高校の)が十分な給与をもらっておらず、タクシー運転手のバイトまでしていることを知っても、何の関心も示さない。
あるいはここに、ピザ配達人の姿を加えてもいい。この作品には二人の配達人が登場するが、そこに向けられるまなざしはどちらも冷淡だ。一人は金持ち息子の家にピザを届けた配達人で、彼は勘違いからジジに刺されてしまうのだが、そのことは笑い話として片付けられる。もう一人はモリ―たちが車に乗り込んだピザ配達人(典型的なプアホワイトの見た目をした男性)で、彼はとつぜん車に乗り込んできた二人の女子高生に極めて親切に防犯上のアドバイスを与え、さらにはパーティ会場の住所まで教えてくれるのだが、実は指名手配犯だったということが終盤で明かされ、司法取引の材料としてあっさりと売り飛ばされてしまうことになる。親切にしてもらったはずのモリ―たちには、そこに何のためらいもない。
または二人の担任である黒人の女性教師。彼女は二人に、「自分も二人と同じように、ひたすら勉強しかしない高校生活を送ってきた」と語るのだが、その結果として彼女が就けた職業が(おそらくは薄給の)高校教師であることは、二人のおそらくは輝かしい未來と比較してしまうと、なかなか厳しく感じるものがある。数か月前に「ルース・エドガー」を見た身としては尚更だ。人種の話について言うなら、主人公が二人とも白人であることは、特に終盤の警察絡みの展開を考えると、多少のマイナス要素だと言える。(ちなみにこの女性教師は物語の最後で卒業前の教え子に手を出したことが示唆されるが、このことの是非には当然疑問の余地がある)。
上記のような点が、意図的に配置された批判的要素なのか、それとも天然のナイーブさなのかを見分けることは難しい。登場人物たちの幼さを際立たせるために、ある種の皮肉として仕込んでいるとも考えられる。(トランプ政権下のアメリカを舞台にした作品で、人権主義的なフェミニストである高校生が、自らのエスタブリッシュメント性に無自覚であることなんてありえるだろうか?)あるいはもっと単純に、コメディとしてのジャンル性を確保するために、あえてそうした要素を切り捨てたのかもしれない。
いずれにせよ言えるのは、本作を「リベラル」で「正しい」、「先進的な」作品として持ち上げるのであれば、同時に本作が(意識的にせよ無意識的にせよ)切り捨てているものたちへの視線を確保しておかなければならないだろう、ということだろう。それに少なくとも、「ブックスマート」という作品には、ジェンダーニュートラルなトイレ以外にも語るべき魅力が山ほどあるのだ。
●夜の街の物語
「ブックスマート」は夜の物語である。あらすじから受ける印象は卒業間際のティーンエイジャーたちを描いた学園もの、といった感じだが、実際の作品を見てみると想像以上にノワール的な「一夜の冒険」の世界がそこにある。本作が焦点を当てるのは、現代的な高校生活ではなく、そこからほんの少しはずれた、夜の世界での冒険譚なのだ。
夜の街は、昼間とは違った顔を見せる。それは住人たちもまた同様で、モリ―とエイミーの二人は、どこかわからないパーティ会場の場所を探しながら、夜の街の奇妙な住人たちの世界を次々と渡り歩いていくことになる。無人のクルーズパーティ、奇妙な殺人舞踏会、町外れのピザストア……。本作がユニークなのは、その「奇妙な住人たち」がみんな、彼女たちのクラスメイトや教師たちであることだ。
「昼の顔」の下に隠された「夜の顔」を暴き出すというノワール的な筋書きと、二人の「頭でっかち」が友人たちの多面性に触れ、その人間性をより深く理解していくプロセスが、ここでリンクする。頭が空っぽな無能だと思っていたニックが、実は友人想いの良いやつだったり、金持ちのバカ息子だと思っていたジャレッドが秘めた情熱を知ったり、あるいは自分たちの真面目な先生の破天荒な過去に触れたり……。そしてその過程で、二人は自分自身の多面性を見つめなおすことにもなる。
冒頭で書いたように、「ブックスマート」の世界はその設定のレベルでも多様性がきちんと確保されている。アジア系、ヒスパニック、男と女とヘテロとホモ……。けれど、そうした表象レベルの多様性に満足して、これこそが正しさなのだと決めてしまうのは、それこそ「頭でっかち」の結論である。本当の「個性」はそうした表象の下にこそある。
モリ―とエイミーは、一夜の冒険を通じてそのことを学んでいく。ずらりと並んだ本の装丁を眺めて中身を決めつけるのではなく、一冊ずつ手に取り、ほんの少しでもよいからページをめくってみること。おそらく、そこには矛盾するように見える記述もあるだろう。「強い」フェミニストであるモリ―が同時に、ロマンチック・ラブを夢見る夢想家でもあるように。そうした矛盾、食い違いを知っていくプロセスこそが、結局はその人の「人となり」を知るということなのだ。
●卒業が別れを意味しなくなった時代に
本作の主人公である、モリ―とエミリーは最高に仲の良い親友同士だ。ジョン・グリーンの青春小説を思わせるアップテンポでユーモラスな二人の会話を聞いているだけで、ついにんまりとせずにはいられなくなる。ところが、この最高にクールな二人の会話を聞いている人間は、実は二人のほかには誰もいない。モリ―とエミリーがふざけ合うのは、二人の間だけでのことで、他の連中がいる前では「守り」に入ってしまうからだ。(本筋とはぜんぜん関係ないが、エミリーの両親が娘とモリ―のことを「デキている」と勘違いしている描写がたまらない。敬虔なクリスチャンである二人が娘の同性愛を「理解」しているのは、それが親友との友情の延長線上にあるものと考えているからなのだ)。
彼女たちのような「ペア」は、実は作中に多く登場する。「1%組」であるジャレッドとジジ、演劇マニアのアランとジョージなどだ。モリ―たちから見れば「その他大勢」に見えるクラスメイトたちも、やっぱり彼女たちと同じように、ある程度排他的な友情を築き、そのうえに学園生活を成り立たせている。言い古された比喩を使うなら、教室という海にはいくつもの小島が浮かんでいるのだ。(それをカースト的なグループではなく、あくまでバディとして描いているのは、本作の優れた点の一つである)。
それはある種の最適化された人間関係で、振り返ってみれば自由でも過ごしている間は息苦しいルーティンワークにすぎない学園生活のなかで、ぼくたちは多かれ少なかれ、このように最適化された人間関係を築いていく。距離が近い人間とは毎日話すし、遠い人間と話さなくなる。そうした繰り返しの果てに生まれていくのが、本作の冒頭で提示されたパターナリズムだ。モリ―のようなリベラルなフェミニストでさえ、男好きの同級生を「トリプルA」と呼んでしまうその原因は、結局のところ学園生活(あるいは社会生活)の構造そのものに埋め込まれている。
(もちろん、クラスメイトたちに対するこの手の決めつけが、モリ―とエイミーの傲慢さから来ているという側面はある。しかし、本作が優れているのは、これらの「決めつけ」をすべての生徒に共通したお互い様のものとして描いている点だ。それはパーティにやって来た二人に対するタナーやテオの「まさか来てくれるなんて思わなかった」という言葉であり、ニックの「もっと早く仲良くなっていればよかった」という言葉にも表れている)。
卒業という出来事は、こうした最適化された人間関係を揺さぶる効果を持っている。日常のルーティンが消滅したにも関わらず、日常の場だけがわずかな期間生き残る。それは映画のエンドロールや、CDアルバムのボーナストラックのようなものだ。そうした限られた時間のなかで、ある種のランダム性が教室のなかに生まれていく。
それはたぶん、多くの人に経験のあることだろう。今まであまり話さなかった人間と少しだけ仲良くなったり、新しい一面を発見したり。そういう時、ぼくたちの胸をよぎるのは、「ああ、こんなことならもっと早くに仲良くなっておけば良かった」という想いだ。でも、あまり自分を責めることはよそう。結局のところ、空が赤く変わるのは、夕暮れの限られた時間だけであり、モリ―とエイミーもたぶん、そのことを知っている。
かつて、卒業は別れを意味していた。友達との永遠の別れ、あるいはその反動としての「思い出作り」。けれど、本作は卒業前夜を舞台にしながら、そうした別れのテーマから距離を取る。SNSの普及によって、卒業後もゆるやかなつながりが保たれるようになった時代。そうした時代にあって、本作は卒業という出来事を「変化」と「再発見」をテーマに描いてみせる。わたしたちは、わたしたちの時間を終えるときになってはじめて、わたしたちがどのようにあったのかを知るのである。
・友情について。あるいは手渡された電話番号
連絡先を交換する、ということは今ではクラシックな仕草になりつつある。それがSNSの友達登録ではなく、紙にしたためた電話番号を手渡す場合は尚更だ。いわゆるミレニアル世代を描いた現代的な青春映画である本作が、このクラシックな仕草をたびたび使っていることは注目に値する。
たとえば、映画の冒頭。モリ―たちはクロスワード仲間でもあるファイン先生から電話番号をこっそりと手渡される。(このことは中盤以降の展開に大きくかかわる)。あるいはラスト、失敗した初夜のあとでエイミーはホープから二つ折りになった紙をもらう。
SNSによって万人が万人とゆるい繋がりを保てるようになった世界で、あえて電話番号を手渡しすること。それはオープンな社会のなかで、誰かのためにパーソナルな回路を開くという行為である。本作はそのアナログな行為に、特別な意味を認めているように見える。
事実、作中のなかでモリ―たちは冒険を前に進めるため、何度も電話を使う。目標としているニックたちのパーティはSNS上で配信されていて、彼女たちも目にすることができるのだが、二人はそこにつながるパーソナルな回路を持っていないのだ。仕方なく、彼女たちは手持ちの番号を使い(そこには冒頭で手に入れたファイン先生の番号も入っている)、そのロープをたぐっていくことで、目的地であるパーティ会場へたどり着こうとする。モリ―とエイミーは、二人だけの完結した世界を抜け出し、オープンな世界へと冒険に出るのだが、そこでも頼れるのは結局、個々人とのパーソナルな繋がりなのである。
ソーシャルかパーソナルか。新しい開かれた世界か、それとも古い友人との閉ざされた友情か? これはバディムービーの多くが好んで取り上げるテーマの一つだ。(最近では、「シュガーラッシュ・オンライン」がまさにこの対立を採用し、そして惨憺たる出来栄えになった)。
本作でも、この構造はある程度対比的に描かれている。それはSNSに代表される開かれた(そしてゆるくつながった)社会と、そこから隠れるように築かれるパーソナルな友情との対比である。しかし、両者は対立するものではなく、むしろ補完し合う存在として描かれている。本作は二人きりの完結した友情に満足していた少女たちが、外の世界に飛び出してく物語ではあるが、最後まで焦点が当てられているのは、やはり二人の友情なのだ。長い一夜の末に彼女たちが知るのは、これまでただ一人の相手としか築いてこなかった(モリーにとってはエイミーとの、エイミーにとってはモリ―との)、深い友情を、他の誰かとも築けるかもしれないという可能性である。
物語はだから、二人がそれぞれ別の相手と、パーソナルな関係性を築き始めるところで終わる。モリ―は同じ大学に進む「トリプルA」の車に乗り(ジャレッドや校長先生の車に乗ったときとは違って、助手席に乗り込むのがミソだ)、それまで毛嫌いしていた相手のことを名前で呼ぶ。エイミーはホープの連絡先を受け取り、淡い夏休みの約束を取り付ける。
それは二人の少女にとって、互いに相手からの自立を意味するのだが、しかし決して別れに結びつくわけではない。飛行場での感傷的な空気をあっさりと足蹴にする快活なラストが、そのことを意味している。彼女たちはこれまでも本当の友達であったように、これからも本当の友達であり続けるのだ。
何ひとつ終わるものなどなく、彼女たちには明日があり、そして人生という名の冒険は続く。