真っ白に合理化する不可逆的世界 with after コロナ
1980年くらいから本格的にインターネットが普及して、僕らは様々な恩恵を受けてきた。100年前の全くインターネットがない世界から急速発展をとげた近代科学は我々に合理化する社会構造をもたらした。
僕は今大学生なんだけど、履修登録、授業、読書、レポートなど大学で行うほとんど全てのものがインターネットで完結している。大学生活に限らず、仕事、メディア、国防、研究など殆どの業界がデジタル化しており、インターネットが関与してない業界を挙げる方が難しい社会になった。世の中がさらにデジタルに依存する世界になることは間違いない。
ここまでインターネットが普及すると、日常生活からインターネットを取り除くのは不可能である。このデジタライゼーションが不可逆的な変化であることも言うまでもない。
インターネットによる生産活動の合理化の究極はどこに帰着するのか。果たして完全な合理化は我々に幸せをもたらすのだろうか。
僕はこのデジタル社会の究極化は「真っ白でにごったものを排斥する社会」だと考えている。
メディアによる露出が増えたせいで、SNS上で間違った、犯罪を犯した、非道徳的な人間が炎上するということが増えてきていると感じる。一昔前までは芸能人は不倫したり、人の悪口を言っても全く芸能活動に影響はなかった。(その時代生きてないから間違ってたらすまん)テレビやアニメとかでお色気シーンがなくなったのもこの漂白作用の理由が大きい。
今までは法に触れていても許されたものが許されない社会になってきている。また、法に触れていなくても非倫理的な言動も排斥されるようになってきた。
一番大きい影響は大衆と違った意見を持った時点ですでに炎上のリスクに晒されているところ。例えば、LGBTやSDGsなどに反対する少数派は、レピュテーションリスクがある著名人は特に、自分の意見を発信しづらいと思う。多様な意見を表明できない社会は果たして正しい社会だと言えようか。
これは僕の考えなんだけど、どんな犯罪を犯した人にも償って社会復帰させる余地はあると思っている。デジタル改革は、一度の失敗で二度と社会復帰できない社会を形成しつつある。
一度道を踏み外してしまった人間が、SNS上での炎上が理由で完全に社会復帰できない社会は果たして正しい社会なのか。
また、人間が面白さ(ユーモアとインタレスト両方)を感じるときは、非常識的で刺激的な言動が必要なのだがこれが制限される社会になっている。実際の表現の自由と、合理的な社会が生み出した表現の自由は僕たちが思っているより乖離しているのではないだろうか。
仕方ないけど、お笑い好きな僕にはこの変化はかなり痛い。
また、その完全合理化されつつある社会とコロナウイルスの関係について簡潔に。
結論から言えばコロナウイルスによってこの合理化がさらに加速するだろうと考えられる。
理由は簡単で、コロナウイルスによって、汚れたものを無くそうという思想がここ5年くらいで浸透してきたからだ。
視覚化されない清潔感が求めれれているのは間違いない。
この社会的な漂白作用は段々と大きな流れになるだろう。このような合理化していく社会でどのように生きるのが賢明か皆んなも考えて欲しい。