規格化の進む社会
最近、こんなツイートが流れてきた。
何があったのか、凄く落ち込んだ様子の男性がDVDショップを訪れた。彼は店員に「何か明るくなれる映画を教えてください」と言う。すると、その店員はとても残酷で暗い映画を進める。店員曰く「人この心は単純なのものではないでしょ、それならいっそ落ちるとこまで落ちた方がスッキリしますよ」と述べた。後日、彼は再びDVDショップに訪れ「もっと暗い映画ないですか」と言う物語である。
↑こちらのツイート
近年はサブスクによって多くのDVD店が廃業に追い込まれ、こういった機会は少なくなった。
しかし、代用となるサブスクにこの店員のような役割が果たせるのだろうか。システムは人間が作ったものである。人が悲しむならハッピーな映画を、怖い映画と検索するとシステム上でホラーと分類された映画を機械的に勧める。
ではサブスクが恒常化された社会において、この店員の役割は誰が担うのだろうか。この店員の通り人間の心は複雑であり、悲しい時にハッピーな映画を観れば必ず気持ちが晴れるわけではない。
サブスクリプションというモデルは人同士のコミュニケーションから生まれる未知との遭遇可能性を0にしているのではないか。
近年は文庫本のサブスクリプションが登場している。しかし、本屋に行くことで全く興味の湧かなかったつまらなさそうな本を手に取って読み「案外面白いじゃん」という感想を抱く機会さえ奪われているのではないか。プログラミング化された機械は悲しんでいる人にはハッピーな映画を、米澤穂信が好きな人には米澤穂信の本を勧める。
サブスクは我々の生活を間違いなく豊かにしている。しかし、我々の未知との遭遇可能性を排除する。機械に人の心がわかる日が来るのだろうか。悲しい時に暗い映画を、時には全く関係のないような、しかしその個人の感性のツボを押すような映画を勧める人間的なAIが生まれて欲しいと願う。
未知との遭遇は人の可能性を、それも我々が思っている以上に大きく進めるのだ。