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びわ湖と福岡国際と生涯スポーツ時代

「びわ湖毎日マラソン」が大阪マラソンに統合、「福岡国際マラソン」が終了。1946年と47年に初回が開催され、以降エリートレースとして日本のマラソン界をけん引してきた2大会が、ひとつの節目を迎えました。

「近年は大型の市民マラソンが主流であり、エリートレースは運営的に厳しい」という見解がほとんどですが、少し見方を変えて、「日本スポーツ文化」と比較していきたいと思います。

※ということで、運営的な視点は今回触れていません。
※あくまで個人的な所感です。

日本スポーツについて

まず前談として「日本スポーツはオリンピックが発端となっており、長く教育・体育・競技的な思考が強かったが、平成の時代から生涯スポーツという考え方が強くなってきた」ということを述べておきます。これについては以前まとめたので、ご覧いただければと思います。

これを踏まえた上で、びわ湖毎日マラソンと福岡国際マラソン、そして市民マラソン界を簡単に理解したいと思います。

「する」

この2大会には参加資格(持ちタイム)があり、ごく一部のエリートランナーしか走ることができません。つまり、限りなく「競技」に近いものとなります。一方で、大型市民マラソンは制限時間が非常に長く、初心者でも挑戦しやすい設定になっています。そのため、老若男女多くの人が参加するブームが生まれ、その結果、日々走る人も増えていきました。

市民マラソン界と時代の流れを合わせてみると、「競技スポーツ・体育」から「生涯スポーツ」に重きが移り変わっていく時代に、「エリートレース」が「大型市民マラソン」に移行されていったのは自然な流れと言えそうです。

「支える」

次に、「マラソン大会は参加するだけが価値なのか?」これについて、考えたいと思います。

経済効果は参加者数に紐づいたり大型市民マラソンに劣ると言われていますので割愛しますが、両者で変わらないものとして「支え手」という要素があります。マラソン大会は、多くのボランティアを生み出します。このボランティアに価値があれば、エリートレースを開催し続ける意義になると思いませんか?

つまり、参加しているのはランナーだけではなくボランティアもだ、ということです。ランナーが主役であることは間違いありませんが、ボランティアが「参加してよかった、楽しかった、またやりたい!」と思えるマラソン大会は、支え手としての生涯スポーツを生み出していることになります。

2大会の運営に携わっていないので詳細は全くわかりませんが、そもそもとして「ボランティア」「支えるスポーツ」という文化が日本にはまだまだ少ないように思います。

「見る」

そして最後に「見る」楽しみについて。僕はマラソンや駅伝が大好きなので、エリートレースをテレビの前にかじりついてみていますが、メディアやエンタメが増えた時代にこの価値も低下しているのではないかと思っています。

サッカーファンは試合がある週にスタジアムに行き、それがライフワークとなっていますよね。観戦という生涯スポーツを創出しています。

まとめ

かなり簡単に書いてしまいましたが、エリートレースは生涯スポーツの時代において「する」「支える」「見る」の価値を(比較的)出せていない事業になってしまった、ということが言えるのではないかなと思いました。

一方でエリートレースでも「見る」の価値が特出しているのは箱根駅伝であり、MGCも大きな反響を呼びました。本来はサッカーや野球などのように、これが年間続けば良いと思いますが、なかなか難しいと思います(陸上・マラソン界的にも、運営的にも)。

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