カプリチョーソ『パ・ド・ドゥ』
こんにちは、睫です。
このたび、演出を務めた
しおり演劇企画公演『パ・ド・ドゥ』が、無事に終演を迎えました。
演出をやらせて頂くのは『何処ぞの二人』についで二度目で、今回も、とてもよい経験をさせて頂きました。
ご来場頂いた皆様、関心を持ってくださった皆様
本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
LINEを見返してみたら、2/26に四折さんから、演出をやってくれませんかとのお誘いのメッセージが来ていました。
その時は、私が所属している劇団・演衆やむなしの今年の予定を決めている最中で、公演日が重なる可能性などを考えるとすぐにはお返事できません、というお返事をすぐにお返しして、しおりさんからは、一旦お断りのご連絡を頂きました。
そうしたら、その後なんやかんやで、しおりさんから、3月中であればスケジュール待ちますという連絡があって、結局、引き受けさせて頂きました。
今回のことで思ったのですが、公演日が1ヶ月程度にズレていて、稽古日に関して、私の都合(やむなしの稽古日)を優先してくれる現場であれば、自分は公演をふたつ抱えることはできなくはない人間だったみたいです。
睫の人生の中でも、類を見ないほどに忙しい7、8月ではありましたが、このくらい忙しいほうが、余計なことを考えなくていいのかもしれません。
台本は3月の辺りで貰いました。
飯島早苗作『パ・ド・ドゥ』は、元々は夫婦だった男女が接見室にて、弁護士と殺人事件の容疑者として再会するところから始まる、二人きりの会話劇です。
男は刑事事件など滅多に担当しない三流弁護士であって、女は、そんな男との会話を楽しむためか煙に巻くためか、ウソばかりを話している。
事件の真実は何で、二人が離婚した真実は何で、男と女、それぞれの真実が一体なんなのか。
物語の肝はそこにあるが、決してそこには触れられない。
真実が分からずとも、会話と状況は進んでゆく。男と女は、それぞれ何を選ぶのか。
『パ・ド・ドゥ』は、そんな戯曲でした。
戯曲の全てが本当なのかもしれないし、
もしかすると、ウソかもしれない。
一番に取り掛かったのは、『私たちの本当』を作ることでした。もちろん最初に決めたことから、稽古が進むにつれて変化した部分はありますが、本当に起きたことは何で、男と女の発する言葉の、何がウソで、何が本当なのか。
3人で戯曲とにらめっこしながら、ひとまず最初はそれを決めました。初めての共同作業です。
会場は、旧森田銀行本店。
これは、今回の主催(主宰でもある)のしおりさんからの希望で、最初から会場は決まっていました。建設に、曾お祖父さんが携わられたそうです。
名前からわかる通り、旧森田銀行は劇場ではありません。由緒正しい有形文化財で観光施設ですが、閉館する17時以降は、催事の会場として利用することが可能です。
荘厳な雰囲気満点の会場ではありますが、利用する上での制約と、独特な声の響き(お風呂場に近い)には、ほとほと悩まされました。
ただ、そんなマイナス部分を差し引いても、あの会場でこの公演を打てたことは、とても良かったと思っています。
(これが全てではないですが)天井とお手洗いがすごく綺麗なんですよね。それがすごく好きでした。
そして、私を演出として迎え入れてくれた、しおりさんとロビンさん。
私は前回演出を担当した『何処ぞの二人』でしおりさんと初めてコミュニケーションを取らせて頂き、ロビンさんとは、挨拶程度はしたことがあったかもしれませんが、日常会話をすることから初めてでした。
もう、本当に、大先輩であるにも関わらず、私の言ういちいちに丁寧に対応してくださり、感謝の気持ちでいっぱいです。
私は(あまり信じてもらえないのですが)かなり極端な人見知りで、自分から積極的に交流を広めていこうとか、そういう意識が希薄なので、こうしてひとつのカンパニーとして人と知り合って、そのご縁が続いていくことは、とても有難いと感じています。
私は演出のノウハウがある人間ではないので、正解も不正解も分からないのですが、最初のうち、まずは『その役者さんについて、私の思う魅力的な部分はどこか』を探そうと思いました。
そのせいでほとんどの時間を世間話(と一応の戯曲考察)に費やした4月を経て、6月頃から、机を挟んで前後に2人に座ってもらう形での立ち稽古を始めました。
そのうちに舞台上にでかいクマが現れ、いつの間にか机もクマも取り払われ、最終的に、今の形に行き着きました。
それがたぶん、7月の上旬くらいのお話です。
パ・ド・ドゥは、女性の持つ愚かしさ、みたいなところを愛している人が書いた戯曲だと思っています。
(主語が大きいし、かなりステレオタイプに『女性』を捉えた場合の話ですが)(そしてもちろん、全てにおいてこれは私の所感です)感情的なところ、男を操れると思っているところ、自分を可哀想だと捉えがちなところ、言わなくても伝わると思っているところ、その果ての衝動的な激情、そうして、とても愛が深いところ。
それら全てを『かわいい』と感じてしまう人が、丁寧に、接見室という名の、小さいオルゴールに閉じ込めた戯曲。私には、そんな印象がありました。
対して男性は、そんなめくるめく女性に翻弄されながらも、きちんと自分の足で立っている。
ひどいにわか雨に打たれたとき、最初は濡れることを躊躇うし、嫌悪感すら抱きますが、ある一定のところで、受け入れる瞬間がくる。それは、諦めに似た感情かもしれません。
今回の男(名塚憲二)は、ずっと傘を持っていたはずの人間です。むしろ、誰にも傘を渡さなかった、入れてあげることさえ、考えもしなかった人間かもしれません。しかし、今回は女(日向草子)に、持っていた傘も、会社に置いていた傘も、鞄の中に入っている折りたたみ傘も、何から何まで全部、すべからくこうもり傘にされてしまう。
正味、私は、草子が一切の思惑なく、嘘もなく口から出した言葉は、これだけだったと思っています。
今回の公演について、反省点はいくつかありますが、私の範囲に限って言えば、『もっと疑わなかったこと』と『もっと求めなかったこと』は、今現在、わりと明確に反省しています(令和5年にして、睫はきちんと反省ができる人間になりました)。
このふたつはおそらくはほとんど同じで、たぶん、『自分を甘やかした』んですよね私。
それだけは、本当に。ほんと〜〜に、良くなかった。良くなかったっていうか、絶対に、もっとできた。もっとできたと思うんです、私。私たち。
もっと疑えば、森の木々に隠れた道が見つかったかもしれない。
もっと求めれば、あと何キロかは歩けたかもしれない。
ひとつ例えをあげるならば、接見室の仕切りです。
仕切りのない接見室。実際、日本にあるそういうお部屋とは異なる設定は、元々、戯曲に書かれた指定でした。それはいいんです。そういうテイとして書かれた戯曲です。
ただ、なぜ自分が『そこに違和感を抱くお客様がいるかもしれない』ということを疑えなかったのか。そこを補填するためのホスピタリティを用意できなかったのか、そこはすごく悔しいと思っています。悔しい〜〜〜〜〜!!!
今回の公演では、本当に、贅沢で貴重な経験をさせて頂きました。
反省点はあれど、8/19、8/20の公演と、4月からの稽古、その時々の自分ができるベストは尽くしてこれたかと思います。
根気よく誘ってくれた四折さん、とてもよい稽古場の雰囲気を作ってくれたロビンさん、一緒に芝居に向き合ってくれたゆかりちゃん。
当日スタッフとしてお手伝い頂いた方々にもお礼を申し上げると共に、
何よりも、ご来場下さった皆様。
このたびは本当にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
次は、演衆やむなし第10回公演
『修学旅行』にて
皆様とお会いできれば幸いです。
詳細は演衆やむなしのホームページをご覧ください。
以上、睫唯幸でした。
今後とも、何卒よろしくお願いいたします。