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成田尚哉プロデューサーが亡くなった。

金子修介監督「1999年の夏休み」や廣木隆一監督「さよなら歌舞伎町」、安藤尋監督「海を感じる時」など、数々の名作をプロデュースしてきた成田尚哉プロデューサーが亡くなった。

具合が悪いとは冗談のように聞かされていたが、それが本当のことになった。

とはいえ、最初に若杉正明プロデューサーから電話がかかって来たときには、冗談かとも思った。しかしそのような冗談を言う若杉さんだろうかと考え、さすがにこれは嘘ではないなと確信し、電話の声を聞きながら、ああ、ついに来たんだと思った。

若杉さんから葬儀の詳細を聞き、少数にならば伝えて良いと言うことで、まず金子修介監督に連絡。続いて那須真知子さん、平田樹彦プロデューサーに連絡。成田さん最後のプロデュース作品、僕が初めてプロデューサーの1人として作ることになった斉藤久志監督作品「空の瞳とカタツムリ」の主人公、縄田かのん、中神円にも連絡。荒井晴彦さんは知っているはずだから、「空の瞳とカタツムリ」のシナリオライターであり、荒井晴彦さんの娘さんである美早さんは知っているだろうと思うが、とりあえずLINEだけは打っておく。

それから若杉さんから追加の連絡があり、葬儀までの数日、成田さんのご遺体が安置されている場所を聞かされる。

翌日「いまから会いに行かないか」と若杉さんより連絡あり、すぐに行きますと答える。電話している間に、用意された喪服を着て家を出た。

思えば、いま兄のように慕っている若杉さんを紹介してくれたのは成田さんだった。「紹介してくれた」といまなら感謝できるが、その当時は、なぜ僕に詐欺師なんかを紹介するのかと成田さんにブチ切れた。しかし、付き合うほどに若杉さんが好きになり、信頼をし、密になる。代わりに成田さんとの交渉は薄くなった。

ある日、成田さんが「若杉の方を選ぶのか」と苛立って言う。驚いて「成田さんが紹介してくれたんじゃないのか」というと「それとこれは別だ」と吐き捨てるように成田さんに言われた。

そもそも成田さんとの出会いは、那須博之監督だ。僕は愛する人の犬で、愛する那須博之監督のために、楳図かずおさん原作の映画化権を手に入れた。それを映画化するために那須さんが紹介してくれたのが成田さんだった。

那須さんが亡くなり、映画は頓挫しかかったが、愛の結晶が消えることが我慢ならず成田さんに、企画を潰したくない、金子さんなら那須さんの遺志を継いでくれるんじゃないかと言ったが「金子はもう大作しかやらないから話を持っていっても無駄だ」と否定される。しかし、とにかく会ってみなければわからない。そう思って金子さんに会った。歌舞伎町の居酒屋で、那須さんの思い出話をして金子さんと泣いた。「俺、ロマンポルノ撮ってたんだよ、低予算が得意なのみんな忘れてるのかな」と金子さん。頓挫しかかった映画が息を吹き返した。

成田さんとの思い出は沢山ありすぎる。

なぜか僕のことを好いてくれていた。僕も成田さんが好きだった。成田さんの所にいる女性ライターたちがなんとなく成田さんのことを好きな感じ、尊敬している感じを嫉妬した。あの話すリズム、間合い、笑い方が、不細工なくせにかっこいいので嫉妬した。メジャーにならずに、変態で居続ける感じ、だるい文化人な感じが素敵すぎた。僕のことを「まっつ」と呼んでくれた。笑いながら「まっつは面白いなあ」と言ってくれた。ニヤニヤしながら「まっつは変態だなあ」と言ってくれた。

若杉さん、奥さんの清美さん、僕で、成田さんのいる遺体安置所についた。奥様がおられて、僕が言葉に詰まっていると「お姿、変わらないわね」と言われた。一度だけ奥様と成田さんと僕で当時成田さんのご自宅のあった吉祥寺で夕飯を食べたことがあった。

もうひとりの僕らの知らない女性が加わり、奥様の案内で成田さんのご遺体が安置されている場所に行く。葬儀場の人がご遺体の安置されている冷蔵庫から、ご遺体を手際よく取り出す。白い布で包まれた人体ふうのそれ。僕が知っている成田さんよりずいぶん小さかった。顔にかけられている白い布を奥様が外す。

現れたのは紛うかた無き成田さん。痩せていて、そして黄疸がある。小さい声で奥様が「ひげは残しておくように思ったんだけど、言い忘れて、そられてしまったの」と言った。

僕の心はなんだか哀しみの手前にいる。受け入れられていない。横を見る。若杉さんも、清美さんも、知らない女性も、奥様も、みんな、成田さんの死から距離を置いたところにいるような気がした。僕は、悲しくない。なのに悲痛な顔して何かを言いたくなかった。「触って良いですか?」と勇気をだして奥様に言った。「どうぞ」と言われて、しゃがむと、成田さんに触れた。手と、胸と、そして顔、さすってみた。成田さん、呼んでみた。成田さん、呼んでみた。反応は。あるわけない。僕のことをまっつと呼んでくれた人はもう動かない。動くわけがないんだ。思うと心が震えた。震えが止まらなくなってきた。自分ではもうどうしようもなかった。涙があふれてきた。成田さんが死んだ。僕は納得した。

帰って、成田さんとのメールのやりとりを過去に遡って読んでみた。最初の頃はメールと言うよりも、mixiでのやりとりだった。2012年、2011年、・・・2007年、2006年、2005年、2004年。出会ったのは2004年だった。

成田さんが、mixiをはじめた僕の紹介文を一番最初に書いてくれた。「私にとっては彗星のように出現した物作りの天才。でも才に溺れることが心配。と言っても若いのに謙虚で「オヤジ殺し」な魅力的な男の子。」成田さんの書いてくれたこの言葉がずっと僕の自慢だった。支えだった。それを思い出した。

楳図祭り20060521


2006年5月21日新宿ロフトプラスワンで行われていた楳図祭りに参加したときの写真。左の紅白のシマシマが楳図さんで隣が成田尚哉プロデューサー、その隣が僕、そして一番右が金子修介監督。

成田さんの紹介文


ミクシーの僕との所に成田さんが書いてくれた古い紹介文

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