新宿武蔵野館での「ミセス・ノイズィ」上映前の影ナレーションでお話しした内容
(コロナのせいで、対面して舞台挨拶とかができなくなったので、控え室(影)からナレーションで観客の皆様に挨拶をさせていただくのを影ナレーションと言います)
おはようございます。
2021年1月17日、朝10時30分、天野千尋監督作品「ミセスノイズィ」を見に来ていただき、まことにありがとうございます。
松枝佳紀と申します。
僕は、この映画の、企画プロデューサーであり、脚本にも少しだけタズサわっております。
みなさまは、もう映画を見ようと思って、席にオられるのですから、僕としてはそれで十分で、僕の話なんか聞いて、知らないで良いことも知っちゃって映画が台無しになるのが、怖い。
ので、あたりさわりのないことを話して、終わりにしたい。気もするんですが、せっかくこのような場所をいただいたので、パンフレットにも書いていない話、そして今から見る映画にも悪影響を与えない話、作り手ならではの話、これから見る映画が100倍面白くなる話を、できればしたいと思うのですが、
えっと、先日、「鬼滅の刃」を観に行ったんですね。
もちろん、映画が当たっていると聞いてますから、どんなもんだい
という気持ちで観に行ったんですが、
友人から、あれは原作の漫画かアニメを見てないとわからないから「見てから」行けとアドバイスをもらったんですね。
そんなもの、
アニメのシリーズを「見てない」と分らないなんて
映画としておかしい
と言う気持ちがありますから、
そのまま何も見ずに観に行ったわけです。
映画が始まると、シナリオの鉄則で「それをやっちゃいけない」と言われるのが説明台詞なんですが、状況や感情をセリフで説明しちゃうのを説明台詞と言うんですが、その説明台詞のオンパレードで、これどうなの?と思ったのですが、結局最後は、もう大感動の大号泣でした。
なんなら、僕の映画鑑賞史上「最大に」泣いたかも知れない。
ぐらいの勢いで感動したんですね。
で、思ったのは、
ああ、こんな素晴らしい作品が当たっている日本は悪くない、
間違ってない、ということ
と、
こういう作品を作りたくて僕は作り手になったんだ
と言うことでした。
僕は1969年生まれですが
一番小さいときに影響を受けた作品は「宇宙戦艦ヤマト」というテレビアニメでした。異星人たちに滅ぼされかかった地球を復活させるために、もう戻ることできないかも知れないことを知りつつ、宇宙戦艦に志願して乗り込む人々の話です。
小学生の僕は
この宇宙戦艦ヤマトという作品から、「生きること」とか、「死ぬこと」とか、「友情とはなにか」とか、「恋することの大切さ」とか、「自己犠牲とは何か」とか、「大事なものを命をかけても守ること」とかを教わりました。
いま僕は51歳なんですが、
日本では
僕と同じようにヤマトにハマった世代が50代になり、
しだいに日本社会のいろいろなところで
リーダーになりつつあります。
期待としては、
その宇宙戦艦ヤマトに「善なる影響」を受けた、
僕らの世代の人たちは
他の世代よりも
少しでもマシな世界を作ろうと努力してくれるんじゃないか
作ってくれると良いなと思っていて、
同じように、
いま「鬼滅の刃」をみて胸を熱くしている子供たちが
30年後、40年後に、大人になって、
いつか必ずこの世界をもうちょっとだけマシな方に変えようとしてくれる人たちになるじゃないかと
鬼滅の刃は
そんなことが信じられる胸熱な映画でした。
子供の時に感動したあの作品を作った人たちみたいに
僕も作品を作りたい。
それが自分の創作の原点だったことを思い出させてくれたわけです。
このコロナ禍の中で
映画や演劇は、不要不急の娯楽、付け足しのように言われることもありますが、僕は決してそうではないと思っています。
映画を見て、何かをもらうと言うことは絶対あって
ときに、それは人生を左右するし
その左右された人生が集まったときには
もしかすると世界や未来を動かすことができるかも知れない
そんな凄い力を持った映画や演劇が、なくても困らない、
付け足しのような、不要不急のものであるわけが無くて、
なんなら、人間が人間として生きていくためには、
「絶対無くてはならないものこそが映画」だと言って良いんじゃないか
と僕は思っています。
映画を止めたら人類は終わります。ぐらい。
でも
日本の映画には
ちゃんと考えておかなければならない問題
いまある日本の問題やなにかを
直視することを避けている映画が多いような気がしていて
それで、2016年ですが、
天野千尋監督に初めてお会いしたときに
映画を作りたいのは作りたいのですが
ワークショップの卒業制作レベルで
ワークショップに参加した若者を使った、
作る必要もない青春映画を作るのはやめたいと伝えて
そして、なにか天野さんが気になっている社会問題は無いですか
と聞いたら
奈良の騒音おばさんの事件が気になりますと言っていて
あの問題をまったく僕は気にしていなかったので
それは面白いと思って、その話に乗りました。
僕は駆け出しのなんちゃってプロデューサーですが
企画しプロデュースした最初の映画が
2018年、斉藤久志監督の「空の瞳とカタツムリ」で。
次が、いまから上映の天野千尋監督の「ミセス・ノイズィ」で、
その次が、たぶん今年どこかのタイミングで上映するだろう
園子温監督の「エッシャー通りの赤いポスト」で
いずれも、それぞれの監督の問題意識に沿って
いまの世界をちょっとでも良い方向に動かそうと試みた映画だと僕は思っています。
このどうしようもない世界は問題だらけですから
沢山の映画監督と関わり、その監督たちそれぞれの問題意識を尊重して、監督の撮りたい映画を作ること。
それによっていろいろな方向から世界を少しでも良い方向に動かそうとすること
それをこれからもやっていきたいと思っています。
ちなみに、世界を良い方に少しでも動かしたくて映画を作ったと言っているのは僕個人の話で、監督たちとそう話して、そう合意して映画を作っているわけじゃありません。でも、これは映画に限らずマンガや小説やすべての人間の創作に言えることだと思うのですが、たとえ人間の醜さを徹底的に描いたものだとしても、それは手法であって、結局、どんな創作も、世界を良い方向に少しでも進めるための祈りなんだろうと僕は思っています。
ちょっとしゃべりすぎてしまったようです。
いまから上映される「ミセス・ノイズィ」という小さな祈りが、皆様の心にかすかでも届けば、作り手のひとりとして、これに勝る喜びはありません。
長々と失礼しました。
松枝佳紀でした。
(おわり)