ぐるんぱは、幸せになったのか
最近とある場所で記事を書く機会があったので、ちょっと一冊の絵本を取り上げてみる。
『ぐるんぱのようちえん』
作 西内ミナミ、絵 堀内誠一
発行年 1966年12月、発行所 福音館書店
https://www.ehonnavi.net/sp/sp_ehon00.asp?no=103&spf=1
この作品『ぐるんぱのようちえん』はある意味幸せな最後を遂げる。何をやっても失敗ばかりだったぞうのぐるんぱが、子どもたちに囲まれて幼稚園を開くのだ。自分が今まで作ったけど失敗だと思ってた靴やピアノ等も大いに活躍し、楽しい時間を演出してくれる。
ああ、自分のやったことは無駄じゃなかったんだ!努力してやり続けたらきっと報われる時がくるんだ。そう、ぐるんぱのように。めでたしめでたし。
だけどだけど、私はこの絵本の持つとんでも無く過酷な要素はずーっと描かれたまま、解決してないように思える。
最初の1ページ、泥だらけで横たわりながら、泣きべそを書いているぐるんぱ。集落の中にいて、いつも泣いてばかりいる情けない1匹として紹介される。
でも、ぐるんぱがそのようになった経緯は決して描かれてない。小汚いぐるんぱと比較してそれなりに清潔にしていそうな仲間たちを見ても、汚れることを気にしない種族というわけではないようだ。そもそも仲間はいるようだが、親は、兄弟姉妹はいないのか?またはいなくなったのか?それはなぜか?
絵本の中から明確に読み取れはしないが、彼が自らの身体の清潔も顧みず、ただただ泣いて暮らす理由はおそらくそれ以前にあったはずである。
さらに仲間たちは、そんな彼を見て街に行くよう促す。選別とばかりに水浴びをさせて身体を綺麗にしてくれるが、彼の悲しみや境遇に寄り添うそぶりをせず、表向きは明るく送り出していく。
ていのいい厄介者の追放なんじゃないか…ひねくれた私は正直そう感じてしまった。当のぐるんぱがすっかり張り切って、意気揚々と出て行くのが救いではあるのだけど。
人間の街(出てくるのはヒトのような種族だが、ぞうが二足歩行で話しかけても違和感のない世界だから私たちの知るヒトとは異なるのかも)に行ってからは、とにかくいろんな仕事に着手してみる。種族の問題もあるからか、靴屋や車屋などなぜかみんな製造業。
ほぼ初心者でそこまで長いレクチャーや研修期間も経てないにかかわらず、次々に完成品を作り上げるぐるんぱは天才かもしれない。が、世の中はそんなに甘くない。どれもこれもサイズが大きく「本来の使用目的としてはてんで役に立たない」とされてクビになるありさま。やってもたっても報われない。
しょんぼりしょんぼり、そんな日々。
最終的に大勢の子どもたちに翻弄される母親と出会ったことで、ぐるんぱは子どもたちの為の居場所、幼稚園を作ることになる。幸せな結末…でも最後の一文を読むと、私はちょっとどきっとしてしまう。(著作権的な問題もあるのでここに書くのは控えるが、是非手にとって読んで欲しい)
半分水が入ったコップを見て「まだ半分もある」と思うか「もう半分しかない」と思うかの違いのようではあるが、あの言葉でいつか訪れる幸せの終わりを考えてしまう。
今はまだ大丈夫だけど、いつかは…。そんな当たり前のことをついつい頭に思い浮かべてしまう。ぐるんぱと子どもたちの幸せそうな最後のシーンを見ながら。
町の人たちや集落の仲間は、また手を差し伸べてくれるのだろうか。認めてくれるのだろうか。なんてことももやもやっと考えつつ。
いろんな悲しみを背負ったぞうの子、ぐるんぱ。でもいつだって前向きで幸せに向かい、自分がやれることを無邪気にやろうとするぐるんぱ。そんな彼に対して、あの最後の言葉は何を意味するのか。
私のような変な見方をする人間のことを考えていたのかはわからないけど、まさに人生には一筋縄ではいかないと思わせてくれる面白さがある。多くの人が思う結末とそうでない結末、どちらも正解だし、どちらも間違っていると声を大にして言い切れない。
『あしたのジョー』のラストのように、見た人によって結論が違う。
「このあとどうしたんだろう…やっぱり大変な目にあったのかな」
「ぐるんぱなら、何が起きても乗り越えられたはずだ」
想像の余地があることは、自由に感じれると言うこと。そんな余白の存在が、この作品を傑作にしているのだと私は思っている。