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京都と水/その3
深泥池 —都と山地の境にある最終氷期の湿原—
京都盆地の北の端。五山送り火の「妙法」が灯される松ヶ崎の西山と、上賀茂神社のほうから伸びる小山がぶつかり合う低地に、深泥池はあります。「みぞろがいけ」とも、「みどろがいけ」とも呼ばれます。
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(下図:Google Earth)
みどろ・みぞろ、という響きに、北山の入口で山影の地という、暗く、湿っぽいイメージ。京都の大学生などには、怪談話のある地名として、よく知られているかもしれません。
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深泥池にまつわる怪。あるいは畏れには、歴史があります。平安時代の歌人・和泉式部は、「名を聞けば影だにみえじみどろ池に すむ水鳥のあるぞあやしき」とこの池の雰囲気を詠みました。
深泥池の池端の穴を通じて、北山の山中から都に出入りする鬼がおり、煎った豆でその目を打って退散させたのが節分の豆まきの由来、という話もあるそうです(『京師巡覧集』ほか)。沼にひそむ、大蛇や竜神の伝説も。
その一方で深泥池は、「御菩薩池」とも表されました。池から菩薩が顕れたという伝説のほか、『源平盛衰記』では、平安末期に西光という僧が災いをおさめるため「七道の辻」に六体の地蔵を安置したと伝えます。地蔵菩薩が安置された「七道の辻」とは、四宮河原・木幡ノ里・造道・西七条・蓮台野・西坂本と、「ミゾロ池」でした。
地蔵は、境の守護神や道祖神でもあります。荒魂〔あらみたま〕、鬼気〔もののけ〕、疫神などを暮らしの内側へ入れないよう、内と外の境界的な場所に祀られました。七道の辻とは、洛中への交通の要地。そこに六地蔵が安置されたのは、やっかいなものが都に入らないよう祈念したものと考えられています。
つまりこの頃、深泥池のあたりは、京都の境界領域だと捉えられていたわけですね。
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深泥池のある谷は、近世には「若狭口」と呼ばれます(『京都御役所向大概覚書』)。なお、「七道の辻」に挙げられていた四宮河原は粟田口、木幡ノ里は伏見口、造道は鳥羽口、西七条は丹波口、蓮台野は長坂口、西坂本は八瀬口にあたり、これらは、京都と各地をつなぐ「京の七口」のヴァリエーションをなしています。
深泥池の横を通って北に向かうのは、鞍馬寺や貴船社に続く、鞍馬街道。鞍馬・貴船の手前にある市原から、静原川沿いに北東の谷へ入れば、道は日本海の若狭まで通じる花折街道に合流します。
鞍馬や貴船への参詣人や、京と若狭を往来する人々も通過した、深泥池の池端。
人の往来は絶えずある道の傍らで、かつ、何か人知を超えた神秘を感じる池。そんなことが、深泥池に色々な物語をまとわせてきたのでしょう。
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出典:近代京都オーバーレイマップ
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(下図:Google Earth)
都の領域の境目だった深泥池界隈には、洛中との意外に深い関わりもあります。
今も地蔵堂がある*1 深泥池の集落(旧深泥ヶ池村。現深泥池町の一部)では、祇園祭の粽〔ちまき〕をつくっています。祇園祭のときに各山鉾町で配られる、厄除け粽。
あの粽は、近世には市原や鞍馬で、のちにはより北の花脊でつくられるようになったチマキザサを、若狭街道と鞍馬街道を通じて運び、深泥池村の農家で、藁を芯にイグサで巻き上げ粽に仕立て、鞍馬口から洛中に運び入れていました。深泥池町では今も、女性たちの副業として粽づくりが行われています。粽はほかに、銀閣寺近くの北白川でもつくられており、深泥池村製の粽は断面が平たく、白川村製のそれは丸っこいという違いがあったそうです。
*1 平安末期に西光法師が安置したとされる地蔵菩薩像は、廃仏毀釈の折に鞍馬口通寺町の上善寺に移されたといい、今も同寺に祀られて「鞍馬口地蔵」と呼ばれています。深泥池の地蔵同には明治20年代に安置された二代目の地蔵菩薩がおられます。
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さて、深泥池は、このような人々の歴史をしかし大きくこえた、超長期的な時間と生態系に思いを至らせてくれる場所でもあります。
深泥池の底には、厚く泥の層が堆積しています。そのため、水深は深いところでも1.8mほど。ただ泥の下のほうの層は、泥は泥でも、泥炭というものです。泥炭とは、植物やコケ類などの遺体が微生物に分解されないまま折り重なり、炭化したものです。
有機物の分解が起こりづらい条件としては、冷涼な気候や低い水温、低栄養な水中環境など、微生物が活発に活動しにくいということがあります。
オランダやスコットランドの北部、アイルランドやアイスランドなどの国土には、泥炭層の湿地が広がっています。余談ですが、スコッチウィスキーがもつ独特の香りは、泥炭(=ピート)を切って乾かしたブロックを燃料に、ウィスキーを仕込むための大麦麦芽(=モルト)をいぶすことでつくものです。植物が主体のピートは甘めの香り、海藻が多い海辺のピートを使うとヨード香が強く出ます。
第二次世界大戦前のヨーロッパで、泥炭は暖炉の熱源としても使われていました。ちなみにアイスランドでは、泥炭のブロックを家の壁や屋根にも使っていました。
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深泥池の最も底にあるのは、約2万年前の泥炭層です。2万年前と言えば、地球が最終氷期だった頃。
その時代の海水面は今より120mほども低く、日本列島は大陸と地続きでした。ちなみにフランスのラスコーの壁画が描かれたのは、その少し前、約1万7千年前のことです。
深泥池の、約2万年前の泥炭層からは、ミツガシワという植物の花粉が見つかっています。その花粉は、その後上に積み重なっていった泥炭層にも連続して見られるとのこと。そしてミツガシワはいまも、春になると深泥池で白い小さな花を咲かせています。深泥池には、最終氷期の頃の植物環境が、現在まで残っているのです。
それにしても… 夏はとても暑い京都なのに、氷期の植生が残っている、というのは、不思議ですね。
深泥池の水面の3分の1は、植物遺体が絡まり合ってできた浮島に覆われています。のちにはこれが泥炭になっていくわけですが、ミツガシワも芽吹くこの浮島の上には、オオミズゴケが盛り上がり、高層湿原*2 という環境をつくりだしているそうです。
*2 高層湿原… 湿原のなかでドーム状に高くなっている部分。有機物を含む地下水の水位に対して地表面が高いため、植物・生物環境は主に雨水で維持され、常に貧栄養な状態にあります。
浮島も、寒冷な高原の湿原にみられるもので、日本では霧ヶ峰や尾瀬などが代表的な地点です。京都のような低地で、しかも暑いところにあるのは非常に珍しいわけです。
その理由は、泥炭が形成される背景のひとつと共通して、水域が貧栄養な環境にあるようです。
深泥池には、流れ込む河川がありません。川が運ぶ有機物は池には入らず、水の供給は、周辺の小山から流下する雨水か、池に直接降り注ぐ雨によるため、栄養が少ない環境なのだそうです。
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Johann Georg Sturm, "Deutschlands Flora in Abbildungen" 出典:wikimedia commons
夏に咲き、秋には実を付けるホロムイソウも、最終氷期“京都”の亜寒帯環境を今に伝える植物です。しかも、深泥池のホロムイソウは、世界的にも分布の南限だという貴重なものです。
ほかにも、モウセンゴケ、ハリミズゴケ、ミズグモ、ハナダカマガリモンハナアブ、60種以上のトンボなど、様々な稀少動植物が生息しているそうです。
深泥池の水生植物群落は、戦前の昭和2(1927)年に国の天然記念物に指定され、1988年にはその対象が動物にも広げられました。1997年には池の土地を京都市が買い上げて、本格的な保全に取り組んでいます。
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そうそう、深泥池の底の2万年前の泥炭層の間には、鹿児島湾をつくった巨大な火山、姶良〔あいら〕から飛んできた火山灰層も挟まれているそうです。それは、透明で板状の火山ガラスを多く含み、白くさらさらとした火山灰からなり、九州ではシラス台地を形成した火山噴出物とのこと。
ところで、岡崎地区にある京都市動物園で発掘された厚さ10数センチの姶良火山灰層の上には、最終氷期にそこを歩いていた、大型偶蹄類の足跡が残されていました。動物園や平安神宮、京セラ美術館などがある今の岡崎界隈は、その頃、白樺林に囲まれた、ミズゴケが生える沼や湿地だったと考えられています。
深泥池は、最終氷期京都の湿原の記憶を伝える水景なのです。
豊かで稀少な生態系を内包した水域、深泥池。池の端に佇むだけで、大型草食動物が闊歩していた2万年前の京都にも思いを馳せることができるこの水辺に、わたしは、何かが一区切りついた時に来たくなります。
特に冬の深泥池は、すがすがしいものです。この水の中で、ミツガシワやホロムイソウが、2万年にわたって春や夏の訪れを待っているのですね。
それでは、また。
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(参考文献)
地学団体研究会京都支部『新京都五億年の旅』,法律文化社,1990
「深泥ヶ池村」,『日本歴史地名体系』,平凡社
井上満郎「深泥池の歴史」,『会報』No.89,財団法人京都市文化観光資源保護財団,2005
石田志郎監修,京都地学教育研究会編著『写真で見る 京都自然紀行』,ナカニシヤ出版,2010
中村治「祇園祭のチマキ」,『左京ボイス』, 京都市左京区役所総務課,2010
京都府レッドデータブック2015,京都府 https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/bio/db/flo0145.html
奈良文化財研究所 文化遺産部 景観研究室編『「京都の文化的景観」調査報告書』,京都市 文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課,2020
早川厚一ほか「『源平盛衰記』全釈(一八-巻六-2)」『名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇』 59 (2),名古屋学院大学総合研究所,2023