京都と水/その2
吉田山 ー孤立丘の山水池ー
東山から切り離されたような格好の丘、吉田山。
活断層である花折断層の長年の活動によって隆起し、形成された丘だそうです。古い名前は神楽岡。
吉田山の西側斜面に鎮座する吉田神社は、奈良の春日大社の四神を藤原氏が平安京へ勧請した社で、現在地には15世紀後期に遷座したそうです。
2月3日の節分祭が有名で、その時にはたくさんの参拝者で賑わいます。
初詣のお客さんが一段落した頃のこの日。境内の階段を上がっていくと、本宮の反対側に目当ての池がありました。龍沢池〔たつざわのいけ〕です。
この池も奈良にちなんでつくられ、興福寺のすぐ南にある猿沢池を模しているのだそうです。
大正期までは雨乞いの神事も行われていたという池です。
池の東側に水口がありました。
境内を歩いておられた神職の方にうかがったところ、水源は山水だそうです。水の少ないこの時期は山水を循環させて利用されているそうです。
池の少し上には石で組まれた幅の広い溝があり、今はそこにも水はありませんでしたが、雨量の多い時期にはかなりの水量が流下しそうでした。
吉田神社は、吉田神道の本拠地です。
15世紀後期、当社の吉田兼倶が境内に大元〔だいげん〕宮をつくって、全ての神の根元にある唯一神にして宇宙の中心神である「虚無太元尊神」〔そらなきおおもとみことかみ〕を設定し、唯一〔ゆいいつ〕神道を唱えました。それが吉田神道です。吉田兼倶は、伊勢神宮を超える最高位の神社をつくるという壮大な考えをもち、吉田神道を生み出しました。それは宗教勢力を統率する必要があった武家政権にも都合がよく、江戸末期まで成功していたといいます。
全国の神様が祀られ、かつては神道の中心とされていたという大元宮は、龍沢池の横の坂道を南に上がって行くとありました。
世俗的には、ここに参詣すれば全国の神々に詣でたのと同じ効験がある、とされたそうです。それはたくさんの人が参詣に集まりそうですね。
大元宮の社殿はとても不思議な形をしています。平面が八角形なのです。
八角形の本殿の背後には、六角形の後殿が接続されています。
後殿には天皇の守護神である八座の神が祀られ、本殿・後殿の両側には、全国の式内社3000余の神々が祀られています。
大元宮の特異な建築は、吉田兼倶が構想した神道の世界を空間化したものだといえるでしょう。
本宮では春日社の四神を祀っているので、春日造りという形式の四つの本殿が並んでいます。
境内にはほかにも、菓子のはじまりをつくった神を祀っている菓祖神社や、「四条流庖丁道」の始祖で、料理の神として信仰される藤原山蔭〔ふじわらのやまかげ〕を祀った山陰神社など、多彩な末社が、丘の地形をヴァリエーション豊かに使いながら立地しています。
藤原山蔭は吉田神社を9世紀半ばに創建したその人で、公家のなかでも最高位の公卿になった人物です。
ちなみに、箸、包丁、まな板(俎)を使って、直接手を触れずに魚などをさばく包丁道は、贄(生け贄などの「贄」のことです)に関わり、神事に関係が深いものです(中村生雄『祭祀と供犠 ー日本人の自然観・動物観ー』)。
独立丘である吉田山の吉田神社は、コンパクトで地形の変化に富む境内です。平安時代の吉田神社は吉田山の西側の平地にあったようですが、中世に丘の上へ吉田社を移した吉田兼倶は、この小さな丘を、日本の神社全体の、そして神道の宇宙の中心にしよう、という、すごい野望をもっていました。
水スポットを探しに丘を登って出合った歴史は深かったです。
それでは、また。
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