8月6日
ヒロシマ、原爆の日。
三年前に広島に戻ってきて
街中が、8:15に一斉に静かになる。
という経験をまたすることになる。
私が平和教育を初めて受けたのは
年長の頃だったかな。
遠足で平和記念資料館に行った。
6歳の子どもが受け止められる内容では
到底ない。
2週間、焼けただれた人形が夢に出てきて
夜泣きを繰り返した。
それからも、毎年8月6日は登校日。
学校に行って、平和学習。
戦争の映画を観る。
戦争の内容を先生から一方的に教わる。
この時にどう思って、どう感じたか。
『戦争は怖い!酷い!
二度と起こしてはならない。』
きっと、模範解答であったと思う。
三年前まで、千葉県に住んでいた。
広島を離れると8月6日は1/365日になる。
都内の学校に通っていた。
日本の中心にいるはずなのに、
8月6日は日本のことではないようだ。
8月6日について、
東京の友達や教授と話をした。
学んだ。
その後の感想の違いを大きく感じた。
『怖い!酷い!』
ではなく、
『これから戦争が起こらないために自分たちが何ができる?』
『子どもたちとたくさん対話していく』
『一人一人を大切にしていく』
『体だけじゃなく、心も大切にしていく』
『選挙に行く』
など、具体的な考えが飛び交ったことだ。
大人になったからではない。
悲惨さを小さな頃から直視させられてきた人とは違う視点から見られるのだ。
Facebookでは、8月6日になると
悲惨さや戦争を起こさせないことを伝えたい!という記事がたくさんあがる。
悲惨さを伝えていくだけでなく
こういった一人一人の考えを持つこと。
ディスカッションできる場を設けること。
家族でたくさんの思いをぶつけ合い
親子でも、兄弟でも違う思いを持つ人間で
認め合える関係を持てるよう、努力すること。
戦争の話も
政治の話も
ポケモンの話も
どんな話だって同じだと思う。
違いを認め合える。
正義は自分だけではない。
みんなそれぞれ正義を持っているんだ。
だからこそ、その正義を伝え合わないと。
恐怖から伝える教育はどこか違う気がする。
間違ったことをした時に本質を説明せず
お父さんに怒られるからやめなさい。
と言うことと似ている気がする。
そう育てられると、それ以上の意味を
見出していくのはとても困難だ。
このことを、広島から離れて
深く学んだ気がする。
今を、未来を『戦前』にしないためにも。