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『教育と愛国』レビュー:何でもブッ壊せばいいのか

2022年初夏、『教育と愛国』をKBCシネマで観てきた。
KBCシネマの『次回上映作品一覧』のポスターを別の映画を観た時に見たことや、他の方のツイッターへの投稿を拝読し、一度観ておいた方が良さそうだと考え、時間を割いて鑑賞することとした。

【参考】松本創さん(ライター・『軌道』などの著者)の投稿

さて、鑑賞後。
俺の中では、
『スッキリした』とか
『よくぞ言った』とかいうパッと見分かりやすい感想や、
『アベ政治を許さない』
『歴史修正主義に断固NO』
といった政治的宣伝文句への共感以前に、
『もやもやして釈然としない』
『どこの世界でも起こりうること/起きてきたことなんじゃないか、そしてそれは日本も例外じゃない』という、
芥川龍之介風に言えば『ぼんやりとした不安』に覆われたのである。

【俺のツイート・ツリー形式で繋げている。今回はこれを元に再構成】

本作の肝は、斉加尚代さん(本作の監督・大阪毎日放送ディレクター)がおっしゃっている
『誰であっても、どの政党であっても、教育の内容や教育行政そのものに手を突っ込んではいけないという教育の独立性、その普遍的価値を伝える映画にしたかった』
だろう。
それが現代文明社会・民主制社会の肝のひとつであるはずだし、本来ならばこのことは社会の構成員たるひとりひとりが『市民』『国民』『住民』どのくくりに入っていても共有すべき感覚ではないか。
そのことをご覧になった方々がどこまでご理解いただいているのか、いささか心許ない、という感情を持ったのである。

本作をご覧になった方々が、
・自分たちの言いたいことを言ってくれた、『諸悪の根源』の安倍晋三を追放すればいいじゃないか、で片付けてしまうこと
・リベラル派や左派のガス抜きとして消費されて終わりになること
が気掛かりなのである。

本作のテーマである、日本の歴史教育(特に現代史の中での第二次世界大戦における戦争犯罪の扱いについて)へのタカ派の介入という公教育・歴史観を揺るがす危機を目の前にして、本来断固ノーを突きつけるべき、権力からの独立性を有するはずの現場の教員や教育委員会のみならず、『普通の日本人』までもが介入を許してしまっている現実。
そして、恐るべきは、
・アジア諸国の蔑視
・大日本帝国は神聖な国という『史観』
・G7という括りに安住してきた、いや、19世紀後半の『明治維新』以降東アジアのトップであり続けているという大国主義
が、タカ派の台頭以前から日本人の中で燻りつづけてきたという事実である。
(参考:吉田裕氏『日本人の戦争観』)


何度かこの『日本人の戦争観』は読み返すことをお勧めしたいが、(仮にここではこう呼びたい)『神聖大日本帝国史観』が世に出る大きなきっかけは
・『河野談話』や
・小林よしのりの『戦争論』のヒットなど
だったが、『大日本帝国史観』の源流が第二次大戦よりも前にあったとみることができること、そして、それが2020年代もなお本邦の歴史観の中で生きていることを恐れるべきである。

日本も、そして、私たち日本国に住まう人々も無意識のうちにはまりこんでいる自国中心主義は国民国家の成立とも切り離せないものであり、洋の東西を問わずつきまとうものであるはずだ。

例えば外国人への排斥や差別といった自国中心主義の弊害を学ぶためにも、また、一人ひとりが現代社会で一個人として自立するためには、やはり教育(特に公教育)が必須だろう。
少なくとも教育というもの全般に関わる人々は『教育の独立性、その普遍的価値』を死守し、その他一般の人々にも伝えていく必要があるのではないかと思う。そして、一般人もそのことを理解し共有していくべきだろう。

だが、私たちにとって極めて重要な公教育の現状たるや。
不祥事や事件・事故にまつわる、教員や教育委員会といった『教員ムラ社会』の構成員の対応はあまりにもお粗末で、時にはヒトとしての資質すら疑問符を付けざるを得ない程である。
教員や教育委員会の構成員に問題があった時、彼等の組織で自浄作用が働いていないという問題が生じており、俗に言う不適切教員を再教育、時には排除してまでも子供達を守ることができていない。
子供達よりも自分達『ムラ』のメンバーを守ることに汲々としているサマは、かつての国鉄末期を思い起こす方がいらっしゃるだろう。
そして、直近であれば、福島第一原発事故後の東京電力の有様を。

例:


このふたつの事例に限らないが、子どもたちを己のために利用してきたとみられても仕方のない教員ムラの構成員たちの体たらくを長らく日本の人たちは目にしてきた。

教員ムラ社会のメンバーたちは、俗に言う小役人根性というものなのか、特に行政機関などにありがちな官僚制の弊害なのか、
『臭い物に蓋をする』
『なかったことにする』
『揉み消す』
『良いこと・綺麗事しか口にしない』
『水に流す』
『寝た子を起こすような真似をしない』
といった反応を示しがちである。
それが繰り返され、ワイドショーや全国ニュースで人々を憤激させ、時には当事者やその周辺に危害を及ぼしてきた。それでも似たようなことが毎年繰り返されてきた。
その現状に憤ってきた人達は、本来ならば
・教育現場の何が問題なのか
・現実はどうなのか
・どうするのがベターなのか
ということを考えるべきところだが、憤る人々は、機能不全に陥っている『教員ムラ社会』にいよいよ最後通牒を突きつけ始めている。
そこに、維新や自民党清和会(特に小泉純一郎政権)のように『ぶっ壊す』をスローガンとして、人々の中にくすぶる不満を爆発させ、誘導し、とにかく破壊する方向に動いてきたのではないか。
そして、『ぶっ壊す』ことを支持してきたのは『普通の日本人』だったのではないか。
『タカ派』『歴史修正主義者』が、その隙を狙って勢いをつけ始めている。

『戦後民主主義』は間違いだった、
『大日本帝国式教育を復活させよ』、
『先の大戦は聖戦()だった』、
『(南京大虐殺や従軍慰安婦などの)戦争犯罪はなかった』…
という主張が、今なお第二次大戦時の戦争犯罪の問題(特に韓半島や中国大陸での蛮行)が半ばタブーであり続けている『教員ムラ社会』の外で着実に浸透しつつある。
これらの『主張』は、先の大戦が『神聖大日本帝国』が必要に迫られて戦った『聖戦』であり『神の国の軍隊』は野蛮なことをするはずがない、という発想からきているようにみえるのである。

このような『神聖大日本帝国』の、そして『普通の日本人』の象徴として君臨してきたのは、本当に天皇だったのか、別の人物だったんじゃないか、と思いつつある。
例えば、安倍晋三が首相として3,188日(約9年)もの間在任できたのは、彼が実のところ日本人の象徴的キャラクターだったのではないかと思っている。

それ以前に、自公政権やその源流の保守中心の政党政治を長らく支持しリベラル・左派を脇役の地位に据えてきたのは『普通の日本人』だった。

例えば教育の独立性など、近年噴出してきた日本の中の諸問題について、中曽根行革〜バブル〜就職氷河期〜小泉改革…といった流れの中で出てきた問題として捉えられるか、安倍晋三や自公維を叩き出せば良いというものじゃないことをどれだけ理解できるかが、今後の分かれ道だろう。

政治的統制の問題と別に、教員に問題があった場合のコントロールを誰がどうするか、という議論が別途独立して必要ではないか、というご意見を賜った。
この教員のコントロールの問題という点を忘れると、教員不信の人達が維新やN国みたいなところにますます取り込まれていくのでは、と思っているし、現にそういう流れができているのではないかとも思っている。

仮に政権がリベラル派や左派に移行したとして、同様の問題が起きた時に『体制が変わってもやっちゃダメなことはやっちゃダメ』を通せるのか『ウチは違う』で通してしまうのか。
そこが本来は問われるべきだろう。
目指している民主制でどっちを取るかが大事じゃないのか。

ここ数年、教員の労働環境の問題が主にツイッターで訴えられてきている。
労働問題も、『教員ムラ社会』の疲弊の一因と言えるだろう。
だが、たとえ左派・リベラル派が教員の待遇改善を訴えたとしても、結局は松本創さんのツイートにあるような『民意の反映』『世間知らず』『民間企業並みにせよ』という声にかき消されてきたように見えてならない。
左派・リベラル派が労組共々『抵抗勢力』にされてしまった格好である。
『抵抗勢力』というラベリングはあまり使いたくはないが、小泉純一郎の時代以降の日本の政治・社会のあり方をみるうえでキーワードにはなっている。


もう一つ松本さんのツイートを拝借するが、教師や公務員への『偏見』がかつての細川政権前後の公務員バッシングや小泉構造改革、『大阪維新の会・日本維新の会』の台頭・公教育へのタカ派の介入につながっているとみて然るべきである。
彼等『改革派』に対抗するには、一般の人々を味方につける必要があったが、事ここに至ってはもはや手遅れかもしれない。
『教員ムラ社会』の周囲を取り巻く空気は、かつて有力労組だった『動労』や『国労』などが国民から見放されてしまった国鉄末期の様相に似ている。
教育現場が、第二の国鉄と化してしまっているように見えてならない。
これは『昭和解体』『暴君』『マングローブ』『トラジャ』『軌道』の国鉄・JRの内情を記したノンフィクションを通読した自分の勘にすぎないが。



公教育の『本丸』である文科省は、『創造説、皇国史観、天動説、南京虐殺はなかった(という説)』のような、教育現場で扱うには適切ではないコンテンツをフィルタリングし弾くためにあるはずだ。
また、『普通の日本人』の中でこのようなコンテンツは要注意コンテンツ(時には扱うことすらNG)だという共通認識があればいいが、それすら心許ない状況にあるのではないかとも思うようになった。

N国党や小泉純一郎や大阪維新の会・日本維新の会のように『既得権をぶっ壊す』ことさえすれば・訴えればそれで済むのか、そう思わされた一本だった。
そして、本作で出てきた現象は、あくまでも『通過点』にすぎない。

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