映画「市子」の北くんは本当に死んだのか
映画「市子」に登場するシーンのほとんどは夏の季節で、市子の住む公営住宅の部屋はどんなに暑い日でもクーラーをつけていない。家にエアコンがないか、あったとしても電気代節約のためにつけないのだろう。市子のTシャツには汗の染みが大きく広がっていた。市子はいつも汗をかいていたが、反面、彼女の心の底には常にひんやりとした何かが流れているように感じた。
杉咲花が演じる市子は、ぱっと見、いわゆる「幸薄系」の女性だ。地味で目立たず、自身が背負う宿命から夢を持つことも諦めて、ひっそりと健気に必死に生きている女の子。でも、市子がときおり見せるあどけない笑顔や、ぼんやり宙を見つめる仕草がとても魅力的でドキッとする。ついじっと見つめてしまう。杉咲花の頭から首、肩にかけてのラインがとても美しく、顎のラインに沿ったボブヘアーのシルエットがくっきりと脳裏に刻まれた。
見終わった直後は、市子の壮絶な人生とドラマチックな展開に圧倒され、物語中のさまざまなシーンが頭の中に次々と浮き上がってきて呆然としていた。市子の出生を根源とするどうにもしようのない試練とやむを得ない選択肢に思いを重ねて悲しく辛い思いに浸ったけれど、時間が経つとともに、なにか納得いかない気持ちがモヤモヤと浮かんで頭の中に居座っている。小さいけれど何か引っ掛かる部分が点々と現れ、気になって仕方がないのでブログのネタバレ記事を読み漁って答え合わせをした。
成長の途中段階から市子が月子になりすまして生きることや、長谷川くんと市子が3年も同棲しているのに互いの過去についてほとんど知らないこと、小泉を殺した後にどうやって市子と北くんの二人で踏切まで遺体を誰にも見られず運べたのか、といったことはまだ見過ごすことができたのだけど、市子に惚れている同級生の北くんが自ら死を選んだと思われる展開にはどうにも腑に落ちない。
物語の最後に、海中から引き揚げられた車に男女2人の遺体が発見されたことをニュースが報じる場面がある。これは自殺願望を持つ北見冬子という女性と、市子の同級生の北君ということのようだ。そして、市子は冬子の自殺ほう助と引き換えに、彼女の身分証明書を手に入れてこれからも生きていく、という結末になっている。
ということは、北くんは冬子を車に乗せて運転し、海に突っ込んだということなのだろうか?市子にとっては北くんは厄介な存在になってきていたから、心中と見せかけて冬子と一緒に死んでもらったほうが都合がいいかもしれない。でも、北くんはあそこで死を選ぶような人じゃないと思う。
だって、北くんは一見行動力がなくてオタクっぽい青年だけれど、家の裏手に回って市子の家の中を覗いたり、失踪した市子を探し出す執念とバイタリティがある。仮に市子に「うちのヒーローになってくれるんやろ?」と詰め寄られたとしても、自ら死を選ぶことはせず、どうにかして市子と一緒に生きる方法を探すのではないか。だとしたら、予め市子と冬子が打合せして用意周到に北くんを殺した上で心中と見せかける方法を段取りしていたのか?
ほかにも、この映画の細かな箇所で気になる点がいくつも出てくるが、この違和感は、この物語がもともと「川辺市子のために」という舞台作品であるためだと思う。舞台であればストーリーの中に多少の矛盾はあっても演出による力技や台詞のテンポでラストまで突き進むことができると思うし、見る側として若干の無理やり感があったとしても「そういうお話なんだ」と納得しちゃう部分がある。
でも、それをそのまま映画にすると、どうしても描き方が粗くなってしまう。物語自体にミステリーの要素が大きいため、市子の謎を解くエピソードがどのように一本の糸につながって結末に向かうのかが物語の柱となるところだろう。そのためには脚本の緻密さが肝になると思うが、いろいろな伏線を回収しきれないまま中途半端に終わり、説得力に欠けてしまうように思う。
なんだか、作り手にとって都合よく解釈されている部分が多くて、解消されなかった謎は見る側に丸投げされている感じ。だから消化不良な余韻がずっと残るのだろう。
顎から汗をたらしながら白昼の住宅地をふらふらと歩く市子。
待ち合わせ場所の港で車のライトのまぶしさに目を隠す市子。
長谷川君と住む家を出てトンネルの中を走る市子。
それらのシーンに浮かび上がる市子の姿がこの映画の印象を形作っている。多くの人が絶賛しているように、やはりこの作品は杉咲花の魅力を堪能するためのもののように思えた。
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