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田舎のパート暮らし、来春も確定、境界線

◇概要◇ 

一年契約のパート職だが、来春ももう一年お世話になり、その身分も保障されそうだ。田舎の古い住居で修繕出費。中山七里さんの境界線の感想など。

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2022年大晦日の脳梗塞発症、そこから2年が経った今。
ワレンベルグ症候群という脳梗塞の一種を突然発症したのは、2022年末の大晦日、緊急搬送だった。
そのまま年が明け2023年初から寝たきり状態、少しずつ回復し4月に退院。療養し、一年後2024年4月から再就職、役所の出先機関(とある施設)でのパート事務職員(公務員扱い、一年契約)となった自分。
はてなブログ にも脳梗塞関係の記事を掲載。

◇来春からのパート職内定、その意味◇

上記はてなブログに書いたが、一年契約の更新希望を提出していた今の仕事、パート職だがようやく(内定だが)希望叶い、仕事が続けられる事になった。
一年毎更新、もちろん様々な事情で今期で契約満了と言われれば従うしかない不確実な身上、非正規のパート職。だがこの歳この体、贅沢は言ってられない。いや、ありがたいのだ、仕事がある=稼ぎだけで無く、健康保険とか年金とか身分も含めて、信用がもらえる。雇い主(地方自治体)によって向こう一年は、身分が保障されるということ。それも大事。

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◇田舎暮らし、持ちつ持たれつ も大事◇

そのタイミングに重なるように、この古い田舎の家の、各部の改修メンテ(必要な出費)も発生。風呂の水回り、外灯などを地元の業者にお願いする。
電話一本ですぐ飛んでくる、古い田舎家の修繕はオテノモノ!という感じで。
田舎暮らしの(古い住居の)修繕依頼は、その地域の業者に頼んで馴染みになっておいた方があとあと助かる、いま多少高く掛かっても。
稼ぎが少ないので出来るだけ出費は抑えたいが、ここは持ちつ持たれつだ。
地域の業者の存続への出費だと思えば。もしこの地域の業者が廃業してしまえば、不便になる。万が一の時に自分が困るのだから。

昨日の国営放送で、地域に産婦人科医のいない、所謂、産院空白地帯が各地に急速に広がっている問題が取り上げられていた。9年連続の出生数減少、少子化が社会問題である我が国。
その少子高齢化が進む一つの原因は、産みたい地域(例えば実家が地方だとすると)に産院や産科がないという不安。
クルマで一時間以上離れた箇所まで行けばあるが、緊急時出産リスクがある、妊娠中の検査が不便で大変な思いをするなど、不安しかない。
産院空白地帯・・少子化=出産数減少が年々加速し、産科収入は減る一方、いわゆる少ないパイを奪い合う、病院間の格差、淘汰も進む。
公的な大きな病院ですら危うい。産科の24時間態勢の人員確保や人件費、産婦人科特有の医療機器の定期更新費用など負担も維持費も大きく、収支が合わないのだ。産科維持のために、病院全体の経営が傾き、病院そのものが立ち行かなるため、やむを得ず産科を休止するというところも出ているようだ。
そういう大きなうねりの中、地方や田舎では産院が一つもない空白地帯が増えつつあり、少子化の背景の一つになっているわけだ。

田舎では、高齢化や人口減少により、例えば商店や病院や施設など、必要な機能の空白化が進み、その結果、住みにくくなり住人が少なくなり、さらに機能空白が進む、という悪循環になりがちだ。
地方の衰退はやむを得ない側面もある、今流行りの持続可能なんてむりだ、でもその衰退の速度がこれ以上早くならないよう、自分たちがここに住まう間だけでも。
そういう意味でも、持ちつ持たれつ、で地域とその機能が(今少しでも)生きながらえるような暮らしかた。

◇七里さんの旅はつづく:中山七里の『境界線』◇

お気に入りの作家、中山七里さんの作品を読む旅。昨年末から20冊以上も読んでいる。境界線だ。

この作品の前に読んだ「アポロンの嘲笑」というのが、いわゆる東北大震災、原子力事故に関するノベルだったのだが、その繋がりで「宮城県警シリーズ」の第一作の「護られなかったものたちへ」、そして第二作のこの本を読んだ。(実はもう次を読み出している)
東北人の我慢強さ、そして過酷な運命に翻弄される人々の物語は、まさに東北、冬の厳しい寒さを噛みしめて歩き続ける旅のようだ。

中山七里の『境界線』は、刑事モノ。東北の大震災で妻と子が行方不明のままの刑事が主人公だ。物語は、その妻の溺死体が発見されたとの一報から始まる。
しかしその死体は妻では無かった、別人が偽造された免許証を所持したなりすましだった、行方不明の妻の名を使用したものだった。
震災で死亡が確認された者と生き残った者、行方が分からないままの者、生か死か? それらの境界線のはざまで、震災によって人生を狂わされた男たちが始めた失踪者名簿を悪用した事件、彼らが起こした罪、それは悪か。或いは人助けか?はたまた偽善か。善悪の境界線は時に曖昧。

『境界線』という物語はいろんな解釈があろうかと思うが、自分がやり切れないと思うのは、いろんな事情で名前を変えて別人として生きたいと思うひとの実情。前科持ちの人は真に社会復帰しようとしても社会の目は厳しい、或いは実の両親が大罪を犯しそのおかげでまともな職につけないまま困窮する人が描かれていた。
真っ当に生きたいと思っても、名前と前科はついて回る。結局、罪に手を染めないと生きていけない社会、再犯率が高いのは寛容さが足りない社会のせいか?
そういう人に、震災で死んだ扱いになった人の情報を売る。買った人は、なりすまし別人として社会に生きようとするが、結局、犯罪に手を染め殺されたり、底辺から抜け出せない悲しみから死を選ぶ。

普通の生活という境界線は、その中にいる時は曖昧な境界線でふとしたきっかけで越えてしまう、ただ一度踏み外すと簡単には元に戻れない。
人生、分からないものだ。

おわり

2月最後の南国、最高気温22度、暖かだった。


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まつ@ワレンベルグな日々、時々No+e日記
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