脳梗塞になって変わった自分のこと 1
脳梗塞(ワレンベルグ症候群)を2022年大晦日に発症して、
それ以前と以後で変わったこと(執筆時点で約7ヶ月経過)
その1
・・後遺症や症状以外で自分が変わったこと気づくこと・・
無職になった
発症時は、県の公務員嘱託で一年契約の3年目の年末だった。
その仕事は、自分のチャレンジでもあった。大手メーカの技術者で30年以上勤めていたが、下記のような事情で地元にUターン。運良く再就職出来た、50歳を過ぎて民間企業の技術者から県公務員事務職嘱託だったが、職場の人に良くしてもらった。公務員として県から給料を貰う、地元にも少し恩返しの出来る仕事だと思って頑張ってきた。そして2回年契約を更新してもらい3年目の年末、突然の脳梗塞の発症で寝たきりになった。職場復帰がほぼ無理な状況の1月末、契約解除になるかと思ったが、職場は最後まで自分が戻ってくれることを願ってくれた。いちばん心に染みた。そして3月末退職、その大切な仲間、社会への恩返しの誇り、その仕事を失う、無職になりそして収入も傷病手当が頼りとなった。人生がらっと一変してしまった。
そう、故郷に戻り社会に恩返しをしているような立場から、社会の保護を受けさせて貰うという立場になったのだ。療養をし自分に合う仕事を見つけるまでは保護を受けながら慎ましく暮らすことが必要になった。
当然だが、生活はスリムになり、節約生活、節電に敏感になりあらゆる支出にうるさくなった。外食は、してもうどんとか安いもので十分、贅沢をしたくなくなったり着るものに頓着しなくなった。
スリムになった体
入院前は85キロ弱あった体重(身長は175センチ)がいまや72キロ切っている。入院すぐ一週間は、寝たきりで点滴だけだったので一気に8キロほど、しかも筋肉から落ち始めるらしい。その後、経管流動食は始まり、リハビリも開始、しかし痩せ続けた。やや回復し口からも少し食べれるようになって、体の筋力を戻すような強い運動もリハビリに加わったが体重は微減のまま73キロで4月末に退院。退院後普通に食事が始まり、少し増加し75キロ辺りまでいったが、嫁と同居になり少しずつ下がり、今72。
病気前は、着るものはXLサイズだった、いまはMサイズでもいいくらい。
なので服がすべてブカブカになった。ダサいくらいブカブカのものがあるが経済的に買い直す余裕も有るわけ無く、トレンド的にはゆったり目の服装だという勝手な考え(着るものに頓着する歳か?)、着れるものを選んで残し、この際に服をだいぶ処分した。
先日、嫁に付き合って久しぶりに無印良品にいったが、Mサイズの試着が問題なかった(のが嬉しかったりする)。ただし、鏡の中で、元々頭がでかいので体が貧相だとなおさら協調されてしまう(外見を気にする歳か?)。
夫婦2拠点生活から同居に戻った
入院前、北陸の実家で母と同居していた。3年前に実家の父が亡くなり、いろいろあって、嫁さんを鹿児島に残し2拠点生活を送っていた。もともと母と同居して面倒を見ようとしていた自分が、まさかの脳梗塞となってしまい不自由になってしまったのだ。退院後、妻と実の妹が私の鹿児島移動夫婦の同居復活を主張し、母も承諾して、2023年7月から鹿児島の田舎、嫁の住処に転がり込んだ。フラつきなどの後遺症もあり、身近で妻が支えないとだめだろうということになったのだ。三年ぶりの同居再開だ。
北陸の実家は、地方の田舎ではあるが、いちおう県庁所在地の平地の市内でなにかと便利、趣味の自転車で週末は、中心街、好きな古本屋や中古屋に脚を伸ばせたりした。しかし、ここ鹿児島の田舎は不便、最寄りのコンビニが5キロ先、しかも山谷があり自転車では(健常者であっても)困難。街まで山越えの10キロ強、車生活が必須になったが、ガソリン高騰の折り、クルマに乗るときは用事をまとめて行い節約エコを実施しないといけない。
嫁さんは、3年前に2拠点夫婦になったときに二人で棲んでいた鹿児島のアパートを引き払い、この田舎(実家近く)に独り移り住んだ、実家まで歩いて行ける空き家が手に入り、すこし手を入れて棲めるようにした。平日は週4、クルマで10キロほど離れた所にパートで働きに出ていて、昼間は無職の自分が一人留守番、ただいま主夫の見習い中。
(続く、)