
何故、性格は変わりにくいのか?~手段としての性格から考える②~
性格は「いのち」の生存手段であるという視点から性格を考察していくシリーズ第2段では、性格を変えることが難しい理由について考えていきます!
手段は選べるのだから性格は変えられる!
性格は変えられます。性格が生存手段の集合であることが理解できれば、自明と言えます。
紙を切るのにハサミを使っていたからと言って、そのあとずっとハサミ以外を使えないという理由にはなりません。
しかし、現実問題として性格は変わらない、変わりにくいと思われています。何故、手段のはずの性格が極めて変わりがたいのでしょうか?
性格が変わりにくい理由1 生まれてからずっと無自覚に使って来た
ハサミを使うことは意識的に出来ていますが、明るい性格を使うことは自覚的にやっているものではありません。生まれてから今まで、ずっと無自覚に性格を使い続けてきているのです。
これが自覚的に性格を変えようとしても難しい理由の一つ目です。
性格という手段を使い始めたのは赤ちゃんや幼少期といったほぼ記憶に残らない時期です。生まれて直ぐ「いのち」の性質(※不安を感じやすい等)から必要に迫られて性格という手段を使い始め、その有効性を感じ、また同じ手段を使い続けて来た結果、性格を”使う”という自覚を持てないほどに、自分を取り巻く状況に対して、自動的に反応するようになってしまっています。
自動的に性格を使う様子だけを見れば、あたかも性格が自分であるかのように感じられます。性格について深く考えない人はこの感覚を無批判に信用し、性格とは元々決まっているものだと信じてしまうでしょう。すると、「自分はこういう性格(生まれつきのもの)だ」という誤った結論を正しいと思い込んでしまいます。
少し話が逸れますが、性格を変えるのは無理だ、難しいという感情もこれに関係しています。自分の性格が生来的に決まっていると思っている人にとって、性格を変えるとは生まれつき持っているものを変えなければならないということになります。
僕でもそれは無理だと思います。性格が生まれつき決まっているなら変わらないでしょう。性格が手段であると理解しているからこそ、変えることができると思えるのです。
性格が変わりにくい理由2 生まれ持った性質は常に作用する
以前の記事で「いのち」の性質が性格を導くと書きました。その性質は脳内にある3つの神経伝達物質で決まる生得的なものです。(性格と違って遺伝的に決まるこれは変えられません)
この性質は生まれてから死ぬまで常に「いのち」の世界認識に影響し、特定の生存手段を講じるように誘導していきます。環境の変化があっても、人が変わらず、同じ性格を使い続けるのは、生まれ持った性質がその性格を使うように誘導し続けているからです。
強い意志や環境の変化で一時的に性格が矯正されたとしても、やがて元の性格に戻ってしまうのは”性質”が恒常的に影響を与え続けているためです。
性格が変わりにくい理由3 性格が決まるメカニズムを知らない
性格が「いのち」の生存手段であることを理解し、「いのち」の性質がどのような生存手段を取るかを決めていくというメカニズムを知らないことが変わりにくい理由の3つ目です。
性格を変えたいと思うのは、自分の中の変えたい性格を自覚したときだと思います。
例えば、攻撃的な性格を変えたいと思ったとします。力学を知らない場合、攻撃性(すぐに暴言を吐く等)を抑えよう!ダメだ!と強く思う以上のことができません。しかし、強く思う程度で「いのち」の生存手段である性格を変えることはできません。「いのち」にとって、性格は生きるための手段、死なないための手段なのですから、それを外圧で変えようとするのは、「いのち」に死ねと言っているようなものです。その心理的抵抗感は想像に余りあります。
メカニズムを知ることで、攻撃性を抑えようという外圧的アプローチではなく、自分の攻撃性はどういう性質から来ているのだろうかと考え、「いのち」が死を回避するために攻撃性を選択した理由を理解し、その選択の是非から検討するという内的アプローチを取ることができるようになります。
嘗ては機能し、毎度の生存手段として採用した攻撃性という性格が、どのような内的力学で獲得されたのかが分かれば、性質から来るその力学に沿って、攻撃性以外の自分の性質と現状にあった生存手段を選択することが可能になります。
合気道のように、自分の性格を形成する力を使って、今までとは違う性格を再選択していくのです。性格を導く性質と対決するのではなく、協力して、新しい生存手段を編み出していくことが、心理的抵抗なく性格を変えていく方法です。
このようなアプローチは、性格が作られるメカニズムを知らなければ思いつくことはできません。知らないまま行う性格を変える努力は「いのち」とその性質による頑強な抵抗に遭遇し失敗に終わります。
「いのち」が生きようとする力(性格という生存手段を手放さない力)はとても強く、それをねじ伏せることなど不可能だからです。