どうせ理解されないと思いながら、それでも生きていくしかない。
・どうせ理解されないと思いながら、それでも生きていくしかない。
人は誰しも、他者からの理解を得たいと思うもの。それは自分のことを「見てほしい」、「理解してほしい」、「認めてほしい」といった、人間の持つ願望や欲望を満たすためのものだ。
ただ実際には、これらの願望や欲望が満たされることは無いように感じる。
無い物ねだりとはこのことをいうのだろうか。
他者は自分が思うほど興味がない。
いっそのこと、自分勝手に生きてやればいい。
自分のリミッターを解除し、思いっきり羽を伸ばしてみよ。
自分を認めてあげるのは自分。
自分を見てあげるのは自分。
自分を認めてあげるのは自分。
結局は自分がどうするか、どうしたいかの決定権を振りかざす必要があり、異論も反論も認めない。ましてや他人が介入できるはずがない。
自分の下した選択だから責任も取らないといけないし、そのリスクを背負う義務がある。何かを得たければ、何かを失う勇気と覚悟を持つ事。
自分自身に軸となる考え、自分なりの哲学を持つべきだと考える。
それに正解も不正解もない。ぶっ飛んだ考えでも自分が納得できるならそれで良い。
無理に口外する事もないわけだし。その考えを自分で大切に育て上げる。
育て上げるのに必要な栄養の供給源は実に多様である。
各々に合ったスタイルを確立する事も、自分が生きていると感じる瞬間であり、日々にほんの少し彩りが足せるかもしれない。
・人間関係は必要最小限で構わない。
私は塾講師のバイトをしており、今年で4年目となる。他にバイトを掛け持ちしておらず、塾講師一筋でここまで過ごしてきた。
入りたての頃は立ち位置や振る舞いが分からず、何となく周りのノリやその場の勢いに任せてやり過ごす事が多かった。
そのおかげで得難い関係を築くこともでき、今日の私に活きている。
1回生から4回生。年齢にすると18歳から22歳への変化で、みんなと仲良くする事に疲れてしまった。むしろ、7割くらいの人間には嫌われてもいいというマインドさえ芽生え始めてきた。
残り3割の人間を大切にすれば良い。片手で数える程度で十分だ。
「数年前と比較して、仲良い雰囲気がなくなったね。」
「なんか、みんな元気なさそうだね」
「お前(私)、顔怖すぎ。表情暗すぎ」
はぁ。そんなもん、数年も経てば人も環境も変わるやろ。変な仲間意識を持たれて、謎の派閥ができ、バチバチにやり合われる方が迷惑やわ。
最近は、本当に必要最低限しか関わりを持たないようにしている。
大事にしたい・するべきと私が思った人とは関わりを維持しようと努力している。
”もう、いいやぁ”と思った人とは、ほんの少し遠い距離感にしたり、それを保ったりする。
”ほんの少し遠い”。ここが肝心。
最低限の挨拶程度は交わし、あとはひっそり陰を薄くして。
その分、生徒との会話や授業を楽しんでいる。
私はもしかすると、社会へ出てはいけない種類の人間なのかもしれない。
誰にも理解されないと思いながら、それでも生きていくしかない。