自分を落ち着かせるために書いた文章

 爆裂に忙しい。それというのも労働時間中にサボってばかりいたせいだが、それにしたってやることが多すぎる。

 ぼくは書くほうの労働をしているが、ここ最近は毎日毎日膨大な量の文章を書きすぎている。加えて年末ということで文章以外の細々とした案件が山積しており、脳味噌が爆散しそうである。ぼくの脳はかなり単純につくられているため、3つの案件までは1日のうちになんとか処理できるが4つ以上になると途端にフリーズするように出来ている。具体的には朝起きてから夜寝る前の間に3つのタスクを達成した時点で自動的にスリープする。ここでいうタスクというのは「郵便局に行ってこの荷物の送料を確認したうえで郵送する」などの一見単純そうなものを含む。最近ようやく料理やゴミ出しをタスクとして認識することなくスムーズにこなせるようになってきた。

 現在、労働関係で9件、私的な案件で3件のタスクを抱えている。このうち、23日中にやったほうがよいものが1件、24日が締め切りのものが1件、25日にやるべきことが1件、25日までにやっておくべきことが2件、すでに締め切りを過ぎているのが3件、気づかなかったことにしたいことが1件、今年中のなるべく早いうちにやっておきたいことが3件ある。

 爆散する。

 こういうときは「エクスキューズミー、バットアイジャストハフトゥエクスプロード(ちょっとすみませんが私これから爆発しますので)」という爆笑おもしろギャグ(©Björk)を言ってごまかしてきたのだが、ごまかしきれない水準に達している。

 繰り返すように、この惨状はひとえにぼくが労働時間中にサボってばかりいたからなのだが、とはいえこのしばらくは1日に3のタスクを片付けたそばから5のタスクが増えるという有り様であり、しかも1件ごとの質量がかなり大きい。処理するのに時間がかかり、結果としてどんどんやるべきことが増えていく。

 ならば残業すればよいではないかという幻聴が聞こえた気がするが、仮に時間外労働と神殺しの二択を迫られた場合、迷わずシシ神の頭を鉄砲で撃ち抜いて呪われた人生を送るほうを選ぶ気構えでいるので、絶対に時間外労働はしない。その結果、今こうしててんやわんやになっているわけだが、だからといって「今後は心を改めて場合によっては時間外労働するね」などという愚考には至らないのである。

 また幻聴が聞こえた。「毎日毎日文章を書いているのがつらいなら、なぜ今またこうして文章を書いているのか」。いい質問(の幻聴)だ。

 トランペットの練習を朝から晩までやっていた子供が「疲れた! 気分転換する!」といってトランペットの練習をしはじめたとする。はたから見れば疑問符がつくような行動であっても、前者が「半音階を使ったパッセージの反復練習」で後者が「好きなジャズの曲を自由に吹く」ということだったら、それを行っているときの脳の動きはまったく異なる。似たような経験は誰しもあるとおもう。そういうことだ。

 いうなれば、ぼくがこのような駄文を生み出しているのは、きちんと労働するために必要な脳味噌リフレッシュ行為なのである。別にきちんと労働なんかしたくもないが、生活と納税のためには仕方ない。

 納税……。いやもうほんとうに納税したくない。図書館や区民プールを「料金が住民税であるサブスクリプションサービス」と捉えてあほみたいな頻度で利用していたころはよかったが、今やそういった機会も減り、税が自身の生活のために使われているという実感が湧きにくくなった。唯一納税したくなるのはふるさと納税くらいだが、過度な返礼品や都市部の納税額減少などの問題が出来し、システムの再構築をめぐって賛否両論巻き起こっている。個人的にはおもしろそうな取り組みをしている自治体に納税したり、山程の大福が返礼品として送られてくるのは好きだ。ふるさと納税というシステムそのものが改悪されないかと危惧している。

 あと引っ越しもしたい。この前なんとなくSUUMOを見ていて立地・家賃・内装などがこの上なくドンピシャな物件があったので興奮していたら「入居者は女性に限ります」とあった。狂乱した。

 本来なら今年の3月にシェアハウスに引っ越したいと思っていた。実際に内覧も数件済ませたが、折しも疫病流行しはじめた時期で、こんな時期にシェアハウスに引っ越すのもどうかと考え直し、引っ越しそのものが沙汰止みとなったのである。その時はこんなにも在宅推奨期間が続くとは思っていなかったため、かえりみれば都心の狭い部屋やシェアハウスに無理に引っ越すより、下町の少し広さのある部屋にとどまっていたのは英断だったといえなくもない。別に今の部屋に不満はないが、様々な要因から引っ越しをしたいとおもうに至ったのだ。そのためにも金がいる。なんにつけても金が必要な世であることよ。

 いま「様々な要因から」と書いたが、そのなかのひとつは「衣食住の『住』の部分にももっと注力してみてもいいのでは」と考えたためである。これまで生きてきて、住環境に関心を払ったことはほとんどなかった。基本的に家は雨風がしのげて最低限の家具が置ければそれでいいと考えている。したがって、部屋の模様替えとか、カーテンを変えるとか、そういった類のことをしたことがない。高級家具などにも全く興味がないのである。自己分析の結果、衣食住のうち「衣」に注力しすぎてそれ以外の部分がおろそかになっているのでは、という仮説が生まれた。起きて半畳寝て一畳でも生きてはいけるだろうが、「住」に注力して生きてみたら人生はどうなるのかという実験をしてみようと目論んだ。しかし上述したようにこの実験はまだ実行保留中である。

 こうした興味対象の変遷から、小野啓『男子部屋の記録』(玄光社、2019年)という「90人の都会の男子とその部屋、そこに在る物たち」を撮った写真集を読んだり、「小さい部屋にごちゃごちゃ暮らしている人間」たちの部屋を撮りまくった都築響一『TOKYO STYLE』(ちくま文庫、2003年、オリジナル版1993年)を読んだりしている。読んでいてわかったが、たぶんぼくは物質的な欲求を満たしている人間のさまを見るのが好きなタチなのかもしれない。2冊の写真集の隅々まで丹念に読み終わったあと、次のような考えを起こすようになった。すなわち、本棚を見ればその人の脳内がわかるというように、部屋の様子は住む人の内奥のあらわれのかもしれない、というものである。いにしえから伝わるこの説が仮に真だとすれば、ぼくの内奥はしっちゃかめっちゃかということになる。だいたい合っている。

 今、他者に「部屋の乱れは心の乱れ」と説教された際には必ず唾棄するという人生を送ってきた人間のくせに、なにを今更、という幻聴が聞こえてきた。うるさい。

 生活感のない部屋を目指そうする方向性が苦手なので、これらの写真集に写っている生活感丸出しの部屋を見ると非常に安らぐ。しかしながら生活感がない部屋にあこがれている層が現代社会に一定数いるのも確かだ。考えを巡らしてみるに、自室の生活感をなくしたいという気持ちが生まれるのは、ディストピア文学で描写される部屋を自分で作り出したいとおもっているからではあるまいか。彼らは『1984年』や『われら』が愛読書で、そこで描写されるような生活を夢見ているに違いない。

 それはさておき、都築響一の写真集には『賃貸宇宙 上下』(ちくま文庫、2005年)や『HAPPY VICTIMSー着倒れ方丈記ー』(青幻舎、2008年)などおもしろそうなものが他にもあった。これらの写真集はいま取り寄せ中である。早く読みたい(写真集に対しては「読む」という動詞で合っているのか? 「見る」ではなく?)。

 あー、でもやるべきことが12件あるんだった。まあいっか。いやよくない。このようにしてどんどん計画が後ろ倒しになっていく。困る。はやく八兆円(非課税)欲しい。さもなくばあの山のむこうに社会不適合者だけの小規模なムラを作ってそこに住みたい。

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