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20代後半の男性同士が友達になるには(前編)

 同僚の男と友達になりたいが、友達になる方法がわからない。
 彼は労働の際もサラサラのマッシュルームヘアを保ち、ワックスやジェルを付けたことは一度もない。黒の革靴しか履かず、紺かグレーの古風なスーツを着ている痩せ型の男性である。確かぼくより少し年上だったはずだから、20代後半ということになる。
 今こう書いていて、「初期のビートルズみたいな背格好だな」と気づいた。書き出すまで考えもしなかった。ジョン・レノンに憧れてるのか?

 彼と友達になりたいとおもうに至ったのは、おもに以下の点において性格の一致を見たと感じたからである。
 1、衣服に強い興味関心がある
 2、博物館や美術館が好きである
 3、多数派に対して懐疑的な視線を持つ傾向にある
 4、社会の最小単位は家族ではなく個人だと認識している


 各点について詳述する。 
 1、衣服について。ぼくと彼は同じ労働場だから、年収は両者とも八兆円以下のはずだ。皆様もご存知の通り八兆円以下はすべてハシタガネであり、つまり両者とも高給取りではない。にもかかわらず、両者ともそれぞれに衣服が好きだ。

 一昨年の夏の終わり、阪急メンズ東京の顧客向けイベントに行った(というかぼくが強引に誘った)時、「ぼくシャツが好きなんですよね」という話を「左様か」とおもって聞いていると、「ここ入っていいですか?」と彼はアレクサンダー・マックイーンに入った。これ丁寧なつくりですねなどといいながら1枚のシャツを見ている。一度袖を通してみたらいかがですかとそそのかして試着に至らしめたところ、なんとその10万円強(税別)のシャツを数分足らずで買いやがったのだ。生成色のシルクのシャツだった。

 同年秋には、彼がルブタンの革靴を買う決意を固めたという。もちろんスタッズが付いているような靴などではない。徹底的に無駄を削ぎ落としたまことに上品なストレートチップである。こんな珍しい機会はなかなかないとおもって「ついて行っていいですか」とこれまた強引に予定を取り付け、新宿の伊勢丹に同行した。彼は一瞬で試着を済ませ、10歩ほど歩いたのちにさっさと買っていた。
 こんなにも鮮やかなレッドソールで東京のアスファルトの上を歩けるのかと疑問におもって訊いてみた。曰く、「そうですねえ、どこ歩けばいいでしょうねえ」とのこと。貴族か?

 ぼくも労働の対価として小金を稼いでは、服または本と交換している。彼と違って、今はあまり国外のデザイナー/著者のものは手に取らないタチだが、衣服への偏愛には共感し得るものがあって、友達になりたいとおもうに至った。
 

 2、博物館・美術館について。これまでの言動から察するに、彼は西洋画が好きなようだ。SNSのアイコンもホドラーの『選ばれし者』の一部で、少年の横顔を切り取ったものだった。

    いまインテリぶって「ホドラーの……」などと書いたが、ホドラーって誰だよという話である。ぼくだって全然知らなかった。ホドラーはスイスの画家で、「19世紀末の象徴主義の代表的画家の一人であると同時に,ドイツ表現主義の先駆者の一人ともみなされる」そうだ(『世界大百科事典』【ホドラー】項より)。知らないことが多すぎるなあ。

    それで話はアイコンである。少年の横顔が描かれた油絵とおぼしきアイコンを見て、「このアイコン、なんですか? 自画像?」と言ってみた。
    こちらとしては「違いますよ!笑」などのような軽い笑いでも取ろうとおもっていたのだ。その思惑とは裏腹に、淡々と「ホドラーの『選ばれし者』です」と返された。「へ、へえ」と応えてその場でググるのと同時に、ほんとうにつまらないクソ野郎でごめんなさいという気持ちになった。

 その他の言動から判断しても、どうやら特に中世後期―近現代の西洋画が好きなのだとおもわれる。ぼくは象徴主義とかドイツ表現主義とかいわれても正直さっぱりなので、ざっくり「西洋画」といっているが、おそらくもっと細かい区分けやこだわりがありそうな気配である。
 
 一方、ぼくは西洋画そのものにはさほど惹かれることはなく(もちろん嫌いではないが)、それを取り巻く歴史のほうに興味がある。今はコロナ禍で足が遠のいているが、東京国立博物館の年間パスポートを所有しているため、あそこを〈わが屋敷〉と呼んでしょっちゅう行っていた。
 博物館という場が持つ、何千年分の(場合によっては何万年分の)時間をひとところに圧縮しているような独自の雰囲気に浸るのが心地よいのである。好みの展示品を見つけ、その物質が過ごしてきた時間をゆっくり解凍する感覚がいい。
 各展示をぼけっと見ながら散歩するのも好きで、はにわや土器などの原始エリアから順に時代を下ってくると、博物館の出口で現代に戻るような気分にもなる(現代に戻るときはいつもつらい)。ついでにいえば東博内を一周するだけでなかなかの距離になるため、運動不足解消にもなっている。似たような理由で東博だけでなく様々な博物館が好きだし、美術館にもしばしば足を運ぶ。
 
 もちろん博物館と美術館は厳密には異なる空間だ。しかし野球場などよりは博物館のほうが美術館との距離が近いのも確かである。ぼくと彼の専門領域も互いに重なり合う部分がありそうで、友達になりたいとおもうに至った。


3、多数派への視線について。ぼくは自身がひねくれ大魔神だという自覚があり、そこに弁解の余地はない。一方、彼は彼で「手前は十葉一絡げのしがない労働者でございます」などといわんばかりに振る舞いながらも、ごくまれに「分類されてたまるかってんだ」という眼をしている。話が合いそうな気配がする。

 その日もこういうことがあった。雑談をしていると、彼は服だけでなく、家具も好きだし、車も好きだし、腕時計も好きだといった。家具にも車も時計にも興味がないぼくはそれを聞いて、
「車・時計・家具・服って、80年代資本主義社会の男性が好きなもの全部ですね」と反応した。
「そういわれると当時の男性誌の読者層ドンピシャですね。なんでこんなふうになってしまったのでしょう」と無感情の顔でいわれた。
    そこで「別にいいんじゃないですか、そういう潔い生き方も。何が嫌なんですか」と訊くと、
「一般化されたくないですよ。そうじゃありませんか?」と、多感な中学生が聞いたら一発でシビれてしまうような台詞をしれっと吐いた。

 また、思春期以降どのような紆余曲折を経て今の服装に辿り着いたかという話になったときもあった。ぼくは一瞬、自身がいかにダサくてアホくさい格好をしていたかという話を披露して小笑い(できれば中笑い)を起こそうかとおもったのだが、彼が、
「若い頃にもっとトレンド先取りを狙ったり、尖った格好をしたりすればよかったです。そちらには踏み出せなかったんですよね」というので、おいおいこれは掘ればなんか出てくる匂いがするぜと勘付き、自分の話などそっちのけで詳細を訊いてみた。

    彼はすぐにスラスラと応えることはしなかった。ぼくも押したり引いたりして相手の言葉をなんとか引き出し、まとめると次のような回答を得た。

「どんな衣服であれ、誕生してからある種の文化圏に普及していった歴史があるわけですから、その歴史に則った着方・色・素材などの『ルール』を守るべきだと10代の終わり頃からずっとおもっていました。でも最近はモダンな着方にも少し理解があります。歴史主義者みたいな固さがとれて丸くなったのかな。そういう観点でいえば、ぼくも尖っていたといえるかもしれないですね」。

    話を聞いて「そうなんですね」と相槌を打ちながらも内心では「こいつぁめんどくせえ男だぜ!!!」と確信を得て狂喜乱舞した。ぼくは、本当は理屈っぽくてめちゃくちゃ面倒なのに常時はそれを隠そうとしている男が大好きなのである。よって友達になりたいとおもうに至った。


4、個人と家族の感覚について。これは言語化が難しい。別に「お疲れ様です。あなたは社会の最小単位は何だと認識されていますか?」「個人です」「奇遇ですね、ぼくも個人であると考えています。それでは」「そうですか。では」などといった会話をしたわけではないからだ。

    しかしこれまでの小さな行動・言動を状況証拠のように重ねると、彼は社会の最小単位が家族/家庭だなどとおもうわけがない、と確信せずにはおれない。具体例が書けなくて歯がゆい。とまれそのあたりの価値観が一致しているのではないかと感じ、友達になりたいとおもうに至った。


 以上が各点の詳述である。グダグダいってないでさっさと友達になればいいだろう、という幻聴が聞こえた。だからそのなり方がわからないんだ。
 そもそも〈友達〉ってなんだ。なにをもって友達と定義するのか? そのあたりを何人かの他者に相談し、友達のなり方についてレクチャーも受けたのだが……というところで、ここまでの文字数が原稿用紙10枚くらいである。ちょうどいい区切りなので、後半に続く。


とも‐だち 【友達】〔名〕(「だち」は複数を表わす接尾語)  志や行動などをいっしょにして、いつも親しく交わっている人々。単数にも用いる。友人。友。(『日本国語大辞典 第二版』。表題の画像)

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