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最終選考レビュー⑤『オカシナ記念病院』
『オカシナ記念病院』
著・久坂部 羊(KADOKAWA )
ユーモアは、幸福ではなく、不幸の発明品である。
と、昔読んだユダヤ人の本に書いてあった。
楽しい時ではなく、苦しい時こそ、笑いが真に必要になるのだ、と。
本のタイトルは忘れてしまったが、その説明自体は自然な説得力がある内容だったので覚えている。順境の中よりも、切羽詰まったときの冗談の方が、案外と腹の底から笑えるものだ。
ちなみに、だからこそ歴史的に逆境の多かったユダヤ人は、最もユーモアの上手い民族である、と自画自賛が続いていて、そこのところには首を傾けたことも覚えている。
残念ながら私にはユダヤ人の知人がいないので確かめようがない。
しかし、そう考えると、とかく重くなりがちな「医療」というテーマと「ユーモア」の相性は、実は悪くないどころか、絶妙な組み合わせなのかもしれない。
この「オカシナ記念病院」は、それを象徴するように現代の行き過ぎた「医療信奉」をユーモラスに、そしてシニカルに描き出す。
舞台は離島の総合病院「岡品記念病院」。
東京で最新の医療を学び、さらに「人間味のある医師になろう」と決意した主人公・新実一良は、離島医療を学ぶために研修医として岡品記念病院の門を叩く。
しかし、この病院がとんでもない病院だった。
先輩医師や看護師は積極的に治療をしようとはせず、診察では島民と無駄話ばかり。病院側だけでなく、患者側も自由気ままで、治療や薬の処方どころか、検査のためのレントゲン写真でさえ「それは、ええ」と断る始末。
この医療に対する「適当さ」を目の当たりにして、愕然とする新実。
病院の人間は、やる気のない腑抜けばかりのようだし、治療を受ける患者も厳しい現実が見えていない様子だ。そう考えて、これは研修場所を間違ってしまったぞ、と頭を抱える。
だが、すぐに新実は気がつく。
患者は無知ではなかった。
彼らは自分たちの「死期」を正しく理解していたのだ。
その上で、治療を拒否していたのである。そして病院側も彼らの選択を尊重していた。
とはいえ、治療すれば助かるかもしれない命を前に、何もしないのも我慢ができない。希望していないとはいえ、それは正しい医療知識がないゆえの可能性もある。
患者に唯々諾々と従うのでなく、主体的に治療をしたい、せめて治療ができないなら予防を、と新実は考え、在宅医療やがん検診、認知症外来など積極的な医療を行っていこうとする。
しかし、そうした取り組みも、段々と医療の問題を浮き彫りにしていくだけで……
というのが本の大まかな流れである。
一応、注意しておくと、ユーモラスといっても、抱腹絶倒のコミカルな小説ということではない。
主人公の新実は、医者として患者のためを思って必死に治療をしようとしている。ただ、それが癖の強すぎる医療関係者や島民たちに振り回されて、空回りしてしまうのである。
その様子がどこか滑稽なため、医療系小説にありがちな「暗さ」、「重さ」を感じさせない。しかし、それだけであって、取り扱っているテーマは他の医療系小説と変わらない「生と死」である。
いや、むしろ、とかくドラマティックに描かれるそれら以上に、等身大の「生と死」なのかもしれない。
実際、開始40ページほどで登場した肝臓がん患者の岡村さんと新実との掛け合いに、不覚にも目頭が熱くなってしまった。
彼は抗がん剤治療を拒否し、自分の死期を受け入れていた。
それでも朗らかな様子で、新実に「良い医者になれよ」と言って励ます。
着任したばかりの新実は明るすぎる患者を見て、狸に化かされたように、ぽかんとしてしまうが、自分は何故か胸を打たれてしまった。
「ドラマティックな医療の闘い」は描かれていないが、そこには確かに「生と死」が凝縮されていた。
こうした軽々とした患者の描写は、むしろ医者である作者だからこそ描けたものなのかもしれない。素人からすると、「医療の現場」というのは軽く取り扱ってはいけない聖域のような気がするからだ。
実際、患者が望むように「適当な治療をする」という岡品病院の治療方針の根拠として提示される知識の数々は、この小説の舞台が現実と地続きであることを否応無しに突きつけるほど、専門的かつ詳細な内容だ。
そして、だからこそ現実における「医療の不自然さ」を実感せずにはいられない。読者は、主人公の新実と一緒に説明を受けるたび「オカシナ病院」がおかしいのか、それとも社会がおかしいのか分からなくなって、いいようのない不安感につつまれる。
一方で、明らかに「フィクション」として描かれている部分もある。それは作者も自覚していて言及しているが「島民の死生観」である。
無闇に長生きを求めず、苦しくて長い生よりも、楽しく短い生を大切にする。不自然な延命よりも、自然な死を受け入れる。
その達観したとも言える「死」に対する姿勢が島全体に浸透していることを、明確にフィクションとして取り扱っているのだ。
そして、ここに作者のメッセージと希望を感じずにはいられない。
現在の医療における問題を解決するには、患者側の理解も必要だ、と言外に訴えかけてくる。
現実的な設定の中で生きるフィクションの島民たちは、現実の自分たち以上に「死」というものを考え、受け入れている。だからこそ「オカシナ病院」が理想とする医療方針と正しい関係を築くことができているのだ。
そして、自然な形で「死」と共生している島民は、同時に「生」というものに対しても遥かに大人だ。彼らの「人生」に対する向き合い方を通して、私は自分の「生」を考えさせられた。
もし現実に「オカシナ病院」が存在したとしたら、きっと大問題だろう。けれど、自分が亡くなる時はこんな病院で、と思ってしまうのだから無責任なものだ。
そう考えると、この作品が明るい空気を含むのにも作者の意図を感じてしまう。啓蒙書というのは、変に専門的な形をとるよりも、相手にあわせる方が適切なあり方だ。重い小説では読むのに体力が必要になるため、自然と読者を選んでしまう。
こうして手に取りやすい「軽さ」を持って生み出していただいたのは、読者として本当にありがたい。
巷で騒がれるコロナウイルスに関して、検査の問題が注目を集めている。
少ない検査の実施数に、政府の対応力を問題視する声もあがっている。
しかし一方で、やたらめったら検査をしてどうするのだ、という声もある。
これを書いている現在の段階では、コロナウイルスに対する確実な治療法はない。
仮に、検査をして陽性の反応があったとしても
「コロナウイルスに罹患している。しかし治療法はありません」
という状況だ。
医療現場のキャパシティは有限だ。
だが、軽症の患者(しかも治療法はない)が病院に押し寄せ、無駄に感染が広がれば、重篤な患者を命の危険にさらす。さらに言えば、医療関係者の手が、必要な患者に届かない可能性もある。
検査をしたところで、大きな意味がない、という主張も理解できる。
しかし、自分はこうした主張を耳にするまで、そうした可能性に思い至らなかったのが正直なところだ。検査というのは無条件で必要なものだと思っていた。
右往左往する世間の声や自分の考えで明らかになったのは、医療に対する理解不足である。
医療のあり方といっても、それは「制度の問題」というよりも「人間の問題」であることの方が大きいのではないだろうか。
この本は、それを人間味たっぷりの物語として描くことで指摘している。
今のこの時だからこそ、ぜひ一読していただきたい一冊である。