最終選考レビュー②「千歳くんはラムネ瓶のなか」
千歳くんはラムネ瓶のなか
著・裕夢(ガガガ文庫)
ちくしょー!と言いたいくらい爽快な小説だった。
最初は鼻持ちならない主人公だった千歳くんが、いつの間にか好青年となっている。それも「主人公が成長して」といった形式ではなく、「主人公の見え方が変わって」という形で。
主人公の言葉を借りれば、「相互理解を通して」キャラクター同士だけでなく、読者の認識が変えられてしまっている。
悔しいが、これが存外、心地良い。
あらすじをさくっと書くと、この物語は眉目秀麗な有能高校生・千歳くんが、引きこもりの男の子をプロデュースして、いわゆる「リア充」にしようとする物語。
これだけ聞くと昔に流行った『野ブタ。をプロデュース』を思い出す人も少なくない気がする。もしくは、文学好き・映画好きなら『ピグマリオン』や、『マイ・フェア・レディ』の方が馴染みがあるかもしれない。
社会階級の上位にいる人間が、下位にいる人間に手を差し伸べ、上に引き上げるという形式。
立場を超えた強い人間関係という構造と、「爽快」という感想から、なんとなく「ああ、イメージできるわ」という意見も出てきそうだ。
早合点はよしてくださいな。
むしろ自分は、そうした「青春もの」とか「恋愛もの」とかでなく、「ヒーローもの」をイメージした。
というのも、本を読みながら、気になっていたのは、
「これは誰に共感をすれば良いんだ?」ということ。
一般的な小説作品が寄り添う相手として作り上げる「主人公」にしては、現実離れした完璧さの「千歳くん」。寄りかかろうにも、オーラが違い過ぎて、読者は弾き飛ばされてしまう。とくに序盤においては、共感というより敵意の方が集めやすいんじゃないだろうかと思わずにいられない。
(多分、作者の意図だと思うけれども)
そして、主人公の周りに集まるキャラクターたちも、この作品の言葉を借りるなら「スクールカーストのトップ」に君臨する王子様・お姫様たちで、完璧主人公と同じ部類の人間ばかり。共感なんて、カケラもできやしない。
そんな超絶キャラクターたちに爪弾きにされてしまった孤独な読者(私)に、作者は愛すべき人物を用意してくれる。それがプロデュースされる側の引きこもりオタク・我らが山崎くんである。
初期の登場からして、もうその器の小ささ・俗っぽさがたまらない。彼の主人公に対するあまりの敵対姿勢・小物ぶりは、「リア充VS非リア充」を連想させ、「卑屈な非リア充を正論という棍棒で、ギッタギタにしてしまってからの、リア充への調教&俺TUEEE物語の展開ではあるまいか」と危惧してしまったほどだ。
でも、そんなわかりやすい「エセ勧善懲悪物語」が、推薦した読者や選考委員Aさんの支持を得るはずがない。
先に書いたように完璧超人・千歳くんはそのカスピ海のような広い器で、山崎くんを受け入れ、彼の改造計画を実行していく。つまり山崎くんも、敵ではなく「読者にとってのこちら側」になるのだ。
もちろん、世の中には「あ、この千歳くんって主人公、自分にそっくり!」とシンパシーを感じる奇特な人間もいるかもしれないが、そんな人は少数だろうし、仮にそんな人がいれば、即刻こんなレビューなど見ずに帰ってもらいたい。
私の器は、千歳くんのカスピ海と違い、水溜りなのです!!
で、長くなってしまったが、なぜこれが『ヒーローもの』かというと、この「ヒーロー」&「一般人ゲストキャラ」という構図が似ているのだ。
イメージとしては『ルパン三世』が分かりやすいかもしれない。
ルパン・次元・五右衛門・峰不二子という「超絶優秀グループ」と、彼らに助けられる一般のゲストキャラクターという構図。
チーム・千歳くんと、支えられる山崎くん。
読者はルパンに惚れるように、山崎くんに共感しながらも、ヒーロー千歳くんを好きになっていくのだ。この構造に、『千歳くんは』を読んでいて、なんとなく既視感を覚えたのだと思う。
ただ、この作品が面白いのは、これがカッコイイだけのお助けヒーロー物語で終わらないこと。
もちろん、山崎くんの中の眠っていた力が都合よく目覚める、なんてご都合主義なことはない。気持ち良いくらい、ただの一般人。でも、彼は地道に努力する。弱いくせに、助けられるだけの無力なヒロインでもない。それが気持ち良い。
そして月並みでないのはヒーロー側だって同様だ。千歳くんにも千歳くんなりの悩みがある。
ヒーローである、というだけで背負わなければいけない嫉妬や敵意。
ヒーローであり続けるために支払わなければいけない努力や責任。
ヒーローにも人間としての悩みがあるのだ。
そうした姿を見せつけられると、完璧にみえた千歳くんも、ひとりの高校生に変わる。(まあ、そう表現するには凄すぎる高校生だけれども……)
この物語の秀逸な点は、「人間模様」を、そうした「リア充」と「非リア充」という2つのフィルターを通して見られること。
そうすると面白いことに、2つの影は「より良い人間になろうとする姿」として一つの像を結ぶのだ。
頑張っている人間は素敵だ。
卑屈オタクの山崎くんは、リア充になろうと「努力」をする。
一方で読者は完璧超人・千歳くんの後ろに隠れていて見えなかった「努力」を見つける。
この作品は、スクールカーストの下にいた山崎くんが千歳くんの手をとって出世するシンデレラストーリーでも、立場の違いを超えて友情を結ぶロミオとジュリエットでもない。ましてや、超人と引き立て役の単純なヒーロー物語でもない。
そうした爽快さはあるが、それとは別に「立派な人」になるための努力をした人間と、これからする人間。その二人を主軸にした、作者が贈るコミカルで爽快な人間讃歌的「応援物語」だと自分は思っている。
作中の千歳くんの質問が、読者の(というか自分の)胸にグッサリ刺さる。
「だいたいお前は才能の差を語れるほどに何か頑張っているのか?」
「頑張ろうぜ」という単純な応援文句でなく、
「誰もが羨む人間だって、努力をしている。愚痴を言うくらいなら、頑張れよ」という、ちょっと強めの愛あるビンタが付録についた応援物語だ。
昨年、事故を起こした元高級官僚への対応が甘すぎるのではないか、ということがニュースになり「上級国民」という言葉がネットを騒がせた。
「現実の格差が不満の背景にある」と、誰かがコメントしていたが、この作品を読むと、むしろ格差よりも、時代の閉塞感や自己肯定感の欠如の方だって、理由として大きいような気がしてくる。
千歳くんが定義する<本物のリア充>。いわゆる「自分なりの価値観を持ち、憧れに近づくために自身を磨き続ける人間」が、先の言葉を使っているようなイメージは確かに沸かない。
そういう意味では、推薦時にあった「ラノベ好き以外にも読んでほしい」という言葉もよく理解できるし、自分も同感だ。
努力が軽くないこの現代、誰にでもエールは嬉しいものなのだから。
青春モノ、恋愛モノ、友情モノ。
色々あるが、あまり通り一遍のカテゴライズでこの作品を見ないでほしい。前向きな力をもらいたい、と素直に思われる方に手にとってもらったら嬉しい作品です。