公募ライターからコピーライターへ。ぐうたら学生が夢を見つけてしまった頃のハナシ。

いわゆる“滑り止め”の大学にだけ合格し、大した目的も持たないまま、ダラダラと過ごしていた3回生の春。まさに、ぐうたら学生という言葉そのものだった。時代は、まだ昭和。21世紀がやってくるのは、それから14年後だ。そこそこ講義を受け、そこそこの成績で、そこそこバイトし、そこそこ遊び、そこそこ恋らしきものもして。だけど、ぼちぼち就職のことも考えなきゃいけない。こんな自分に“そこそこ以上のもの”って、何かあるだろうか?と不安を感じ始めていた。で、たかだか20年ほどの人生を振り返って、思い出した。俺って、文章を書くのが好きだったし、得意やったわ!と。小・中・高の間、作文・感想文・作詩などで、ほぼ毎学年、何かしら賞をもらっていた。友人に頼まれ、千円もらって代筆した感想文が県で金賞をとったこともあった。小学5年の夏休みの日記はすべてフィクションで、40日分を1日で書き上げた。中学の文化祭で歌うために作った楽曲の作詞もした。弁論大会も3年連続でクラス代表に選ばれ、3年連続で入賞した。ただ、輝かしき過去の栄光を思い出したのはいいが、それで?と、なってしまった。

そんなある日、大学のそばの書店で目にしたのが『公募ガイド』だった。何気なく手に取り、ぱらぱらページをめくると...「あなたも短歌を書いて賞金何万円」とか「作詞コンテスト 大賞何十万円』という文字が飛び込んできた!就職には関係ないだろうけど...思い出した自分の“そこそこ以上のもの”を試してみるか?と思った。手っ取り早く書けるもの、俳句・川柳・短歌、作詞やショートエッセイ、標語などに片っ端から応募してみた。書くことには、それほど苦労しなかった。というか、ただただ楽しかった。当時ネットはなく、ひたすら原稿用紙や葉書に書き、郵送。流石にいきなり1等賞!という訳にはいかなかったが、佳作、入賞、銅賞、審査員賞などなどの連絡が続いた。賞金は最高で3万円、賞品はテレホンカード(時代ですね!)や図書券が多く、お酒やTシャツもあった。数ヶ月は、浮かれた時期が続いた。そして何冊目かの『公募ガイド』で見つけたのが“宣伝会議賞”だった。

“宣伝会議賞”は、広告表現のアイデアをキャッチフレーズまたはCM企画という形で応募する公募広告賞。コピーライターの登竜門と言われ、あの糸井重里氏も若かりし頃、受賞されていた。大賞は当時50万円!だった。CM企画はともかく、キャッチフレーズなら簡単に書けそうだ!と思ってしまった。たった1行、わずか数文字で50万円!書くしかない!応募するしかない!課題は『宣伝会議』という聞いたこともない月刊誌に載っているらしい。『公募ガイド』を買うのと同じ書店で買い求め、4畳半のアパートに戻った。キャッチフレーズなんて簡単に書ける!が、大いなる勘違いだと気づいたのは、その課題を見たときだ。なにを書けばよいのか?どう書けばようのか?...まったくわからない!そもそも広告なんて、気にしたことがなかった。しっかり読んだこともない。なにもわからないまま、とにかく、とりあえず、キャッチフレーズ(らしきもの)を原稿用紙に書いて送りはしたが...そんなことで入賞するはずはなかった。

数ヶ月して、金賞をはじめとした入賞作が掲載された『宣伝会議』を購入した。そこに載っている数々のキャッチフレーズに、へぇ〜!なるほど!そっかぁ!と、何度も何度も唸った。私はそこで、コピーというものの虜になった。いや、コピーという魔物に取り憑かれたのかもしれない。そして誌面に、“宣伝会議 コピーライター養成講座”を見つけてしまった。京都から大阪の会場に通うこともできたが、スタートする時期と学費の安さを考えて通信添削コース(今はないと思う)を受けることにした。送られてきたテキストを熟読し、大切と思う箇所にアンダーラインを引き、自分なりにまとめ直し、ノートに書いた。そして、出された課題に対してコピーを考え、意図と共に書き、送り、プロのコピーライターに添削してもらう。赤ペン先生さながらに、自分が書いたコピーが真っ赤っかになって返ってくる。何度も何度も打ちのめされ、落ち込む日々が続いたが、だからこそ、ごく稀にあるお褒めの言葉が、とてつもなくうれしかった。あぁ、コピーライターになりたい!なろう!なるのだ!という思いが日に日に増し、就職はコピーライター1本!それ以外は考えない!受けない!と決心した。すべての始まりは、『公募ガイド』だった。

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