お互いに心地よい、会話の距離感を求めて
よく疲れている時ふと思うことがある。
あれ、私全然面白くないのに「笑っている」ことがあるなって。
これに気付いた理由はちょっと前にまとりえさんはゲラだよね、と言われたことだ。要するに笑いの沸点が低い、よく笑う人ということ。今まで人に言われたことがなく、そうなのか…くらいにしか思わなかったが、あとでよくよく考えると一人でいる時に心の底から笑ったのは一体いつだったっけ、と思うくらいしばらく笑っていない。
逆に人といる時、特に気を遣うタイプの人と話し終わったあと(もしくは最中)、決まって私は口角筋もしくはおでこがものすごく凝った感じがするのだ。本当に気を遣うタイプの人だと、話している最中から本当に耐え難い凝りを感じ、話しながらマッサージをしだす始末だ。
つまり、全然自分では気づかない無意識のうちに、相手の話に(思ってもいなくても笑うこと含め)オーバーリアクションしてあげることで相手との会話を心地の良い場にしようと心がけていたのだ。相手が話しやすいなとか、心地よいなと思ってくれる分には嬉しいし、よかったなとは思う。でもそれ以上に、自分がとんでもなく疲労していることに気づくと、次また同じように会話をしたいという気には到底なれない。
元々個人的には、会話は聞き役6割、話し役4割くらいがおそらくちょうど心地よい割合なのだが、例えば聞き役9割、話し役1割みたいに極端に聞き役に回るなどバランスが崩れると居心地が悪い。そしてこちらが話す時は、こっちはこんなに配慮しているんだからそちらも同等の配慮をしてよ!と配慮を押し付け一方的な被害者意識を持ってしまうことがさらなる疲れにつながっている気はする。
この悩みは割とあるあるなのではと、個人的に思っている。例えば女性2人組のカフェでの会話は、大体片方の人が9割話し続け、もう片方は聞き役に徹していることが多い、というのが長年のカフェワーカーとしての個人的リサーチ結果だ。
自分が「正しい」と思いたい人間の性
ちょっと意地悪なのだが、先日こっそりあるABテストをしたことがある。気心知れた長年の付き合いの友達に、
①いつもと変わらず会話のリアクションを欠かさず会話をする
②相手がこちらの会話に対してする同じような対応をするの2パターンを試し、相手の反応を見る
というものだ。
というもの、こちらがした話に対して全く会話の内容を汲み取っていないリアクションを返してきたり、無反応だったりという反応が気になるようになってきたからだ。もちろんこちらが気にしすぎという可能性が大いになるのだが、自分のオーバーリアクションがどのように会話に影響を与えているのか、そしてこのリアクションをしなくても会話が和やかに進むのであればそれはその方がいいのではないかと思った。
①のいつものパターンは、相手が例えばある話をした時に、へ〜、そうなんだ〜などの相槌以外にも、相手の会話の内容を汲み取った適切な返答をする。そして、相手がその会話に対してどう思っているかを感じ取り、その感情に合わせた表情をこちらもするというものだ。文字に起こしてみると、何やらたいそう面倒臭いことをしているのだなと自分で実感したのだが、これを無意識でやるくらいには聞き役に徹することが刷り込まれているのだ。そうすることで、相手は自分の話に満足してくれている、楽しんでくれていると満足し自己肯定感が上がる。さらには同じ話を何度も繰り返しする傾向が高まることがわかった(個人調べ)
一方、②のように相手がどのように自分の話に対してリアクションをしているかを観察し、本当に同じような対応をとるパターン。具体的にいうと、その友人の場合は話を終えたタイミングでノーリアクション、嬉しいとか悲しいとか特に表情もなく真顔、なるほど〜、そうなんだ〜などどのような会話でも比較的汎用的に使える相槌をするなど。この反応が悪いと思っているわけではなく、単にまるきり真似をしてみてどう思われるのか検証するのだ。すると、面白いことにかなり変化があった。いちばんの変化は、自分の感情に同調させようとする言葉が増えるということだ。〜と、こう思ったんだよね〜と自身の感情を伝えたのち、反応がないことを確認すると、こう思わない?とか、〜だよね?と遠回しだが自分が正しいのかどうかと確認をするような動作が多々見られた。
つまり、こう思った自分は正しい、だから話を聞いてもらった相手にも「正しさ」を認めてほしいみたいな、正しさや共感の証明を求めてくるのだ。この正しさ証明をたくさんしてくれる人ほど、自分のことをわかってくれるし、自分はやっぱり正しいと証明する裏付けとなり、気持ちよく話せる可能性が高い。でもこれって、よく言われる言葉のキャッチボールができているのではなく、バッティングセンターみたいに、一方的に投げられてくるボールを正しく打ち返せるかどうかみたいなものになっていないか。会話の違和感はこの差から生じるのではないか。
会話の心地よさとは
ちょうどこの話を書き始めたくらいに、本当に同じような話を書いているエッセイに出会ったので紹介する。noteでもお馴染みの塩谷舞さんの『ここじゃない世界に行きたかった』にででくる「人の話をちゃんと聞いていませんでした」というエピソード。これは、私とは逆の話すことがとっても好きなタイプの方の視点で書かれているものの、「正しさの証明をすることに精一杯」だから話しすぎてしまうという「自分は正しい」ということを主張するという気づきを得ている点で共通している。
自分の正しさを証明せずに済むにはどうしたらいいのか。
塩谷さんは、どちらかが相手の話を聞けば、正しさの証明合戦が終わったという素敵なエピソードを紹介されていた。ただ、私のような聞き手に回ってしまうようなタイプでも心地よく会話をするにはどうしたらいいのか。
個人的に感じるのは、じゃあこちらも聞かなければいいじゃないか、という単純な話ではないということだ。相手の話を聞かないことは、正直相手へのリスペクトが足りない行為であると思う。どんな会話でも相手から綴られる言葉には意味があるし、その人となりがわかる大事な行為である。でも、聞きすぎる、相手への配慮…とかおもいすぎてしまうと過度なリアクションで自分が疲弊して結局は距離を取ろうなんて結論に陥ってしまう。
いまのところの私の中の結論としては、程よい聞き手になるということだ。例えば自分がやっていることとしては、普段は特段気にせず会話をする(無意識の配慮をやめない)のだが、同じような会話を何度も何度もされた時、ちょっと水を差してみるのだ。嫌味に聞こえない程度に、「その話何回目〜笑」とか、結論を先にこちらが言ってしまいそのエピソードトークをクローズさせるなどだ。相手にとっては気持ちよくはなせるエピソードを邪魔されたことにはなるが、自分が同じエピソードを何度もしている自覚がない場合が多いので、そこで初めて気づき、以後あまり話さなくなること多い。長年の友人であればあるほど、お互いの関係維持のためにも、ちょっと気づきを与えるかつ嫌味ではない程度のゆるい指摘ができることも大事なのだ。
正直指摘をするのも考えすぎてしまって疲れるタイプの人間ではあるものの、ちょっと言うだけで変わるならお互いの関係性維持のためにも、やってみる価値はあるのかも知れない。こんな感じで、小さな小さな改善を繰り返し、心地よい会話にできるだけ近づけるような努力を重ね続けるのだった。
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