逃避する思考


〜毎日短編チャレンジ9日目〜

冷蔵庫には卵2個と缶ビール1本しかなかった。
少し考えてから、卵2個を取り出してキッチンの引き出しに常備しているツナ缶を1つ取って、その流れでフライパンもコンロにセットした。
油をさっと引いて、火を点ける。
卵を皿に割って溶いていく。
この音が結構好きだ。
フライパンがいい具合に温まったので、卵を一気に入れていく。
ジュッと音を立てた。
少しかき混ぜてトロトロになるように焼いていく。
ツナ缶を開けて卵に味付けしていないのに気付いたが、まぁ自分が食べるし良いや、で落ち着いた。
真ん中にツナを入れて、卵で包んで皿に盛った。
湯気が勢いよく上に立ち昇っていく。
うん。成功だ。美味しいだろう。
醤油を少し垂らし、白ごはん、お箸を食卓に並べた。
冷蔵庫を再び開けた。
ごくり、と喉を鳴らして缶ビールを持ち、その場でバルブを開けた。
プシュッとビールが解き放たれた音が、いつも私の休みを始めてくれる気がする。
明日は仕事に行かなくて良いんだ…。
喉に流し込んでいく。
いつからこの味が美味しいと感じるようになったのか、ほとんど覚えていない。
成人した時もまだ飲めなかったのに。
「疲れが人を大人にさせるのかな」
独り言はこの部屋にふわっと浮いて残る。
そんなイメージが私にはある。
誰かが来た時、この部屋から感じるものがあるとしたらきっと私が残している独り言だ。
明日こそ、そんなものを一切無くすような、吹き飛ばすような掃除がしたい…。
食卓に戻り即席で作ったツナオムレツを食べる。…美味しいなぁ、やっぱり。と思いながらテレビを付けた。
「独りで恋人がいる体で生活してます」
タレントのその一言が終わると、えー!と皆驚くリアクションをしている姿が映った。
私は思わずどういうこと、と前のめりにビールを呑み進めた。
その生活スタイルを撮影した映像が流れる。
本当に一人で会話してるし、ドアの取っ手に服が引っかかっているのを恋人が引っ張っている体で会話している。
思わず、声を出して笑った。
面白すぎる。
発想が天才的じゃん。友達に欲しい。
「冷蔵庫の中身あんま無いの恋人のせいにしようかなぁ…」
本当は休みの日くらいにしか買い物に行きたくなくて、買ってないだけだが。
なぜだか隙間だらけの冷蔵庫を見る度に寂しくなる。
それが、誰かが食べたせいにすればむしろ良いのかな…。
スマホが震えた。
直樹からメッセージだ。
『お疲れ様。いつ会えそう?』
直樹は恋人のはずなのに、もう1ヶ月くらい会っていない。
私の職場での立場が昇格してからだ。
あれから目まぐるしく環境が変わってしまった。
自分すら変わった気がする。
誰かを守りながら、しっかりと仕事をしていくというだけで全然違う。
明日はダラダラして、昼くらいから掃除したいし、明後日はゆっくり起きて少し仕事をまとめたいし…。
直樹に会う優先度が自分の中でとてつもなく下がってしまった気がする。
なら、もう別れた方が彼の為だろうなとも思う。
ビールを喉に流し込んだ。
酔って思考を止めたくなるこの衝動は、なんて説明すれば良いんだろう。
こんなはずじゃなかったのに…。
上手くいくって信じて進み始めた道が揺らぎ始める。
今真剣に考えなければ、この先揺らぎが良くなるなんてないだろう。
それでも酔っ払って、揺らぎは正常だと思わせる。
今は考えたくない。
仕事をサボりたがる後輩も、出る杭は打ってやろうと戦ってくる上司も、あまり話しかけてこなくなった同僚すらも、全部忘れたい。
酔って、自分。
今に負けない為に。
これは逃避だろうか?
だとしても必要逃避だと自分を信じる。
テレビを見て笑う。
これも必要逃避だ。
「私は戦ってんだよ…会える訳、ない」
戦場からは逃げない。
それだけで必死なんだ。
また独り言が、この部屋を作る。
ここは給水所なのに。
私は立ち上がって、カーテンを開け窓を全開にした。
勢いよく冷たい風が出入りして、頬に当たる。
ひりひりと痛い。
冬の風は冷た過ぎて、もう酔いが覚めてしまいそうだ。
真っ暗な空に星が沢山見えた。
「…こんなに見えるんだ」
風と共に、私の独り言がひとつずつ旅立つ。
「おーい」
下から声がした。
直樹が立っている。
「え?!なんで!」
「なかなか会えないから、来た。
でも疲れてると思うし…これ、届けに来ただけ」
手には私の好きなドーナツ屋さんの箱。
「…」
ありがとう、ごめんね、私、余裕なくて…。
何から伝えるべきか迷って、結局何も言葉に出来ない。
「そしたら急に出てきて、びっくりした」
直樹が笑う。
「じゃ、そっち行くねー」
そう言ってマンションに吸い込まれて消えていく。
急いで部屋に戻って、ティッシュで鼻を押さえる。
メイク、落ちちゃったかも…。
ダメだ、崩れる。
程なくしてインターホンが鳴る。
ドアを開けると、直樹がドーナツ、と言って箱を渡してきた。
「…ごめん。ありがとう」
「…迷惑、だった?けど心配でさ」
「…嬉しい、ほんとに」
「…」
直樹が顔を見ている気がして、目を合わせられなかった。
最低だ、せっかく来てくれたのに。
「…遥(はるか)。弱いとこ、見られるの嫌?」
直樹が一歩踏み込んで来たので、ドアが閉まった。
ガチャリ、という音が私の中に響いた。
「嫌だよね…きっと。
でもさ、俺は寂しいよ、そういうの」
鼻の辺りがボヤけてきた。
ちくり、と胸に刺さるような言葉が、鼻や目に刺激を与えてくる。
堪えろ、堪えるんだ。
「…ごめん。帰る、ね」
「ごめん」
咄嗟に出た言葉は、こんなのしか無かった。
またドアの音が響いて、さっきまでの人の存在が今1人で居ることを浮き彫りにさせる。
ドーナツの箱が、少しだけ濡れた。
「ごめん」
何それ、なんなの自分…。
泣けばよかったのだろうか。
弱音を吐けばよかったのだろうか。
そのどれも出来なかった。
ドーナツも、直樹も嬉しいはずなのに、本音は泣きたくないのになんで来るの、だった。
弱い自分を見せたくない、じゃないの。
弱い自分を実感したくない、なんだよ。
溢れ出した涙は止めどなく、酔いを覚ます。
覚めた私は思い出すんだ。
腹が立ったこと、悔しかったこと、苦しかったこと。
全部戦ってたらキリが無いのに。
「それでも直樹は悪くない」
私は私にそう呟く。
だから、ごめん。
ごめんね。
開いた窓から、小さくなっていく直樹の背中に向かって呟いた。

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