ロンドン滞在記:インペリアル・カレッジ・ロンドン2
部屋の紹介の続きと窓からの風景について書きます。窓から眺めると、煙突ある建物とない建物が混在しているのが分かります。なぜ煙突が消えたのかということで、ロンドンスモッグ事件について紹介します。
その流れで、霧の都ロンドンと日本で初めて記録された光化学スモッグについても見ていきたいと思います。
インペリアル・カレッジ・ロンドン1もご笑覧いただけると幸いです。
部屋の紹介
部屋の灯り
この部屋の電灯は、なんとこの間接照明の電灯だけです。夜は、本当に暗いです。本を読むのは、辛い。
これに机の電気スタンド、たったこれだけです、部屋の照明は。
イギリスらしいです。
ユニットバス
洗面台、トイレ、それにシャワーです。お湯はふんだんに出ます。
トイレは、もちろんウォシュレット付きではありません。
バスタオルとタオルは、一応持参したのですが、ついていました。
部屋の窓から
蹄鉄の音で目覚めて、慌てて撮影しました。騎馬警官です。何とか3頭のうちの後2頭を撮ることができました。
写真の中央部分の、白い建物と、手前のレンガ作りの建物の間の通りを行く、騎馬警官です。
バッキンガム宮殿も近いですし、ハイド・パークもすぐ裏手にあるので、騎馬警官が巡回しているのかなと思いました。
写真の左側にある建物は、教会です。
いずれ紹介したいと思います。
滞在している部屋は、4階にあるのですが、日本風に言うと、5階建ての5階にある部屋です。
多分、高さ規制があるからだと思うのですが、周りは中高層の建物が多く、その結果、空が広いです。眺めも良いです。
裏通りだからだと思うのですが、交通量が少ないです。よって、とても静かです。
窓はずっと開けっ放しにしているのですが、都会の真ん中とは思えないほどの静けさです。
画面手前に見えるレンガ作りの建物だけでなく、先ほどの騎馬警官が写っていた白い、2階建ての建物にも煙突があります。家庭内暖房が石炭によっていた時代の名残です。
20世紀半ばまでに建てられた建物には、煙突がついています。煙突は絶対に必要だったのです。
しかし、20世紀の後半に建てられた建物からは煙突が消えました。
そのことについて、少しだけ勉強したことを書きます。
霧の都ロンドン
19世紀のヴィクトリア朝時代のロンドンでは、後にスモッグと呼ばれることになる霧が、冬になるたびに発生していました。「霧の都」と呼ばれるにふさわしい状況になっていたのです。昼間から街灯がついていなければ歩けないほどだったそうです。
ここで言う「霧」とは、朝方に街中が真っ白に覆われるfogのことではなく、薄ぼんやりと街を包み込むsmogのことです。
スモッグとは
「スモッグ」という言葉が初めて世に出たのは、1893年1月19日付けのロサンゼルス・タイムズの記事によってでした。a witty English writer によって書かれた記事からだそうです。
しかし、この言葉が一般化するのは、それからおよそ10年後の1905年に開催された公衆衛生学会からでした。
「Fog and Smoke」という論文を発表したアンリ・アントワーヌ・デ・ヴォー医師による学会発表からのようです。
医師は、ロンドンで見られる霧は、普通の「霧」ではなく、石炭の煤煙(smoke)と霧(fog)とが合体したものであると見なしたのです。そして、ロンドンの霧を、スモッグ(smog=smoke+fog)という合成語で呼んだのです。
ロンドン型とロサンゼルス型
ロンドン型のスモッグは、家庭用の暖房のために焚く石炭や発電のための石炭の燃焼による煤煙が主体となって発生するものです。これに対して、自動車の排気ガスや石油系の煤煙で汚れた大気汚染を、ロサンゼルス型スモッグ、あるいは光化学スモッグといいます。
光化学スモッグと日本
日本でも1960年代の高度成長の裏の側面として公害が深刻な問題となっていました。大気汚染による喘息も発生していました。各地で公害反対運動が盛んな時代でした。
日本で光化学スモッグが一般に知られるようになったのは、1970年のことです。女子校のグランドでの体育の授業中に、生徒たちが、目の痛みや喉の痛みを訴えたのです。これは大きなニュースになりました。
この記事だと、立正中学高校は、あたかも環七通りの近くで、自動車の排気ガスが多いところに立地しているようなイメージですが・・・。
実際は、青梅街道や環七通りから奥に入った、閑静な住宅街の一角にあります。空気もきれいなところです。
この時、私は、東京で予備校通いをしている浪人生でした。そして、たまたま下宿していたのが、杉並区松の木の、この記事に書かれている立正中学校・高等学校の隣だったのです。
それまでの大気汚染の公害は、京浜工業地帯の川崎や四日市コンビナートがある四日市などの、明らかに工業地帯だったのです。
それだけに、この光化学スモッグ事件は、ショッキングでした。
ロンドンスモッグ事件
1952年12月5日に、ロンドンで発生した非常に濃いスモッグは、住民の呼吸器官や身体に大きなダメージを与えました。
その当時、ロンドンは高気圧に覆われ、冷たい霧が出て、市民は暖房にいつもより多くの石炭を使用しました。無風状態も手伝って、煤煙と霧はロンドン上空に分厚いスモッグの層を形成したのです。
その濃さは、「前が見えなくて車が運転出来ず、交通が大混乱」「劇場ではオペラが見られず上演中止に」というほどのものでした。
それだけでなく、屋内外に有害物質が蔓延したのです。
スモッグは、発生して5日目の12月9日に、天気が変わることで突然に消えました。
しかし、スモッグが発生して5日間で亡くなった人の数は、4,000人と言われています。スモッグが出るまでの1日の死亡者数は300名で推移していましたが、スモッグが発生すると、1日に400人以上が亡くなるようになり、最大では1日に900人ほどが亡くなるという事態が生じました。
コロナよりひどいですね。
この後も死亡する人は続き、合計で1万2,000人の犠牲者を出したと言われています。大気汚染としては、史上最大規模の公害となりました。
立法による石炭暖房の禁止
このロンドンスモッグ事件をきっかけに規制が進められ、事件から2年後の1954年にロンドン市の条例によって石炭を使った暖炉の使用が禁止されました。1956年、そして、1968年の「大気浄化法」の制定で、全国的に全面的な禁止となったのです。
ということで、煙突がついている建物は、1950年以前に建てられたもので、それ以降の建物には煙突がついていないという小ネタでした。
本日も最後までお付き合いいただき感謝です。
ありがとうございました。
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