パリスの審判:7.ヘレネの誘拐
王子となったパリスは、父トロイア王にお願いしてスパルタ行きの船を造ってもらいます。アフロディーテによって約束された「世界一の美女を娶る権利」を実行するためにです。
世界一の美女ヘレネは、すでに人妻でした。だからアフロディーテによって約束されたヘレネを娶るということは、それはすなわち、スパルタ王妃と不倫することであり、人妻を拐かすことでした。
結果として、「ヘレネの誘拐」という事態を生起させることになります。
アフロディーテは美と愛の女神であり、パリスがヘレネを娶ることは女神が保証したことです。であれば、ヘレネは本当に誘拐されたのかという疑問が残ります。それを解明するのが、本日の投稿です。
パリス、トロイアの王子に
山に遺棄し、すでに亡くなったと思っていた息子が、たくましく美しい若者になって戻ってきたのです。王プリアモスと王妃ヘカベの喜びは、筆舌に尽くしがたいものでした。喜びに我を忘れ、羊飼いのパリスを、トロイアの王子として迎え入れたのです。
そもそもパリスを捨て子にした理由は、夢占いでトロイアに滅亡をもたらすという夢占師の助言によるものでした。パリスは、トロイアにとって呪われた子供だったはずです。
国王夫妻は、その予言を忘れたのか、それとも捨て子にしたことに対して罪の意識を抱えていたがゆえに、敢えて目をつむったのでしょうか。
トロイアの王子パリス、スパルタへ
さらに王プリアモスは、捨て子にした負い目からか、パリスの言いなりになります。つまり、どうみても国に禍しかもたらさないような企て、すなわち、スパルタ王妃「ヘレネの誘拐」に加担するのです。
パリスは、スパルタに赴くための豪華な飾りのついた贅沢な船を、王に建造してもらいます。女神アフロディーテがパリスに約束した、「世界一の美女を娶る権利」を実行に移すためです。
パリスは、王に建造してもらった船にスパルタ王妃ヘレネの歓心を買うための贈り物をたくさん積み込んで、スパルタに向けて出発しました。
「ヘレネの誘拐」
たくさんの贈り物を持参したトロイアの王子の訪問ですから、当然、スパルタでは大歓迎されました。
10日目に、スパルタ王メネラオスが、母の父カトレウスの葬儀を行うためにクレタ島へ旅立ちます。
王の不在を待っていたかのように、パリスは、王妃ヘレネを口説きます。アポロドーロスは次のように書いています。
つまり、パリスに言い寄られ、口説かれたヘレネは、「9歳になるヘルミオネーを後に残し、大部分の財宝を船に積み込み、夜明けとともに海に出た」のです。
ヘレネは、誘拐されたのか
このヘレネの行為をどう判断すれば良いでしょうか。
「ヘレネの誘拐」を描いた絵画には、誘拐ではなく、拉致だと思えるものもあります。
誘拐と拉致とは似ている言葉ですが、意味は少し違います。
拉致というのは、辞書によれば、「本人の意思とは関係なく、無理矢理連れ去ること」です。例えば、北朝鮮による日本人の拉致事件のように、ある日突然、下校途中の女子中学生が、上陸した北朝鮮の工作員によって、連れ去られるようなことです。一緒に来ないと殺すぞという脅迫的手段によってか、暴力的に拘束されて連れ去られるという場合です。
つまり、拉致は、本人の意思とは関係なく有無を言わさず無理矢理連れ去ることです。
ヘレネの場合はどうかというと、アポロドーロスの『ギリシア神話』を読む限りでは、パリスと従者が暴力を使って無理にヘレネをスパルタから連れ出してはいません。ヘレネは、自分で身支度をし、それどころか自分の全財産をもって出奔しているのです。よって、明らかに拉致ではありません。
では、「ヘレネの誘拐」というタイトルで絵は描かれていますが、誘拐説はどうでしょうか。
拉致と誘拐では、その手法が違います。
誘拐は、辞書によれば、「本人を言葉巧みに騙すなどして自発的に連れ去ること」です。
つまり、誘拐というのは、相手を甘い言葉で誘ったり、あるいは、相手の善意に付込んだりして、自発的に付いていったり車などに乗りこませたりして連れ去ることです。
例えば、「道を教えて」とか、「お母さんが怪我して病院にいるから一緒に行こう」などという言葉で巧みに誘い、対象者を「自発的に」車に乗り込ませて連れ去るようなことです。
誘拐は、子供が被害に遭うことが多いようです。
今から60年前、私が小学生の頃は、吉展ちゃん誘拐殺人事件を皮切りに、幼児誘拐事件が多発していました。この頃の誘拐事件は、身代金目的でした。
昭和から平成にかけての宮崎勤による幼女誘拐は、身代金ではなく殺人が目的だったのが、衝撃でした。
だから、学校でも家庭でも、知らない人に声をかけられてついていかないように、と子どもたちに言い聞かせているのです。
ヘレネは、幼女ではありません。スパルタ王妃です。9歳になる子どももいるのです。当然のことながら、言葉巧みな甘言で、騙されるとはとても思えません。
私たちが忘れてはならないのは、パリスの背後には、美と愛の女神アフロディーテがいるということです。「世界一の美女を娶る権利」はアフロディーテが保証したことなのです。女神には、息子にして従者である、弓をもったエロス(キューピッド)がいます。彼は、恋のキューピッドの矢を放ち、矢があたった人は、恋に陥るのです。
パリスは、王妃ヘレネを口説いたのです。人妻ヘレネは、若い美男子のパリスと恋に陥ったと考えるのが、自然なのではないでしょうか。
典型的な人妻の不倫ですよね。人妻が、若い独身男性と恋に落ち、夫と子供を捨てての駆け落ちというのは、古今東西、どこにでもある普遍的な現象です。
パリスと恋に落ちたヘレネは、夫と子どもを捨てて、駆け落ちをする決断をしたのだと思います。だから、「9歳になるヘルミオネーを後に残し、大部分の財宝を船に積み込み、夜明けとともに海に出た」のです。
このような解釈をしていると思われる絵画が、17世紀イタリアの画家グイド・レーニの「ヘレネの誘拐」です。
結びに代えて:グイド・レーニ「ヘレネの誘拐」
「ヘレネの誘拐」というタイトルがつけられていますが、ヘレネの表情を見ていると、これは明らかに自発的に国を出ていく様子ですね。
画面右下に恋の矢を放つエロス(キューピッド)が描かれていますから、グイド・レーニもそのことは意識して描いているのだと思います。
パリスと恋に落ち駆け落ちをしたヘレネの行為を、「誘拐」というのは、ヘレネの人格を無視した男の勝手な言い分だと思います。寝取られ男の戯言です。
ヘレネの出奔に怒り狂った夫のメネラオスが、兄のミュケナイ王のアガメムノンに泣きつくことで、トロイアへの遠征が決まるのです。それについては、次の投稿で書きたいと思います。
本日も最後までおつきあいいただき、有難うございました。