パリスの審判:2. アキレウスの両親の結婚の宴
パリスの審判をもたらす「事件」は、テッサリアのプティア国の王ペレウスと海の女神テティスの結婚の宴で起きました。宴席招かれなかった不和と争いの女神エリスが、「最も美しい方へ」と書かれた黄金の林檎を宴席に投げ込んだのです。
見出し画像は、16世紀から17世紀にオランダで活躍した、コルネリス・ファン・ハールレムの絵画「ペレウスとテティスとの結婚」(1592-1593)です。
王ペレウスと海の女神テティスとの結婚
ペレウスは、テッサリアのプティア国の王であるが、人間です。これに対して、テティスは海の女神です。人間と神とが結婚できるというのが、何とも不思議な感じがします。
海の女神テティスの結婚について、ローマ帝国の初期に活躍したギリシアのアポロドーロスが『ギリシア神話』の中で次のように書いています。
私の感覚から言えば、神というのは絶対的存在であり、それゆえに絶対的に正しいことをする存在です。それと真逆で、何とも「人間らしい」のが、ギリシアの神々です。
そういう何とも「人間的な」部分全開なのが、ギリシア世界の神々の王ゼウスです。悟りとは無縁の、欲望丸出しの存在です。多情であり、たくさんの妻を娶り、たくさんの子どもを生ませています。
その対象は女神だけにとどまらず人間界の美女にも手をだしています。
世界一の美貌を誇っていたスパルタの王妃ヘレネの父が、なんとゼウスなのです。ヘレネの母は、スパルタ王妃レダです。そのレダと白鳥に化身したゼウスの間に生まれた子どもが、絶世の美女ヘレネなのです。
これも絵画の主題としての人気の「白鳥とレダ」です。
話を元に戻します。ゼウスは、その美貌で有名だった海の女神テティスにも気があり、ちょっかいを出そうとするのですが、アポロドーロスが紹介しているような理由で諦めるのです。
ゼウスは、神々の王なのに、何とも器が小さいと思ってしまうのが、女神テティスと関係を持てなかったことの腹いせに、彼女に人間のペレウスを押し付けたという話です。
まぁ、権力者あるあるですよね。
女神テティスも、「なんで人間なんかと結婚しなきゃいけないんだ」と不満があったようで、早々に実家に戻っています。そのきっかけとなったエピソードは最後に紹介します。
祝宴に黄金の林檎を投げ込む
いずれにしても結婚の宴はめでたいものです。オリュンポスの神々が揃って出席しました。
ただ唯一の例外が、不和と争いの女神エリスでした。彼女だけは招待されなかったのです。確かに不和と争いの神を、お目出度い結婚の宴席に誰も招待したいとは思いませんよね。
憤懣やるかたない不和と争いの女神エリスは、宴席に黄金の林檎を投げ込んだのです。それには、「最も美しい方へ」と記されてあったから、さぁ、大変、我こそは、最も美しいと思う女神たちの争いで、大混乱になりました。
「最も美しい方へ」と書かれた黄金の林檎を巡っての、女神たちの争いが生じたというのですが、宴席の振る舞いとしてはなんともはしたないと思います。たとえ自分が一番美しいと思っていたとしても、どこか毅然として、宴席の雰囲気を壊さないようにするのが、女神としての有り得べき振る舞いのような気がします。
いずれにしても不和と争いの女神エリスの思惑通り、宴席はぶち壊しになったそうです。さすがはエリスですね。女性心理をよくわきまえた腹いせです。
なぜパリスに審判を
美貌を巡って最後まで譲らずに残ったのが、美と愛の女神アフロディーテ、神々の王ゼウスの正妻ヘラ、戦争と知恵の女神アテナです。三美神です。
女神たちは、誰が最も美しいかの審判を、神々の王であるゼウスに求めました。これはこれで妥当な判断です。
ところが、ヘラはゼウスにとって正妻、アテナは娘、そして、アフロディーテは父方の叔母なのです。この三美神のいずれも、ゼウスにとって身近な関係者でした。誰を選んだとしても残りの二柱の恨みを買います。カドが立つのは目に見えていました。
そこは賢いゼウスです。貧乏くじは引きたくないとばかりに、その役割を人間に押し付けることにしたのです。
この重大な役割を、どういう訳か、というか、実はこれは計算ずくだったという解釈もありますが、イダ山で羊飼いをしていたパリスに押し付けることにしたのです。
そこで、ゼウスはいつも彼の使い走りをしているヘルメスを呼び寄せ、黄金の林檎をもって三美神を、羊飼いのパリスのもとに案内させたという訳なのです。何の関係もないパリスこそいい迷惑ですよね。
終わりに
次回からは、パリスの審判の三美神の誕生のエピソードとその関係について紹介してゆきます。
少しだけ余談を:アキレス腱
国王のペレウスと、女神テティスとの間に生まれたのが、ホメロス描くトロイア戦争の英雄アキレウスです。
アキレウスは、神と人間のあいの子ですから半神です。神は不死身ですが、人間は死すべき身です。半神であるアキレウスも死すべき運命にあったのです。そのことを知っていた母親のテティスは、自分の子をなんとしても不死身にしたいと思いました。当然の母心ですね。
タイトルは、絵画の内容そのままです。「テティス、幼児アキレウスを冥府ステュクス河の水に浸す」です。女神テティスが、息子のアキレウスを冥府の聖水に浸すことで、どんな武器も跳ね返す無敵の肉体を息子に与えようとしているところです。
しかし、その時、女神テティスは、アキレウスの右の踵だけは掴んでいたのです。そこだけは聖水に浸からず普通の人間の肉体のまま残りました。そこが、アキレウスの弱点になったのです。これがアキレス腱の由来だそうです。
一気に時間は飛びます。トロイア戦争の終盤です。
羊飼いのパリス改めトロイアの王子パリスとアキレウスは、都市国家トロイアが遂に陥落する戦いの中で相まみえます。パリスは、兄のヘクトールをアキレウスに殺されていたので、その仇を討とうとします。
その仇討ちに神アポロンが加勢します。アキレウスの唯一の弱点を教えるのです。パリスは毒矢でアキレウスの踵(アキレス腱)を射抜き、彼が動けなくなったところを二の矢で心臓を射抜いて殺すのです。
女神テティスがアキレウスを冥府スチュクス河の聖水に浸して不死身にしようとした話に対して、先ほど引用したアポロドーロスは、違う内容の話を伝えています。こちらがシュールです。
半神である息子のアキレウスは、死すべき運命にありました。それを不憫に思った母親の女神テティスは、息子を不死にするために人間の遺伝子を受け継いだ部分を毎夜毎夜火で焼いていたのです。
妻の行為を不審に思っていたペレウスは、見張っていたのです。それを目撃されたので、女神テティスは、幼子アキレウスを棄てて実家に戻ったのです。
そもそも女神テティスは、人間ペレウスとの結婚に不本意だったようなので、良い口実になったのでしょう。
わが子のためとは言え、赤ん坊を火で焼いたという話は、当時の人にとってはともかくも後代の人にとってはあまりに残酷な所業ですよね。多分、それはさすがに受け入れ難くなったのだと思います。
その結果、その変形ヴァージョンとして、中世や近代の人に受け入れられるために、冥府ステュクス河の聖水に浸すという風になったのではないかと推測しましたが、よく分かりません。
少し長くなってしまいましたが、本日も最後まで読んでいただきありがとうございました。