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MT数学史#7 古代の数学③初等幾何学

なんといっても古代といえば初等幾何かもしれません。

しかし「何のため?その目的とは?」ということが、その初等性のためにわからないといえば分かりません。それは中学のときの僕たちもそうだったはずでしょう?何となく絵なら楽しくて綺麗で、正しいと思えて、そのうえ単なるパズルにとどまらず実用的である、ということから自然と発展した、といったところでしょうか。

とはいえ、出どころとしてはヘロドトス曰く、「幾何学はナイルの賜物」。毎年決まって洪水で流される土地の測量と再分配や税収決定、建築の設計と計算や作図といった必要のために発展したことは間違いありません。必要は発明の母。

とはいうものの、バビロニアにしてもインダスにしても中国にしても、いずれも幾何学についての結果はかなり残されています。内容が三平方の定理の応用あたりで横一線であることによって、「文化交流があったのではないか」とか「有史より更に前から、あらゆる文明の元となる文明があって分化したのではないか」などという都市伝説的なものまで予想は絶えません。数学書と内容という点では状況証拠は多くあるものの、直接的な証拠はまだありませんのでなんともいえない、というのが現状のようです。そりゃ安価な記録媒体も保存性の高いものもない時代のことですから仕方のないことです。

そして「古代といえば初等幾何」という印象を決定づけたのはその後のギリシャ数学ですが、ギリシャについては別の記事できちんと取り扱うのでお待ちを。ギリシャ以前・ギリシャ以後という境目は鮮明で、もはやこれは立派な数学ですので取っておきましょう。

ここではあくまで古代、とくに有史以前との境界が判然としない時代に知られていた幾何的事実と態度をすこしばかり紹介します。

幾何とはいえ平面幾何と立体幾何で内容は結構異なりますが、一方で思想的にはそこまで区別していないような感じです。

というのも、その構成物は二次元では直線・三角形・円、三次元では平面・柱・錐・球というわかりやすいものばかりで、目的が長さや面積・体積を求めることだったからなのでしょう。平面では三平方の定理を前提に未知数を求めたり、立体では公式っぽいものを使って具体的な体積を求めたりしています。「っぽいもの」といったのは、当時はまだ代数的表現も整備されておらず、数値的に準一般的解法が言葉で提示されているからです。説明というか証明っぽいものは散見されるものの、そもそも今でいう(ギリシャっぽい)証明にはあまり頓着していなかったようです。その公式自体も厳密に正しいものから近似に過ぎないものまでいろいろとあります。

しかし「厳密なものの方が偉く近似の方が劣る」というわけではないことには気をつけておきましょう。

そりゃ厳密にわかることの方がいいことは確かですが、あくまで測量やピラミッドなどの祭壇建築への実用が大切なことですから、原理的に測りきれない円や円柱などについてはどこかで近似に頼る必要があります。それは今でももちろんそうで、皆さんが見ている円だって細かく拡大すればガタガタなドットの集まりですし、それなりに満足いけば現実には良いわけです。

よくみて、心の目で

四角錐などの厳密にわかるものであれば厳密なものを古代人も既に得ていました。そしてそこで問題となるのは、「厳密には分かりそうにないものについていかに良い近似を得るか」という問題です。

となればとにかくも円周率でしょう。これで文明の高さがわかってしまうほどで、微積分による近代数学革命は円周率計算を高速化、コンピューターが発達した第二次大戦後はもう目も眩むほどですが、未熟とはいえ立派な古代人も、円周率をめぐって見事なまでの近似値を文明毎に工夫しています。初期のころは3というゴッツイ近似に始まり、256/81や訳の分からないほどの分数和などもあります。

基本的には多角形により近似をして得られるものが多いです。3などというのは六角形だと思ったもの、256/81は八角形とみなすと自然と現れたりします。

円周率以外にもさまざまな図形の面積や体積の公式を工夫しています。とくにピラミッドの四角錐台やオベリスクといった宗教的なものについては厳密な公式を得ているのは流石というほかありません。

しかし基本的には近似で満足しているようです。弦で区切られた円の一部や、それを二つ合わせた目のようなもの、切頂四角錐や円錐、穀物の山と思しき形の立体図形の体積なども公式化されたりしています。注意しなくてはならないのは、厳密に正しいものもあれば、正しくないものもあるということで、妥当な経験則と数値計算を基にしていただろうと思われます。今からすると特殊な図形に特殊な拘りとみえるようなことも、当時においては単に墨守正規ではなく実用の価値があったのかもしれません、しらんけど。

他にも、幾何学的モチベーションから得られる数学的題材としては平方根や立方根の計算などがありますが、これらはバビロニアや中国でみたように幾何から独立して式や算術の方へ抽象化されていきました。

むしろ幾何というのは多分にこういうところがあります。つまりあらゆる数学の源泉であるということです。現代とはことなり古代においては、幾何の対象そのものがあまりに純朴すぎますから深くなりようがなかった側面がありますが、それでもあらゆる数学的現象の始まりであり、完全なる正しさを直感することのできた唯一無二の形式だったのでしょう。子供から大人まで疑いえない真理を看取でき、だからこそ現実にも実用面で力をもつということが、理性と真実との宗教的一体へと高まっていくことになりました。ギリシャのようにここまでくると危ないけれど。

そんなわけで、

古代の初等幾何は初等も初等、題材は中学数学の域をでないというものの、円周率の近似計算や実用という点では算術以上に実学の王として愛され研究されていたのでした。

MT


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