映画「シンデレラマン」を観て
食料代、電気ガスが払えない1929年の大恐慌。主人公ブラドックはボクサーだったが、生活は苦しかった。手の骨折を隠して出場したためつまらない試合となりライセンスを剥奪された。骨折して働けなくなりそうなどうしようもない時には労働者仲間に救われた。国から生活保護のような手当も受けた。生活がさらに困窮する中で、ファイトマネーのために突然の一回だけの急な代役の「かませ犬」としての試合にに出た。そこで奇跡を起こし、その後、マネジャーの先見的な賭けとボクサーの妻の助けもあり、3人の子供達のミルク代のために連戦連勝を重ねて1935年にチャンピオンになるシンデレラ的なボクサーの物語だった。
この映画を通じて、偉大なアメリカは個人の努力と互助の精神が絶妙な塩梅によって成し遂げられたことが想像された。家族には暖かさ、仕事であるビジネスには冷淡さ、というルールがある。ボクシングという興行ビジネスは冷淡に行われる。しかし、多くの人が恐慌で苦しんでいる中で、主人公の復活劇は、恐慌からの回復と相まってその希望となる。「人生をこの手で変えられると信じたい」という個人主義と、妻の献身的な助けと、やんちゃな3人の子供たちという家族主義が偉大なアメリカの基礎を作ったのではないかと思えた。
それに対して日本の現実を考えると、「社会を皆でよくできる」と信じたい。30年前に可能だったバブル的繁栄という山が、現在の衰退という谷を経て、30年後の平和的繁栄という山の可能であることに賭ける。繁栄か衰退は2分の1だ。繁栄か衰退かどちらかだ。僕という間違いのような前提条件には、映画のようなシンデレラ的指数関数を組み合わせる。「社会を皆でよくできる」と信じる。