それは正義の名の下に。

「正しさ」とはなんなのだろう。

明らかに間違っていることってありますよね。間違ってしまったのなら、反省したり、改善したり、ときには謝罪だって必要でしょう。事と次第によっては様々な方面から罰せられることだってあるでしょう。大切なのはしてしまった間違いを2度と起こさないために気づきを与え、導くことである。
問題はここからで、じゃどこまでいけばその人は「許される」のでしょうか。「謝って済むなら警察はいらない」とはよく言ったもんで、確かにそうなのだが、じゃどこで許されるのかっていうのは明確じゃない。法的には許されても、心情的には許せないことだってたくさんあるし、その逆だってあることでしょう。僕が大切だと思うのは、許すことにはそれだけの心の力が必要だということ。そしてそこで起こってしまったことを再度起こらないようにするための、生産的な活動をその後にできるかということです。いつまでも許さないのは生産的ではないし、むしろそうやって正義の名の下で下された行為が、より大きな刃で他人を攻撃することになっているのではないかと思うことがある。自分たちは正義だと思い込んで他人を攻撃している方がよっぽどタチが悪いのではないだろうか。まさに「人の振り見て我が振り直せ」ですよね。あぁならないように気をつけて生きたいものです。そんな大人になって、子どもたちにどんな言葉をかけられるのでしょうか。あんな大人にはなりたくもないし、なる気もないし、なってほしくもない。本当に嫌な気持ちになったなぁ。

僕は自分の中にこれといった「正しさ」みたいなものはないと思っている。そしてそんなものをずっと大切に持ち歩いている方が馬鹿らしいとさえ思う。それらは時代よって変わるし、国や人、いくらでも視点や考え方はある。だからこそその都度考えなければならないのだ。常にどちらにも寄り添って、常にどちらとも距離をとって。「それはわかる。いや、でもね。」って言える人でありたい。
そしてときに押しつけられる「正しさ」という得体の知れないものに誰かが押しつぶされないように、そっと支えてあげられる人でありたい。いろんなところで「正しさ」を振りかざした暴力が行われている。それが全て悪いものなのかはわからないけど、それでダメになってしまう人がいては、なんの意味もないのだ。世の中は等価交換ばかりではない。マイナスのことをしたら、必ずその分のプラスをしてもらわなきゃいけないのだろうか。我々の活動は「0引く5を0」にすることだって、「1足す1を5」にすることだってできると信じたい。そこには個人の「許し」だったり、他者への「尊敬」だったりが必要だと思う。もっと人間らしく生きたいものです。

数学が嫌いで、テクノロジーを否定している割に、他人との関係を数学的に考え、ロボットのように基準に当てはめられて決められた通りに生きている人が多すぎないか?

たった1人のエラーがいたくらいで崩れ落ちてしまうほどの人生なら、壊してもらった方がいいのでは。だってそこまで壊してくれる人がいなかったのだし、その方がよっぽど建設的だ。いつまでも守り続けるほど大切な自分や、素晴らしい人間なんているわけないのにね。いつだって壊して強くしていくんだよ。それは筋肉の如く。さぁ今日も筋トレしてこよーっと!

Xデーまであと2日!

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