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マタニティリープ・ケース #1 「人生の転機:妊娠と出産の間に起きたリープ」

​​マタニティリープ主宰の渡辺有貴です。
マタニティリープでは、「マタニティを飛躍の機会に」をキャッチフレーズに、妊娠出産子育てについて語っていただくインタビューをしていくことにしました。聞かせていただいたことを許可をもらってケースとして文章化し、みなさんに読んでもらい、お役に立ててもらえればと思っています。初回は、子育てを完了したエルダーママのケースです。結婚から妊娠出産子育て、復職といったことがメインテーマになるケースです。
どうぞ、ご覧いただいて、もしよければコメントやシェア、お願いします。

Tさん。現在55歳。息子1人(26歳)
別居結婚ののち、夫の居住地広島へ移り住み、そこから新幹線通勤へ。
切迫早産を経て、一年で職場復帰。

子供が5歳の時、給料カットをきっかけに家族全員で実家のある東京に行き、職種変更して営業に。
営業時代の葛藤がコーチングへの興味に。
 
 第1部
<独身から結婚、妊娠まで>
大学を卒業後、通信大手企業に勤めていた。結婚したのは27歳。しばらく別居結婚(夫:広島と私:東京)していたが、数年後夫のいる広島に移り住み、職場のある岡山へは新幹線通勤だった。仕事場が東京から岡山に異動になってすぐに妊娠発覚。出産は29歳だった。
妊娠前、妊娠についてはニュートラルに感じていた。子供については欲しいとか欲しくないとか考えたことがなかった。妊娠の知らせに、え?私も子供産めるんだという感覚だった。
自分の両親は東京。夫の両親は住んでいる(広島駅)ところから電車で30分ぐらいのところに住んでいた。義理の両親とはあまり行き来はなかった。
広島から岡山の会社までは1時間半ぐらいなので、広島駅近オフィス街に住んでいた。(子供が生まれてからも公園デビューはなく、寂しい感じの場所だった。)妊娠してからもこれまで通りに仕事をしようとしていた。妊娠中も東京へ新幹線で出張したり、新幹線通勤を毎日していた。定期検診でも新幹線通勤はどうかと言われていたが続けていた。
つわりもあまりひどくないので、これまでの生活や仕事もできると思っていた。育児雑誌には妊娠中も動いたほうがいいと書いてあったので、よく歩いたりもしていた。仕事の後同僚と遊んで、終電に間に合うように走ったりというようなこともあった。周りに助言してくれる人も特にいなかった。仕事場にも妊娠出産期の女性はいなかった。
24週ぐらいに、広島の街中でお腹が痛くなり、病院へ行った。切迫早産と診断され、そのまま入院。33週で帝王切開で出産するまで、絶対安静になってベットに寝たきりの状態で点滴。NICUのある病院へ救急車で移動後、しばらくして、母体の状況が悪くなり、急遽帝王切開で産むことに。子供が生まれるという、心の準備がなかった。
10週ぐらい入院していた。その間にいろんな妊婦さんの状況を耳にしてきた。
健康に生まれるというのは簡単ではないと実感。
24週の時、赤ちゃんがこのまま生まれてしまったらどうしようという不安な気持ちを先生に伝える。先生は赤ちゃんの生命力次第だと言う。24週で生まれて、将来お医者さんになった子もいるし、その子の生命力次第なんです、と。自分の力ではどうにもできないものを感じた。生命力があれば、子供は生まれてくる。諦め、達観にも似たような感覚があり、それがずっと今も息づいている。
この経験は現在の仕事にも繋がっている。子供が生まれる前は自分でやろうと思えばできないことはないと思っていた。物事をコントロールしていけばできると思っていたので、この経験からコントロールを手放していくことを大事にしていくようになった。起きていることに価値を感じるという感覚だった。

第2部
<出産後>
出産後は点滴の影響(心臓に負担があり、脈拍が常に高く、マラソンしているような)から解放され、とても楽になったので、 気分がハイになった。病院を歩き回りたい!でも起きるとめまいがする。しばらくリハビリしながら過ごした。
でもその後、気分が落ち込んだ。赤ちゃんが小さかった。未熟児にしては2200gなので小さくはないが、保育器に入っていた赤ちゃんをみて、びっくりした。普通の赤ちゃんとは違う容貌にショックを受けた。責任を感じた。自分を責めるような感覚、大丈夫なんだろうか?育つんだろうかという不安もあった。
自分自身は15日後に退院し、そこから1人、搾乳して、母乳を保存。搾乳した母乳を届ける日々。
10月30日に生まれて、赤ちゃんは12月末までの2ヶ月、入院していた。出産してすぐに保育器に入ったので、退院近くまでほとんど触れることができなかった。自分はというと、寝たきりだったため、退院しても体力が元に戻らない。バスのステップさえものぼることが難しかった。
子供の入院する病院の看護師さんが愛のある日記を書いて、渡してくれた。足形のハンコなどを添えて。看護婦さんの優しさ、愛のある姿勢、明るさに救われた。助けられた。人に助けられる感覚を持った。トイレさえも介助してもらう。そういったことを当たり前のこととしてやってくれる看護婦さん。今も心に残っている。
子供が退院して家にいるようになってからは必死だった。「息してるのかな?」毎日毎日、おっぱいを飲ませては体重計に乗せる。一生懸命だった。冬だったので、外に出ることもなく。3月ぐらいまではうちにいた。自分が切迫早産で入院したことで、義理のお母さんが家にきてくれるようになり、行き来がしやすくなった。子供が家に戻ってきてからは、復職したり、病気になった時にも、子供を預けたり、自宅に来てくれるようになった。
オフィス街に暮らしていたので、孤独の日々は続いた。家族づれには一切会わないような場所だった。孤独感が募り、見知らぬお母さんたちの間での交換日記を知り、始めるようになった。7、8人でお手紙のようにしたためたノートを回していた。

第3部
<復職>
休職中、不意に会社から電話がかかってきた。分社化しますという話。転籍になります、と。会社からは1年以上離れていたので、抵抗もせずに受諾。復職する方向で保育園を探す。その時もガンガン働こうと思っていて、公立保育園では無理だと思い、24時間保育をやっているところで決めた。
いろんなことがあったけれど、仕事に対する感覚は変わっていなかった。24時間365日働けます、という自分は変えないまま復職したいと思っていた。
子供も大きくなる中で、働きたかった。バイトでもよかった。当時は自分にとって働くということは、生活の中で当たり前のものであった。働き方にも疑いがなかった。そういうものだった。
3年育休が取れるところを1年で戻った。
新幹線通勤で広島から岡山へ通った。
職場復帰して1、2ヶ月、子供がやたら病気になる。子供はアレルギーがあって、アトピーがひどくなっていって、夜が眠れなかった。夜起きて泣くことが続いた。2歳から2歳半ぐらいまでそんな状態が続いた。夜中も起きて世話をする日々。2歳からは喘息にもなった。家に帰ってくると苦しそうなので、背負って病院へ行く日々。仕事はフルタイムか半日勤務しか選べず、半日勤務をやむをえず選択。今思うとこんな日々を送る体力はどこにあったんだろうと思う。
引き続き、岡山に新幹線で通っていた。往復で2時間の新幹線通勤の合間に勉強し、情報処理資格試験に合格した。子供が2、3才のころだった。この資格は会社で持つことが必須とされていた。最低限知っていないといけない知識を網羅している試験だった。自分は文系で周囲は理系が多かったので、合格は自信にもなったし、仕事をやっていこうという思いも強くなった。
子供の重い喘息が3歳ぐらいまで続く。3ヶ月に1回ぐらい、合計5回ぐらい入院をした。親も一緒に病院に泊まらないといけない。有給休暇が年間で20日あったが、それがなくならないかがとにかく心配だった。病院から会社に通う日もあった。自分は具合が悪くても休まない。自分は倒れないという強いメンタルだった。

夫の子育てへの協力のなさに対して不満に思っていた。
子供が生まれてからも子供が病気になったりした状況で、仕事だから休めないと一言で片付けられる。いつも休むのは私という遺恨があった。自分のキャリアも影響をうけ、昇給もしない。彼は思いっきりやれて、私はどうして思いっきりやれないのか、という感覚を持っていた。
日々の目の前のことに必死に対処していたので、もう一人子供を持つとか、状況を変えていくということに関しては、何も考えられなかった。生き延びるのに必死だった。
<東京へ>
子供が4歳になる頃に、分社化した会社は給料3割カットという通達が来た。腹が立って、広島で転職をしようと思い、そのことを夫に伝えたら、東京で面白い仕事ができるなら、東京に行こうよと言われた。転職はせず、東京への異動願いを出した。夫は先に会社をやめて、先に東京の実家(私の)で転職探し。その間自分はワンオペで広島で子育て、会社にも通っていた。その頃保育園の送り迎えを義理の親がしてくれていた、朝晩と家まできてもらえたのはありがたかった。
ちょうどその時に子供が原因不明の難病にかかり、1ヶ月入院。退院してからも子供が日常生活にサポートが必要な日々。それでも会社に通った。よくやめなかったと思う。それが落ち着く6歳ぐらいまでも必死だった。
子供が5才になったころ、分社化する前の会社に戻り、東京で仕事をスタートさせた。

第4部
<東京で初めての営業>
これまでやったことのない営業の仕事につく。実は営業はこの会社でやりたかったことだった。これまでSEをしていたが、営業という役割で顧客と直接やりとりをしながらする仕事になった。やりたかったことが現実になった。
 
堰を切ったように仕事をした。これまでは半日、4時間しか仕事ができなかったのが、東京に来てからは思い切り仕事ができた。実家から歩いて5分のところに住む場所を借り、夜も子供を預けて仕事ができる環境を整えた。毎晩11時、12時まで働く日々だった。会社から1人1台パソコンを支給されたので、子供を寝かしつけて、そこから仕事をするパターン。


これまで営業がない会社だったので、0から飛び込み営業をするような状態で、無我夢中でやっていた。理想のイメージがあったので、どうしたらその理想な状態に近づけるのか、夢中になってやっていた。

保育園は夫が送りに行き、お迎えは実母、子供は実家でご飯を食べ、私が早く帰ってきた時は、一緒に家に帰り、私の帰りが遅い時はそのまま実家に泊まる日々が続いた。


ある時、実家の母が「孫がこんな生活で可哀想」とぼやいたことにキレた。専業主婦の母と働く母である自分のギャップ。母は自分を男性と同じぐらい働けるように育ててきたのに、今更そんなことを言われたことに腹が立った。男性と対等にという意識があったので、なおさらだった。当時は酒も飲めて、朝まで仕事。それができて男性と同等だという意識があった。
夫も転職で1からだったので、必死だった。
営業をやるにつけ、何億という仕事も担当するようになった。そうしているうちに、ぎっくり腰で20日ぐらい寝たきりとなり、動けなくなった。そんなことが2、3回あった。子供の健康状態はかなりよくなっていたが、今度は自分が動けなくなる。その頃から、業界自体の先行きが暗く感じるようになり、会社の文化に対しても疑問を持つようになった。

転機になったのは、営業のプロジェクトリーダーをやっている時に、ある優秀な新入社員の子が辞めてしまったこと。ショックだった。自分はモチベーション高く、引っ張っていけている人だと思っていたが、そうではなかったのか。そして出会ったのが、コーチングだった。ある人にコーチングに行ってみたら?と言われ、ワークショップに参加した。
 


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